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ベアトリーチェ・ディ・メディチの肖像9

ーヴェネツィアー

鳩が群れなし真紅に黄金の獅子の旗が翻るヴェネツィア、サン・マルコ大聖堂前の広場。 朝日が降り注ぐ中、仕事始めを告げる鐘が鳴り響くと鳩は一斉に飛び立った。

アドリア海を望むこの水の都は大聖堂を中心にいくつもの細い運河が張り巡らされている。早朝とあれば朝市の立つこの辺りも、その時間帯には少し遅いと見えて人影はほとんど見当たらない。まもなくすれば大聖堂に来る人や物を売る人間でこの広場は埋め尽くされてしまうはずなのだが。

その、閑散とした広場の上手から一艘の黒い、小さなゴンドラが流れてきた。乗っていたのは肌が浅黒く、目元が切れ上がっている一目でトルコの混血とわかる顔立ちの青年だった。手にした羊皮紙を睨んでは薄い唇を引き結んで何やら思案にくれている様子であった。

櫂を漕ぐ音と搔き分けられる水の音以外は何一つ 物音のしない静寂は、しかしゴンドラが広場の前を通過しようとした瞬間に破られた。

「サーリ厶!!」

自分の名を呼ぶ聞き慣れた声に男はふと羊皮紙から顔を上げ、そこに予想したであろう姿を見出すと漕ぎ手を振り返ってゴンドラの速度を緩めるように言った。

「よう!」

やがてものすごい音響と震度と共に声の主は現れた。ゴンドラに飛び込んだのである。

「ハヴィ様、もう少し大人しく乗り込んでいただけませんかね。ゴンドラがひっくり返る じゃありませんか」

「なーに、どうせ今は夏じゃねえか。すぐ乾くだろ。涼んだと思えばいいじゃねえか」

サーリムは呆れ顔で目の前の主人を見つめた。

マルコ・ハヴァイヤット・カペッローそれがこの威勢よく現れた青年の本名である。今年20歳。代々元首、総督を出してきたヴェネツィアでも屈指の貴族の家柄である。そして何より特筆すべきことは彼自身がこの若さでヴェネツィアの現元首であるということだった。 確かにこの漆黒縮れっ毛の明るさに溢れる青年は12、3の頃から海に出て、トルコとの小競り合いでその戦法・ 戦略の才を見せてはいたものの、去年19の若さで前元首ジョルジュ・グリエルモからその地位を譲られた時には、口さがない者達はマルコがグリエルモをたぶらかし、まんまと 元首の座をせしめたのだ、などという噂を囁き合ったものだった。(当時、ヴェネツィアでは男性は海の上で生活することが多かったので男色は珍しいことではなかった)

その噂が真実だったのかは確かめるすべもないが、マルコはそれだけの噂が立ってもおかしくないほどの素行は充分にあったのだ。名門の子弟にありがちな無気力さとは露ほども縁のなさそうなこの青年は、幼い頃から元首や総督になった先祖の肖像を見て育った。彼がいつの日か自分も元首になるのだと思った所で何の不思議があろう。彼にはそれだけの才能と 血筋、野心があったのだ。その事実は最終的に彼を元首に認めたヴェネツィア 評議会が一番よく知るところだろう。

「それにハヴィ様、昨夜はパラッツォ・ デュカーレ(元首宮)にお戻りにならなかったでしょう? あまり心配させないでくださいよ。ヴェネツィア内は 今の所落ち着いているとはいえ、トルコの暗殺者が目を光らせてあなたを狙っているんですから」

「俺が切り刻まれた死体になってサン・マルコのてっぺんにぶら下がってるとでも思ったか? それとも運河に浮かんでチャプチャプ…」

ゴンドラの縁にもたれかかったマルコはからかうように手を振って見せた。

「マルコ様」

「……」

サーリムの切れ長の目が 思わず吊り上がった。マルコはしまったというように舌を出した。サーリムは物静かな口調で主人の正式名称を口にした。日頃、彼が主人を呼ぶ時に使っているハヴァイヤットー ハヴィーという名は海に出ている時の呼び名で、普段陸に上がって政務を執る時はマルコの名で通している。ハヴァイヤットの名は海で生死を共にした仲間達にしか呼ばせない。マルコは陸と海での生活を割り切っているようだった。 そして陸でもハヴァイヤットと呼ぶことを許された唯一の者がこの サーリムなのである。

サーリムもマルコの信頼を汲み取ってハヴィ様で通しているが、主人の悪ふざけが過ぎた時や反省を促す時などはごくたまにマルコ様と呼ぶのだった。マルコにはこれがかなり応えるらしい。今も機嫌を取るように口を開いた。

