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ベアトリーチェ・ディ・メディチの肖像6

「迷惑をかけてしまう… すまないね、えっとーミケランジェロ?」

「やっぱり覚えていてくださいましたね、倭文様。私は自分の名前を覚えていて下すった方としかお付き合いしないことにしてるんです。ロレンツォ様にお仕えしている身とはいえ、私も1人の芸術家ですからね。”神のもとに人間は全て平等である”そしてその人間の本来の姿を蘇らせるのがルネサンスであり、担うのは私達芸術家です。私個人を認めて下さった方としか話できないというのは、私の思い上がりでしょうか?」

「いやそんなことはないよ、ミケランジェロ。私のように各国を旅しているとね、人間の地位や名誉など何の役にも立たぬことが身に染みてよくわかる。ある国で王だった者が突然 一人でよその国に行ったとする。そこで自分は王だと叫んでみても誰が一体真実だと認めるだろう。証拠は?王冠だろうか。そんなものはきっと証拠にはならないよ。いやそれが本物であればあるほど疑われるに違いない。彼は王冠を盗んだ盗人に違いないとね。人間が自分を認めさせる方法というのはひとえに自分自身の技量にかかっているのだと私はそう思うよ、ミケランジェロ。その技量の表現は人によってそれぞれ異なるだろうけどね。君にとってはおそらく、それが芸術… なのだろう?それゆえの自尊心を持つのは思い上がりとは言わないはずだ。まして君はあの、ロレンツォ大公に認められている。彼のパトロンというのも技量の表れだと思うよ。もちろん統治者としての才能も素晴らしいものなのだろうけど」

「そうです!そうなんです!人間が人間でいるためには自分に誇れるものがなくてはね。人間はその自信を糧に一層成長していくのだから。私だって今は幸い殿様のご協力で創作活動に従事してられますが、もしこの先この恵まれた環境がなくなったとしたってやりますよ、 私は」

ミケランジェロの頬は興奮のために彼の髪と同じ色に染まっている。倭文が頷いて口を開きかけた時、どこかで女性の鋭い声が上がってそれを遮った。

「待って、ジョヴァンニ!」

倭文とミケランジェロは長い回廊の何番目かの曲がり角にいた。声の主はどうやら、この回廊を曲がった先にいるらしい。聞き覚えのある声と名に倭文は確認のようにミケランジェロを振り返った。ミケランジェロはアーメンとでも言いたげな表情で小さく呟いた。

「なんてこった…そういやここはジョヴァンニ様の部屋の一角だった。ジョヴァンニ様が ピサの大学に行ってしまわれてたのですっかり忘れてた…別の道を通ればよかったかな」

「このまま素知らぬ顔で通り過ぎるというわけにもいかなそうだ。取り込み中のようだしね」

「じゃ、収まるまで見学でもしてましょうか」

面白がるような口調でミケランジェロは壁にもたれかかりながら片目を出して回廊の向こうを覗く。どうやら彼は主君の若君であるジョヴァンニとは合わないらしい。あの厳格そうなジョヴァンニと自由奔放なミケランジェロでは無理もないと思いながら倭文もミケランジェロの頭の上から回廊の向こうを覗き込んだ。

石造りの薄暗い回廊で、大きなドアの前に立つ2つの人影が、窓の隙間から漏れてくる麗らかな陽光に照らされてゆらゆらと踊っている。

「ジョヴァンニ、さっきの態度は良くないわ。大公のご機嫌を損ねたわよ。卑しい東洋人とはいえ、お気に入りのご様子ですもの」

「僕がどんな態度を取ろうが君には関係ないだろう」

ジョヴァンニは虫を払うような素っ気なさで面倒臭げに答えると、自らの部屋へ入っていこうとドアの取っ手に手をかけた。その上に素早く、黒いレースの張られた扇が置かれる。その扇の主は倭文の考えていた通り、あの黒ずくめの娘だった。

「関係あってよ!私はあなたの為を思って言っているのに…大公は3人の息子のうち、あなたに一番期待を寄せてらしてるわ。そう、ピエーロ様よりね。だからこそあなたを枢機卿に…」

「ー黒は悪魔の色ー」

ジョヴァンニは低く歌うようにつぶやいて娘を見た。それまで冷たいだけだった瞳が酷薄そうな輝きを帯びて光り出す。

「僕は何も、あの東洋人だけに限って言ったわけじゃない。メディチに仇なすものは案外もっと間近にいるのかもしれないな…マリーア?」

「ーーー」

倭文達の位置からは娘の表情ははっきりと見えないが、それでも彼女の扇がわずかに震えているのを見ることはできた。

「とにかく、君に指図されなければならぬ理由など僕には何もない。わけ知り顔で口出しするのはやめてもらおうか」

パシッと扇を払いのけてジョヴァンニは僧衣を翻しながらドアを開いた。それは、後を追おうとする娘の鼻先で、彼の心を表すように重い音を立てて閉ざされたのだった。

まるで、宴で催される道化師達の茶番劇さながらの一場面を見てしまった倭文は呆気に取られ、長い髪を掻き上げながらミケランジェロと目を見合わせた。

「いくら臣下の礼を出過ぎたとはいえ、あれでは女性の方が気の毒になってくる。そういえばあの女性はさっきロレンツォ大公の居間にも居合わせたようだが、ジョヴァンニ殿の侍女か何か?」

