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ベアトリーチェ・ディ・メディチの肖像8

1491年・初夏



たまゆらに    うつろう青春(はる)

なにゆえに   かくも麗しきかな

いざや諸人(もろびと) 喜びの時は現在(いま)

あした来るもののさだかならねば・・・



「その詩は…きれいな旋律だね」

「お父様がお作りになった詩なのよ」

ミケランジェロの奏でるリュートの調べに合わせて詩を朗読していたベアトリーチェは倭文の言葉に嬉しげに答えた。

倭文がこのパラッツォ・メディチの客となってから早2ヶ月が過ぎ、季節は初夏を迎えていた。乾燥して滅多に雨の降ることのないこの季節は、石造りの回廊を渡ってくる風もひんやりと頬に心地よい。このところ倭文はずっと午後のほとんどをベアトリーチェやミケランジェロと過ごし、夜は宴がない限り執務を終えたロレンツォと話し合うという毎日を送っていた。

「でもね、綺麗だけど哀しい詩だわ。そう思わなくて?美しいものや楽しいことは長続きしないなんて」

「だからこそ今を楽しみなさいって言ってるんですよ。ほらリーチェ嬢様、昨日の明の辺境に開けた砂漠の中の洞窟美術館、あの話のお礼に今日は倭文様に踊りを教えて差し上げるとおっしゃっていたでしょ。伴奏は私がしますから」

「もう、ミケランジェロったら…」

顔を赤らめたベアトリーチェは、促すミケランジェロに照れ隠しに膨れてみせた。ところが、彼女が振り返った時に風に吹かれた一房の金髪がミケランジェロの手首のボタンに引っかかってしまった。

「きゃっ」

「リーチェ嬢様」

反射的に髪をボタンから外そうとしたミケランジェロは、それが利き手だったということを忘れていた。手を上げてしまってから、ベアトリーチェが痛さに声を上げまいと必死にこらえている様子に気がついて硬直したように動けなくなってしまった。目だけはキョロキョロと動いているものの、すっかり困惑状態である。

「2人とも、じっとしておいで。すぐに解くから」

倭文の指は器用に動いて、ミケランジェロの手首とベアトリーチェの髪はつかの間の抱擁から解放された。

「リーチェ嬢様!お怪我はありませんでしたか?痛くされたところは?申し訳ありません。ああ、せっかくのお髪が乱れてしまった…」

「大丈夫よ、ミケランジェロ。気にしないで…大丈夫…だから……」

髪に手をやりながら言っている間に、ベアトリーチェのセルリアンブルーの瞳が潤み、薔薇色の唇が震える吐息を吐き出す。それを見て飛び上がらんばかりに驚いたのはミケランジェロであった。端で見ている者があればミケランジェロの方が怪我をしたのだろうと思うに違いない。

「じ、嬢様…」

「ごめんなさい。本当に何でもないの…ただ、ちょっと驚いてしまったの」

「本当に”あした来るもののさだかならねば”だ。だけどねベアトリーチェ、そう嘆かなくても…ほらごらん」

優しくあやすように言いながら、倭文のしなやかな指は近くに咲いていた白く小さなオレンジの花を手折って、ベアトリーチェの波打つ黄金の髪にさした。

「こうすればもう髪が乱れたなんて誰にもわからないよ。オレンジも今が満開だからいい香りがするし…オレンジは嫌い?」

「いいえ、大好き」

瀟洒なレースのハンカチで涙を拭うとベアトリーチェはにっこりと笑って立ち上がった。

「そうだわ、ミケランジェロ。あなたがギルランダイオ親方の工房に行った時に覚えてきて聞かせてくれた、お父様の詩に曲をつけた歌を歌って欲しいの。私、踊りますから…倭文様、見てらしてね。美しい曲なのよ」

「ええ」

「2回目からは倭文様も踊るんですよ。美男美女でさぞ絵になるでしょう」

ミケランジェロは目配せをしながら、澄んだテノールで歌い始めた。



ちょうどその頃、中庭に面した ロレンツォの書斎ではジョヴァンニが父親の仕事を手伝っていた。

「次はこれだ。ミラノの密偵からの報告書だが、スフォルツァ家の反応は何と?あそこもヴェネツィアと手を結んで海上権を手にしたがっていた… ベアトリーチェがカペッロ家に嫁ぐことを知ったらカペッロと敵対する家に姫を送り込むことぐらいそうなのだがージョヴァンニ?」

書類にサインしていたロレンツォは羽ペンを置くとジョヴァンニに目をやった。

ジョヴァンニは封印の蝋を切ろうとナイフを片手に持ったままの状態で窓の外に醒めた視線を投げかけていた。

「ジョヴァンニ、何か興味を引かれるものがあるのかね」

常に神経を研ぎ澄ませているような息子の珍しい放心状態に、ロレンツォは厳格な君主の表情の下から父親の微笑を覗かせた。

「ー申し訳ありません、父上」

父の口調が変わったことに気がついたジョヴァンニはにわかに放心状態から覚めたようであった。慌てて手紙を開こうとしたジョヴァンニを押し止めてロレンツォは窓を開けるように言った。

「少し休むこととしよう、ジョヴァンニ。そなたもこの春にピサから戻ってきて以来、枢機卿としてローマに赴いたり、メディチの公式行事が立て続けにあったりで少し疲れが出てきているのではないか?たまには狩りをしたりアカデミア(自身も学者であり、芸術家であるロレンツォが古代の哲学者、プラトンの学堂を模倣した集会)を覗いてみてはどうかな」

「お心遣いは恐れ入りますが父上、私は手段としての芸術は必要かと存じますが、それ以外の何物としても芸術を見ることはできませんので…芸術を目的とするのはミケランジェロのような手合いに任せることにいたします。竪琴やのみでは国を治めることはできませんでしょう?私はそれよりも剣を帯びていたいのです」