「冗談だ… 女の所に泊まったんだよ。レティシアんとこ。本当は昨夜のうちに帰るつもりだったんだがあいつがなかなか離してくれなくてさ…これ以上聞くなよ、 野暮ってもんだぞ」

「それは構いませんがね、昨日私とお約束していた船の見回りはどうなさったんです?ま、女の所にいたっていうんならどうせまだ行かれてないんでしょうけど… お会いできてちょうど良かった、私も今から赴こうとー」

「 船の見回りならもう行ってきたぜ」

「ーー?」

マルコはマントの紐を解き、チュニックの襟をくつろげながらサーリムを見た。

「だってお前と約束してたからな。時間に遅れちゃ大変とレティシアを振り切って行ったのに肝心のお前はいやしない。もっと俺を信用しろよな。俺が今までに約束を破ったことがあるか? 俺は評議会の頑固親父共はすっぽかしてもお前との約束を破るような真似だけはしないぞ。お前は特別なんだからな、サーリム」

「それはーどうも」

結局のところ マルコの崇拝者であるサーリムである。主人の素行の悪さを今日こそは嫌というほど反省させてやろうと思ったのも束の間、愛嬌溢れる笑顔を向けられては何も言えない。”まぁ船の見回りには行ってきたと言うし…” サーリムはつぶやきながら小さくため息をついた。と、その時。

「サーリムこそ、ここで何やってんのさ?封書なんぞ持ってずいぶん 難しい顔してるじゃないか」

「…」

混血の従者は主人に封書を取り上げられると途端にもとの表情の厳しさを取り戻した。

「フィレンツェに放ってある間者からの報告です。メディチの動きと姫の様子を探らせているのですが… 少々不都合なことが…」

「どうしたんだ? ロレンツォ・ マニフィーコがトルコと手を結んで仲良く攻めてくるっていうのか?」

「いえ、それほど性急な問題ではないのですが 、しかしこのまま見逃してはハヴィ様の御名やひいてはヴェネツィアの名誉を汚すことになりかねません」

「…はっきり言えよ、サーリム」

「つまりーメディチの姫のことなのですが、彼の姫はこの春フィレンツェにやってきてパラッォ・メディチに逗留している男と非常に親しく接していると。その睦まじさは宮廷ではかなり有名になっているそうですが…ロレンツォは一向に感知しないそうで…もしそれが真実ならばこちらとしても早急に対処せねば」

「ほう?」

片手で水面をパシャパシャ叩きながらマルコは無関心な様子で話を聞いていた。

「だがメディチの娘とその男がデキてるというわけでもないんだろう?」

「今はまだ…おそらく」

「ならば俺にはどうでもいいことさ。うーん何と言ったか、あのメディチの娘ー」

「ベアトリーチェ」

「ああそうだ、 ベアトリーチェ!あの話なら俺がもらってやるということでケリがついたんだろう?だったらもうそんな話はよせ。俺は8つも年下の子供になんか興味はない」

「へぇそうですか?その割には見目形がどうのこうのとおっしゃっていたように記憶しているんですがねぇ、私は」

先刻の仇を取るつもりか、からかうようにニヤニヤと笑っているサーリムに悪怯れる様子もなくマルコは答えた。

「そりゃそうだ。どうせ押し付けられる女なら美人の方がいいに決まってる。醜女はまっぴらだよ。普段は寄りつかなきゃそれでいいけど公式行事じゃそういうわけにもいかんしな。それからなぁバカなのもゴメンだ女は賢すぎるってのも考えもんだが、元首夫人ともなりゃそれなりの知恵のある女じゃなけりゃだめだぜ」

「美人でなければというのは怪しいものですが、さすがに元首夫人の条件は考えてらしたんですね。しかしハヴィ様、不安の芽は実にならぬうちに摘んでおくのが君主たるものの鉄則かと存じますが?」

「メディチの娘との婚礼を早めろって言うのか?俺はそんなの嫌だからな!残り少ない独身生活を謳歌してるって言うのに…お前だって嫌だろう?もう俺はお前一人のもんじゃなくなっちまうぜ」

“奥方が1人増えたところで変わるようなしおらしいあなたですか?”

何だって?と聞き返したマルコにサーリムは首を振った。

「そうではありません。実はこのサーリムにちょっとした案があるのですが…姫と男の接近を阻み、且つメディチ内部にひびを生じさせてやろうと…少々面白そうな情報が手に入りましたのでね」

「へぇー話してみろよサーリム」

それから後は顔を寄せ合った2人の会話はほとんど聞き取れなくなった。密謀にふけるヴェネツィア元首その軍師を乗せてゴンドラはパラッツォ・デュカーレをを目指し、しずしずと運河を進んでいった。

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