「いえ…」

ミケランジェロはすばしこく壁から離れると倭文に向き直った。

「ちょっと違うなぁ…ま、ほとんど似たようなものなのですけどね」

その両の目にいたずらな光がくるめいた。

「実はあの黒ずくめのご婦人はマリーア・ディ・メディチ様と言われ、このメディチ家の5番目の姫君でロレンツォ様の公女様なのですよ」

「公ー女?」

「つまり、ジョヴァンニ様やベアトリーチェ様の姉君に当たられる方なのです。倭文様が驚かれるのも無理はありませんけどね… 大きな声じゃ見えませんが、あのベアトリーチェ様とは比ぶべくもないご器量ですし…ま、マリーア様は妾腹の姫君でリーチェ嬢様とは義姉妹ですからね。リーチェ嬢様の気品と優美さにかなわなくても仕方のないことなのですよ」

ミケランジェロはベアトリーチェのこととなると途端に理性が吹き飛ぶらしい。ついさっきまで人間は全て平等であると言った舌の根も乾かぬうちにもうこの様子である。

「しかし、なぜジョヴァンニ殿は義理の…とはいえ、義姉君にあそこまで辛く当たられるのだろう? そういえば ロレンツォ殿も居間で家族の方々をご紹介くださったのに、マリーア姫だけはご紹介下さらなかった」

「それはね…」

チョイチョイと手招きをすると、ミケランジェロは倭文の滑らかな片頬にそばかすだらけの顔を近づけて耳打ちをした。

「マリーア様は怪しげな黒魔法を使うという噂のある方でね。殿様としては異端のものを一族として紹介するのは最も許すべからざることなのですよ。たとえ噂に過ぎないとしてもね…メディチの名に傷がついては居並ぶ各国や、フィレンツェの内部にも示しがつかなくなりますから。全く殿様は尊いお方です。メディチ一族の犠牲と引き換えに、フィレンツェの自由と平和を守ってくださるのだから。それとね、ジョヴァンニ様にしてもー」

ミケランジェロの瞳の中には ロレンツォの話をした時よりも複雑な光が加わった。

「あの方は枢機卿でいらっしゃいますからね…いずれは法王の道を進む心づもりでいらっしゃるようだし…となるとどうしてあの方がマリーア様に冷たいのか分かってきたでしょう、倭文様?」

「つまり、教会の頂点に立つものが異端ーあえて異端と仮定した場合ーそれと繋がっていたとなれば、その権威は著しく失墜する。ましてまだ枢機卿のジョヴァンニ殿にしてみれば異端と噂の高い マリーア姫の影がそばにあるだけで法王への道は閉ざされてしまうーそういうことなのだろう」

「そうです。マリーア様も殿様に疎まれてなさるご自分の立場は十分にご承知ですから、殿様はおろか他の若君や姫君と親しくなさるなどということはないのですが、どういうわけかあのジョヴァンニ様だけはお気に入りのようでしてね。服の用意から湯浴み、夜食の準備まで、まるで侍女頭のように世話を焼いていらっしゃる。もちろんジョヴァンニ様はさっきのように全て冷たく跳ねつけていらっしゃいますがね。タロットとか言うジプシーの占いカードでよくジョヴァンニ様の未来を占ってはあの方は将来、神に選ばれてその代理人となられる尊いお方なのだと触れ回っていらっしゃるらしい。いくらジョヴァンニ様が法王を目指していらっしゃるとはいえ、だからこそ言ってしまっては周りの方々に警戒心を抱かせてしまうと思うんですけどねぇ。自分の気持ちを表に表しすぎるってのはやっぱりあの方のお母様の血のせいだろうなんて侍女達は言ってますけど…」

「 母上の血?」

「 ええ、マリーア様が妾腹の御子だというのはさっき話しましたよね。あの方のお母様はジプシーなんだそうです。ミカエラと言ってフィレンツェに流れてきたジプシーで、歌になるほどの美女だったとか。ロレンツォ様はークラリーチェ様という奥様がおられたのですがーこの黒髪の舞姫に魅せられて、パラッツォ・メディチに呼び寄せられ、別棟を用意してそこに彼女を住まわせられていたのです。ところが、マリーア様を産んで何ヶ月後かにミカエラは同じ群れの中にいた男と恋に落ちて元のジプシーの群れに戻ってしまったのですよ。マリーア様を残してね。ロレンツォ様が美しいジプシーの舞姫を手に入れられ、御子を設けられたというのはフィレンツェじゃ街角の乞食にまで知られていたんだそうですからロレンツォ様の面目は丸つぶれだったんでしょうね。マリーア様に冷たくなられても仕方ありませんよ」

「不幸な方々なのだね、大公様もマリーア姫も…」

「ミカエラもね…まだ若かった彼女は初めて自分の目の前に広がったメディチという豪華な世界に目がくらんでしまったのでしょう。愛妾になって初めて自分が自由を失ったことに気がついた。ジプシーは自由の民です、耐えられなくなった彼女は枷になるものは全てーそう、子供さえも捨てて逃げてしまった」

「後に残されたのは愛されることを知らない子供だけだったー」

倭文がぽつりとつぶやいた時、彼と向き合っていたミケランジェロは、視界の片隅に何か黒っぽい影が飛び込んできたのに気がついた。が、彼がその正体に思い当たってとっさに目を逸らした時は時すでに遅かったのである。

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