「これはなんと物騒な枢機卿であろうか?」

「父上!」

眉を寄せて父親に抗議の色を見せると、ジョヴァンニの顔は日頃の老成した印象から年相応の少年らしいそれとなった。

「冗談だ。そなたは充分にこのフィレンツェを、メディチを守ってくれておる。ヴァチカンにあっては法王や枢機卿たちの、ピサにあってはミラノやフェラーラ、各国の思惑を逐一報告。この群雄割拠の世にあって国を守っていくには何よりも正確な情報が欠かせない。そう思ってマッダレーナをイノケンティウスのもとへ送り込んだが、やはり女は自由に身動きが取れぬからの。結局、家を守るのは男だ。ゆくゆくはピエーロがこのメディチの当主、ジュリアーノは傍らで統治の補佐をと考えているーどうもピエーロは統治者として向いてないところがあるのでな。まぁあれはあれで芸術家の良いパトロンになるだろうがージョヴァンニ、そなたはこれからもこのメディチの影の守護者として国と家を守っていってほしい」

「誓います、父上ー神かけて…」

満足げに目を細めたロレンツォはふと、窓の外から流れてくる自作の詩を聞き止めた。

「あの歌はーミケランジェロだな?ということは傍らにベアトリーチェや倭文殿もいるのだろう。ジョヴァンニ、さてはミケランジェロの歌に酔っておったのか。ミケランジェロは絵や彫刻の天才だが、どういうわけか音楽の才にも恵まれているらしい。吟遊詩人のような美声であろう?」

「ええ全くー芸術の為だけに生を受けたような男ですね。誤解のないように申し上げておきますが父上、私は歌を聞いていたのではなくてその歌で踊っている者達の方を見ていたのですよ。数々の国をさまよってここへたどり着いた黒髪の客人ならばいざ知らず、栄えあるメディチの公女で来年にはヴェネツィアの元首夫人になろうという女があんなにあられもなく笑い声を立ててー本当にあんな子供にそんな大役が務まるものでしょうか。ルクレツィア姉上やローマに嫁がれたマッダレーナ姉上、その他の姉妹だって皆あの年頃には優雅で淑やかな貴婦人だったのに……あれでは野山を駆け回る百姓女と変わらない」

「そなたの言い様を聞いているとベアトリーチェはまるで手のつけられない跳ね返りのように聞こえるぞ。それでは何かね、ジョヴァンニ。ベアトリーチェは第2のカテリーナ・スフォルツァやイザベッラ・デステのようになるとでも言うのかね?」

「冗談でもしたくない想像ですね。そうではなくてーベアトリーチェは大変愛らしい娘だとは思います。気まぐれにくるくると変わる表情やミケランジェロのようなヤクザなものにも慈悲深いし…しかしあまりにも自分に正直すぎます。フィレンツェにいる間は父上や私が守ってやることもできますが、嫁いだら周りは敵ばかりだ。相手はベアトリーチェの一挙一動を見張っているのですから。いえ、見張りは嫁ぐ前からついていますね、父上?このパラッツォ・メディチの使用人になりすましてベアトリーチェの様子を伺っている得体の知れない人間をよく見かけますよ、この頃は」

「全くそなたは隙がないのう」

のどかに笑うロレンツォの言葉を遮ったジョヴァンニは椅子から立ち上がり、窓辺に向かいながら囁くように呟いた。

「ですから父上、私は思うのです。ベアトリーチェとあの客人、一緒にさせておいてはどのような噂が広まることか…現に今だって手を取り合って踊っているのですから。宮廷雀や間者など、見るものが見れば格好の噂の種ですよ。このままではヴェネツィア本国まで伝わるようなことに…」

「だからと言ってヴェネツィアに何ができる?」

「父上ー」

「噂はあくまでも噂にしかすぎぬ。こちらが認めぬ限りはな。ヴェネツィアも今は対トルコ防衛のためにトルコ寄りのフィレンツェを懐柔したがっている。フィレンツェの力が喉から手が出るほど欲しいのだ。そんな噂ぐらいでどう出るわけでもなかろうよ」

「しかしミラノのスフォルツァ家をはじめとしてヴェネツィアの海上権を手に入れたがっている国は数多くあります。それらの国々がフィレンツェにとって変わったらヴェネツィアがフィレンツェを裏切るのは容易なことではありませんか?」

「ジョヴァンニ、そなたは今さっきフィレンツェを守ると約束したばかりではないか。この父がそなたに託すこの花の都をそんなに取るに足らないものだと思っているのかーフィレンツェは強国だぞ、そしてその力は底知れない。フェラーラやミラノ、マントヴァなどが束になったところでフィレンツェには及びもしない。ゆえにヴェネツィアもフィレンツェを恐れて手を結ばざるを得ないのだ。だからそなたもベアトリーチェのことは多少多めに見てやりなさい。何、あれはまだほんの子供の戯れに過ぎぬ。ベアトリーチェも嫁げばそなたの言うように囚われと変わらぬ身。せめて嫁ぐまでは好きなようにさせてやりたい」

ロレンツォも息子に続いて窓辺に寄った。が、その足取りは春の終わり頃から出始めた痛風の病のせいで、足が思うように動かぬ為にいかにも大義そうだった。常ならば鋭い眼光が湛えられているその目に愛しげな光を浮かべてロレンツォは自らの未来を思い煩うことも知らずに頬を紅潮させて踊る娘を見つめた。

「ー今のうちだ。せいぜい楽しむが良い…戯れならば…の」

“いざや諸人 喜びの時は今ぞ あした来るもののさだかならねば”

美しく、哀しげな旋律は未だ中庭に響き渡っていた。

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