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ベアトリーチェ・ディ・メディチの肖像5

「そしてこれが余の末子のベアトリーチェだ、倭文殿」

翌朝、倭文は パラッツォ・メディチの私的な居間にいた。それにしてもと、倭文は今を見渡して密かに吐息をついていた。天井にはメディチ家専用の工房で描かせたのだろう、ギリシア神話から題材を取った絵が描かれていた。足元には大理石の床が差し込む朝日を受けて乳白色に輝いている。昨日の昼間ほどではないにせよ、贅を尽くしたこしらえであるのをを知るには十分であった。

彼はロレンツォ・イル・マニフィコによってその家族を引き合わされていたのである。

「 お噂は聞き及びましたわ。よろしく…倭文様」

ベアトリーチェの小さな白い手を押し戴きながら倭文はそっとその顔を見上げた。今朝、 彼がこの部屋に入ってきた 一瞬、そのセルリアンブルーの瞳は無邪気な人懐こさを浮かべて倭文を見つめていたが、ロレンツォの後に控えていたミケランジェロの微かな咳払いによってそれはただの美しい人形のような無表情になった。しかしこうして間近に見ると見ず知らずの人間を見つめるにしては親しすぎる視線がその瞳の中には宿っていた。

「これ ベアトリーチェ、そなたそのように倭文殿を覗き込むものではない。いつも言い聞かせておるではないか、淑女はもっと淑やかにするものだと。倭文殿も困っておられるぞ」

「まあ 、お父様」

明るくあどけない声と共に倭文の手の中からベアトリーチェの手は消えていた。ベアトリーチェはその瞳と同じ色の青いガウンを翻しながら小鳥が枝に止まるような軽やかな仕草で ロレンツォの後に立ち、その首に腕を回していた。その勢いでベアトリーチェの手首に光っていた腕輪がシャランと音を立てる。銀細工の中に淡い青色のサファイアが星のように 散りばめられていたー それは倭文に部屋の造りと共にメディチ家の莫大な富を容易に連想させるものだった。

「お父様だっておっしゃってたわ。遥か東方のジパングからのお客様がこのフィレンツェにいらっしゃることなど初めてのことだから何でも聞いてみるがいいベアトリーチェ、お前が尋ねたいことをなって。ね、 確かにそうおっしゃっていらしたわね、ミケランジェロ?」

「はぁ…まぁ…」

「ですから私とっても嬉しくて。何をお聞きしようか考えていたのですわ。倭文様のお顔を拝見しながら。ね?倭文様。倭文様のお国の方はみんな夜の闇のように黒い髪をお持ちなのですってね、本当?」

「ええ 姫君。ジパングだけではなく、東方の国々の人々はほとんど皆、黒くてまっすぐな髪を持っております。もちろん人によって多少の差はありますが。赤っぽかったり、茶色っぽかったり…」

「まあ私もトルコの商人や ヴェネツィアの商人の黒髪の方なら見かけたことはありますけど、国中の人が みんな黒髪だなんて…一体どんな感じがするのでしょう。行ってみたいわ。ね、お父様?」

艶やかな革張りの椅子に腰掛けたフィレンツェの主人は、目に入れても痛くないと言った様子で娘の薔薇色の頬を撫でながら高らかに笑った。

「ならばお前も連れて行っていただくかね、ベアトリーチェ?倭文殿がジパングへ帰国なさる折には。行ってこの父の分も彼の国を見てきて欲しいものだ」

ロレンツォ・イル・マニフィーコも家族の中にあってはただの父親に見えた。特に彼のこの可憐な末娘にかかっては偉大なフィレンツェの支配者も形なしのようである。倭文が微笑ましく父娘のやり取りを聞いていた時ー。

「父上、またそのようなことを!」

まだ多少、少年らしい高さを残した声が倭文の耳に鋭く響いた。倭文はゆっくりと声の主に視線を移した。

「 父上がいつもそのように甘やかされるからベアトリーチェはいつまでもの公女の自覚が芽生えてこないのです。これの乳母から聞いたのですが、ベアトリーチェは 昨日 、ミケランジェロと一緒になって東方の国へ行きたいなどと言っていたそうです。それを肯定するようなことを 父上が冗談にでもおっしゃれば ベアトリーチェのことだ、本気で出て行きかねませんよ。そういう娘だというのは 父上もご存知でしょうに」

