ベアトリーチェ・ディ・メディチの肖像10
「ジョヴァンニ、起きていて?」
夜も更けてさしもの不夜城 パラッツォ・メディチも寝静まった頃、宮殿の北側に位置するジョヴァンニの部屋の扉がそっと叩かれた。
「ーーー」
いらえはない。真夜中の訪問者はしかし鍵がかかっていないことを確かめると夜そのもののように部屋へ滑り込んで後ろ手に扉を閉めた。
よく磨き込まれた大きな机。革張りの椅子。机の上にはインク壺とペン、インクを乾かす為の砂入れ、ジリジリとはぜる蝋燭ーメディチの次男としてはかなり質素な部屋だが仮にも枢機卿と呼ばれるものにしては聖書のひとつも見当たらない 。
「眠ってるの、ジョヴァンニ?風邪を引いてしまってよ」
訪問者ーマリーアは自分の黒繻子のガウンをジョヴァンニの肩にかけてやった。ジョヴァンニは身動きひとつしない 。常ならば近づくことはおろか、その部屋に義姉を入れることも厭う彼である。しかし今夜の彼は爪を噛みながら机の一点を見つめ、心ここにあらずといったふうであった。
「ジョヴァンニ起きていたの?まぁそんなに難しい顔をなさって…今度は法王への近道でも考えてらしたの。ほどほどになさらなきゃ。侍女達が言っていたわ。あなたが少々疲労気味のご様子ですって…私、薬を調合してきたのー」
「ベアトリーチェ…」
「え?」
「ベアトリーチェがー」
「ベアトリーチェがどうかして?」
薬の紙包みを開き、ガラスの水差しから水を汲もうとしたマリーアの手が 一瞬止まる。
「あの男…倭文といったか…あれとまた一層仲が進展しているらしい。以前は昼のわずかな時間詩を読んだり楽器をいじったりしているだけだったのが、近頃はミケランジェロに肖像画を書かせている間の話し相手として朝から夜更けまで部屋に通しているとあれの乳母が言っていた。しかもミケランジェロめが倭文を引き入れたらしい。ベアトリーチェもいくら幼いとは言え、メディチ家の公女に生まれたからには恋愛ごっこと結婚の区別もつかぬほどの愚か者ではないはずだが、しかし事は…」
「ーベアトリーチェのこととなるといつも目の色を変えておいてね、ジョヴァンニ」
黒ずくめの衣装の上にある青白いデスマスクのようなマリーアの顔は嘲りと淡い悲しみに彩られてジョヴァンニに向けられていた。
「何だと…?マリーア、薬などいらないから僕の部屋から出て行ってくれないか。いつも言ってるはずだが?許可なしに入ってくるのはやめてくれと」
「あら隠すことはなくてよ…その気持ちは私が一番知っているのですもの。あなたはベアトリーチェを愛しているのよ。兄としてではなく…ね。愛しているから側から離したくはない。でもそれが無理ならばせめてベアトリーチェに真実の愛に目覚めて欲しくはない。だから政略結婚なら許したというわけ。それが枢機卿の立場にあるあなたが取れる唯一の手段ですものね。その点私は安心ね。あなたは聖なる神の下僕 だし、おまけに同母の妹が恋敵。どう考えたって悪いようにはならないもの。ねえ私達はとても似ていると思わなくて?私はもしかしたらあなたのその暗い血筋を愛してるのかもしれない」
「馬鹿な…!」
張り詰めていた空気が一瞬にして萎えた。
机に打ちつけられた拳が小刻みに震えている。日頃、年には似合わず冷静な枢機卿として 海千山千の法王や枢機卿達と渡り合っている彼だったが、その動揺が自分の言葉を自ら否定していた。
「私に任せて欲しいの、ジョヴァンニ… 悪いようにはしないわ。愛しいあなたを思い煩わせるものは全て私が片付けてしまう」
マリーアの青白く、骨張った手がジョヴァンニの頬を後ろから妖しく包み込んだ。ジョヴァンニはまるで魔法にかかったように身動きしなかった。マリーアは恍惚とした笑みを浮かべて彼の耳元で囁く。
「その、机の上にある封書…カペッロ家の封印だわ。その中にあなたを悩ませる元凶が入っているのでしょう?そして封は今切ったばかり。ということは殿様には内密の相談事。 私、あなたの部屋にヴェネツィアの密使が入る所が水晶に映ったのでここへ来たのですもの」
「マリーア、そなたやはり黒魔術を使う女だったのか?」
「…黒魔術なんて大げさにおっしゃるけど、女は皆その力は持っているのよ。水晶など使わなくたって愛しい男の考えていることぐらいすぐにわかるわ。私はその力を隠さないからより強力に使えるだけ。そして男の両手両足に、1本1本自分に繋ぐ運命の糸を絡めていくのよ。皆やってることよ、ビッビエナの夫人やヴェスプッチの妾も…ベアトリーチェだって今はまだ子供だからあのように清らかな様子でいられるだけ。今に…いえ、もしあの倭文という流れ者を本気で愛し始めたらあの子からはもう天使のような清らかさは掻き消されてしまうでしょうよ」
「ベアトリーチェをお前と同類の女だと思うなよ。あれは神が我がメディチに…僕に下された天使なのだ。お前のように平気で他人を中傷する汚れた女とは雲泥の差だ。純粋さゆえに騙されやすい。父上があのご様子では守ってやれるのは僕しかいない。今のうちだ、今のうちにあの目障りな倭文という男を…」
マリーアはなだめるようにジョヴァンニの肩を軽く抱いた。
「ええわかっているわ、ジョヴァンニ。ヴェネツィアからもそう要請が来たのでしょうー倭文を消せーと」
ジョヴァンニは眉間をつまみながら机の上にあったカペッロ家の封書マリーアに投げた。
「ああ…しかしあの男は父上も大層お気に入りだし、フィレンツェがヴェネツィアの言いなりになるのは メディチ家の者としての誇りが許さぬ」
「つまりー倭文の暗殺にはフィレンツェが一切関わらなければ良いこと…」
封書を巻きながら薄い唇の端にぞっとするほど残酷な笑みを浮かべてマリーアはジョヴァンニを見つめた。
「だから私にお任せなさいと言ったの。私は伊達にメディチの黒魔女という名に甘んじてきたわけではないのだから。闇の世界に少しのツテは持っているわ。そこからヴェネツィア人を 1人用意しましょう。ヴェネツィアの要求はヴェネツィアに片付けさせてやれば良い」
マリーアの手がジョヴァンニの肩からうなじにすっと這い上がりその鳶色の髪を弄び始めた。瞬間、ジョヴァンニの瞳にいつもの冷酷さが宿る。彼はその手を払いのけると冷笑と共に義姉を振り返った。
「ーなぜそうまでして私の謀りごとに加担しようとする、マリーア?僕の気持ちが…仮にーさっきお前が言ったことが真実だったとして、憎い恋敵のベアトリーチェを破滅から救ってやることになるじゃないか」
「言ったでしょう、あなたがすべてだと。私、あなたの望みならばどんなことでもしてよ。お気に入りを抹殺して殿様の怒りを買っても平気。だからジョヴァンニどうか私を見て。そしてあなたを頂戴」
「ー悪魔との契約…か。我がフィレンツェと最愛の妹に神の恩寵を」
小さく十字を切って皮肉げに呟くと、ジョヴァンニは傍らにあったマリーアの腰を抱き寄せ、頭を抱え込んで乱暴に接吻した。
夜はそれぞれの禁じられた想いを押し隠すかのように重く密やかに更けていった。