眉をひそめながら強い口調で話していたのは鳶色の髪と瞳の少年であった。まだ若年ながらも僧形である。彼こそは後にメディチ家出身の初のローマ法王、レオ10世となったその人であった。が、まだそれは後のこと。今年15歳になるこの少年を、ロレンツォは倭文に次男のジョヴァンニだと紹介した 。

長年のロレンツォ大公のローマ法王へのとりなしによってジョヴァンニは去年、若干14歳という年齢で枢機卿となり、現在はフィレンツェを離れてピサの大学で神学を学んでいた。今回、ヴェネツィアの大使の訪問があるいうので顔見せに呼び戻されたところであったのだ。

「大体、ミケランジェロ…」

「はっ、 はい?」

僧形の貴公子の冷ややかな視線はロレンツォの後ろにいた赤毛の芸術家に止まった。

「お前は少し己の立場を学ぶ必要があるんじゃないか?父上の寵をいいことに、お前はギルランダイオの工房に行ったり、行かなかったりだそうじゃないか。それで自分の作品を創作しているというのならまだしも、妹に妙なことを吹き込まれては困るな」

「はぁ…どうも申し訳ございませんです…」

ミケランジェロはジョジョヴァンニの気迫に気圧されて口の中でゴモゴモと言葉を飲み込んだ。

「ジョヴァンニ兄様、ミケランジェロはちゃんとお仕事をしてますわ!私の肖像画を描いてくれるのですもの。私とよく一緒にいるのはそのためなんですのよ」

ジョヴァンニは再び、鳶色の瞳をベアトリーチェに向けた。勝ち気そうなその瞳は背かれたという思いに不機嫌そうに輝き、この居間に揃った大公の子供たちの中では 一番ベアトリーチェと似通っていたが、彼の表情にはどこかその妹よりも酷薄な翳が漂っていた。

「ベアトリーチェ、どうしてお前はそう口答えばかりするのだ?僕の大学にチェーザレ・ボルジアという男がいるけどね、そいつの妹はそりゃもう素直に父や兄の言いつけに従うのだそうだよ。その上いずれはローマ一の美女になるだろうという噂も高い娘でね。確かお前と同じ年頃だったな。お前も少し見習ったらどうだい?お前がそれではいつヴェネツィアから婚約破棄の知らせが来るか、僕もハラハラし通しだ」

「まあ、兄様…」

「これ、ジョヴァンニ。お客人の前だ、やめなさい」

「お客人?」

ジョヴァンニの鳶色の瞳と倭文の黒い瞳が初めてかち合った。

「さぁ、果たしてこのお方がお客人だと誰が証明できます?まこと、メディチに仇なす者ではないと…」

「ジョヴァンニ、よさぬか!」

ロレンツォの声が針のように鋭くなった。ジョヴァンニの父親を見る目に僅かな怯みが走る。

「…失礼…僧侶を勤めておりますと自然と疑り深くなりまして…迷える子羊の中に紛れた黒い羊とも言います。黒は昔から異端の色、悪魔の色と言われてきましたのでね。ああ…」

ジョヴァンニは倭文にとも、ロレンツォにとも聞かせるともなく皮肉を呟くとすっと椅子を引いてテーブルから離れた。

「急ぎ調べなければならぬ件を思い出しましたゆえ、これで退出させていただきます。失礼…あ、兄上…」

ジョヴァンニは何事もなかったかのように、その視線を隣の席の兄、ピエーロに向けた。

「昨夜のヴェネツィア大使との会話を私も拝聴させていただきましたが、あれでは余りにヴェネツィアの立場を理解しておられぬ。ヴェネツィアの対トルコ政策をもっと深く理解なさらぬことには…トルコ防衛に力を貸すことこそ我がフィレンツェがヴェネツィアの海上権を手に入れる最大の機会なのですから。及ばず乍ら私の所にヴェネツィアを理解するのによい資料がありますので、よろしければ後で小姓なりを寄越して下さい。お貸しいたしますから。ここでお客人の夢物語を伺っているよりそちらに方が有意義と存じますが、いかが?」

「えっ?あぁ、 そうだね 」

話しかけられた長男のピエーロは、ぼんやりと答えた。蜂蜜色の巻き毛の、見るからにおっとりとした青年である。

「そうだね、ジョヴァンニ…そのうちに…」

しかし、その緑色の瞳は何をとらえるでもなく、ただガラス玉のように虚ろに宙をさまよっていた。最も、ピエーロは万事がこの調子であったのでジョヴァンニは これには大して気にも止めず、居間を退出していった。

「倭文殿」

ジョヴァンニの一方的な退場の仕方に気を取られていた倭文は、ロレンツォの何度目かの問いかけでようやく我に返った。

「せっかくの朝のひとときを不愉快な思いをさせてすまなんだ。あれもあれなりにメディチを憂えているらしい。まだ若い分、人を見る目が備わっておらぬので、ああもあからさまに警戒心を剥き出しにするのであろう。倭文殿、ここは余に免じてなにぶんお許しあれ」

「大公…そのような…」

倭文は思わずテーブルの上に手を乗せた。

「あれでこそ、人の上にお立ちになる方かとー御年若にしてあの気迫、さすがと存じます」

ロレンツォはゆったりと頷くと、その視線をテーブルを囲んでいる子供たちに移しながら、トルコ石のような青色でオリエント風の模様が描かれた小さな デミタスカップを持って香り高いコーヒーを一口すすった。

「ピエーロの横にいるのが 3番目の息子のジュリアーノ。長女のルクレツィアはヤコポ・サルヴァーティ、四女のコンテッシーナは…それ昨夜、宴の折に倭文殿の話を急かした男がおったであろう。ピエロ・ルドルフィと言うのだが… 各々このフィレンツェの名家に嫁いでいる。次女のマッダレーナだけはローマに嫁いでおるので、なかなか会うこともかなわぬが…三女のルイーザも数年前に他界しておるゆえ、今ではこのベアトリーチェだけが手元に残る娘となった。しかしこれも来年にはヴェネツィアの元首との婚礼を控えておる身ゆえ、寂しくなるが」

「姫…ベアトリーチェ様にはヴェネツィアにお輿入れなさるのですか」

倭文は思わず口を開いた。大公の子供達にはそれぞれ紹介されると、物柔らかな微笑みと会釈を返すのみだった彼だが、ロレンツォを除いたメディチ家の中で唯一、彼に友好的な反応を見せてくれたセルリアンブルーの瞳の少女の行く末が気になったからである。

「…ええ…ヴェネツィアの…」

ジョヴァンニにやり込められて意気消沈していたベアトリーチェは話の矛先が自分へ向いたことを知って、再び小鳥のようにさえずり始めようとしたが、口元に浮かんでいた笑みは倭文と視線が合った途端、春の雪のように消えた。

「カペッロ家ですの…」

しかしそれは微妙な変化であったので、それに気づいた人間はロレンツォともう1人しかいなかった。倭文や当人であるベアトリーチェでさえ、この微妙な変化の示す行く末に気づいていなかったのである。

炯眼なるロレンツォは、実にさりげなく人々を沈黙の世界から呼び戻した。

「さてベアトリーチェ。そういえばそなた、今日は輿入れに持っていく装身具を選ぶのではなかったかな?今頃、乳母と宝石商が部屋でそなたを待っておろう」

「ええ、お父様…」

ベアトリーチェは素直に返事をしたが、その瞳は残念そうに倭文を見ていた。

「倭文殿とはこれきりというわけでもあるまい。またそのうちゆっくりと話を聞かせていただくが良い」

頷いたベアトリーチェはドレスと同色の、小さな青い絹靴で軽やかに床を踏みしめながら 立っていった。

「ー私も失礼させていただいてよろしいでしょうか…殿様」

不意に低い声がして、倭文は声の主を見た。彼の視界には1人の娘が映っている。ベアトリーチェの横の席、それも倭文の側に居たらしいのに今の今まで気がつかなかった。影のような印象の娘である。

ほとんど黒に近い、焦げた木の色の髪。底知れず、陰気と言っても差し支えない光をたたえた灰色の瞳。病気ではないかと思わせるような青白い肌と貧相な顔立ち。

着ているものも、黒いレースで縁取りされた 同色のビロードのドレスで、その襟の詰まったデザインが彼女を一層老けさせて見えた。かろうじて娘が若いと分かったのは髪を結い上げていなかったからである。彼女はその黒っぽい巻き毛に真珠を散らしていたが、美しいはずの真珠も彼女が身につけていると、まるで死者の白骨のように不吉な光を帯びるのだった。

「ーよろしい、下がるが良い」

ロレンツォは娘の方を見ようともしないで許しを与えた。娘の方も眉ひとつ動かさず、慇懃にロレンツォに頭を下げると白昼の亡霊のように消えた。

倭文が訝しげに、娘の座っていた席を眺めているとロレンツォがもう一杯とコーヒーをすすめたが、彼はそれを辞退して退出の許しを請うと部屋までの案内につけてもらったミケランジェロと共に居間を出た。


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