ベアトリーチェ・ディ・メディチの肖像4
「 リーチェ 嬢様、こちらですよ。こちら」
パラッツォ・メディチの大広間に面した中庭のひと茂みが動いたかと思うと、その中から赤毛の少年がひょっこりと顔を出した。
「おおミケランジェロ、私、服にかささぎを作ってしまってよ。こんなところを通るなんて… 乳母やに知れたらどんなに叱られるかしら」
鈴を振るような声と共に陶器のような白く小さい 顔が、赤毛の横に並ぶ。
「なに、知られなければいいんです。リーチェ嬢様の裁縫はこんな時にこそ役立たせるべきですよ」
それはミケランジェロとベアトリーチェの2人であった。
☆
当時、イタリアはルネサンス全盛の頃であり、その風潮に影響を受けて女子も男子と同じ教養を身につけることができた。
しかし 上流階級の未婚の女性は、前の時代に引き続き政略結婚の道具であったため、やはり籠の鳥として厳重に世間から隔離されるのが世の常だったのである。
☆
「東方のお客人にまみえる機会はそう滅多にあるものじゃありません。乳母やの小言はいつものことだし、これを逃すって方は…ワッ! 」
ミケランジェロは何かにぶつかってけたたましい声を上げると、前方の闇にじっと目を凝らした。
「 ミケランジェロ!」
ベアトリーチェは怯えた小鳥のように大きな瞳をさらに大きく見開く。人形のような手はそれだけが頼りだというように、ミケランジェロの服をしっかりと握っていた。
「な、何者だっ!」
ミケランジェロの声は震えていた。明るく陽気なイタリア人の例に漏れず、ミケランジェロはいたずら好きで要領は良かったが、腕の方はからっきし自信がなかったので、とてつもない大男が目の前に現れたらどうしようと思いながらも、唯一背中に感じられるベアトリーチェのかすかな手の感触が彼を敵前逃亡から救っていたのである。
「こ、ここをメディチの大公様のお館と知って忍び込んだか!ろ、狼藉者とあらば、ただでは…」
半ばやけくそ気味に茂みの中に飛び込んだミケランジェロは毒気を抜かれたように立ちすくんだ。
茂みの向こうに現れたのはまっすぐな黒髪と黒い目をした青年、つまりは彼らの目指していた”東方のお客人”だったからである。
「……」
黒髪の青年は鹿のように素早い身のこなしで振り返った。手の中のグラスに入ったワインが微かに揺れる。
「こ、これは…お客人、失礼いたしました。あなただとは露知らず…」
「 いや…」
青年は乱れた髪を掻き上げながら、ミケランジェロとベアトリーチェに涼しい笑みを向けた。
「こちらこそ申し訳なかった。せっかくメディチの大公様の栄えある宴に席を賜ったというのに不調法者でね、つい外の空気が吸いたくなって出てきてしまった…許してください、お嬢さん。いらぬことで怯えさせてしまって」
「いいえ」
ベアトリーチェははにかみながらもしっかりと、ミケランジェロの後からこの稀なる客人を物珍しげに観察していた。さすがフィレンツェの名家、メディチ家に生を受けた者だけあって物怖じすることを知らない娘であった。
そのセルリアンブルーの眼差しを柔らかく受け止めると青年は独り言のようにつぶやいた。
「…天使のようなお嬢さんだ…」
「でしょう?」
ミケランジェロは緊張していたことも忘れてたちまち得意顔になった。
「この人の美しさは刻々と変化していく、そう夕映えのようなものですからね。その時々の美しさを残すのは芸術家の務めってもんです。”明日来るものの、定かならねば” ってね。目下の私の仕事はこの人の美しさをいかにして残すかということなんですよ」
「ほう、じゃあ君は芸術家なの?」
「これは、これは…」
ミケランジェロ はたちまちこの相手と気が合うことに気がついたらしいー芸術家というのは自分の感性に合うものを見抜くことにかけては天才なのであるー彼は道化のような身軽さでぴょんと飛び退くと、おどけたように片面をつぶり、深々と倭文に頭を下げた。
「紹介するのが遅くなりまして…私はミケランジェロと申します。今はメディチのロレンツォ様のお世話になりながら、ギルランダイオ工房で彫刻、絵画の修行を積んでおりますが、本当のところはベアトリーチェ嬢様からひと時も離れていたくないんで…リーチェ嬢様に疎まれるのを承知でこうして付きまとっているのですよ」
「あら私、ミケランジェロのこと、嫌ったことなど一度もなくてよ。本当よ」
ベアトリーチェは倭文が向けた微笑みを面映ゆげに受け止めていたが、ミケランジェロの言葉を聞くと剥きになって否定した。
その、赤い唇を尖らせて心持ち首をかしげた様子が愛らしい、と倭文は再び微笑んだ 。
「あなた方は兄妹ではないの?」
「とんでもない!! いいですかお客人?この姫君はお館の主、あなたもさっきお目にかかられたロレンツォ様の末の姫君です。この美しいリーチェ嬢様と私が…考えるだけでも美と大公様への冒涜だ……」
この若い芸術家は決して謙遜ではなく本気でそう思っているらしかった。倭文の言葉に目を丸くして、ただ呆れたように首を振るのみである。
「いいえ、今では本当の兄妹以上だわ。でもどうかここでお会いしたこと、お父様には黙っていらしてね。乳母やに見張られて私、外へ出られなくなってしまうから… あの…」
ベアトリーチェの瞳は物問たげに倭文の瞳を覗き込んだ。
「倭文です…ドンナ・ベアトリーチェ?」
倭文は頷くと陽光のような笑みを浮かべてメディチ家の少女を見つめた。ベアトリーチェは花のように微笑む。
「そう、倭文様…倭文宮様…でしょう?」
「宮は結構。宮というのは称号ですから…この何も持たぬ旅人にはふさわしくありません」
「じゃ倭文様、お願いできまして?」
一通りの驚きと好奇心が満たされるとベアトリーチェは急にすまし顔の大人びたで口を開いた。
「もちろんです、姫君。このように美しい方の願いとあらば…」
倭文が微笑みながら言いかけた時ーミケランジェロが突然、頓狂な声を上げた。
「嬢様!誰かがこっちに来ますよ」
「あら、では帰らなくては。乳母やがもう気がついたのかしら?」
言葉の割には一向に慌てないベアトリーチェを急き立てながらミケランジェロは倭文に会釈して立ち去りかけた。その背へ倭文の声が響く。
「ミケランジェロ!ミケランジェロと言ったね、君は?」
「ええ」
「なぜメディチ家の姫君がこのようなところに?何をしにやって来たの」
「それは…」
「あなたにお目にかかりに来たのよ、倭文様」
ミケランジェロが答えるより早く、鈴の音のような声でベアトリーチェが答えた。
「だからもう用事は済んだの」
「私達はあなたの体験なさった異国の冒険談を是非聞かせていただきたかったというわけです。でもリーチェ嬢様が宴に出席なさるのは殿様の許可が必要ですし、今宵はそのお許しがなかったのでこうしてお忍びで中庭からお話を聞かせていただいたんです」
「倭文様のお話はとても面白かったわ。ミケランジェロのお話のように。またぜひ聞かせていただきたい。よろしくて?」
「ええ機会があったらぜひ、ね」
「嬢様」
再びミケランジェロの促す声がした。彼は気が気でないらしい。倭文達と物音のした方をせわしなく視線が行き来している。
「ではごきげんよう。倭文様」
春のような香しさと暖かさを残してメディチ家の姫君は夜の闇に紛れて消えた。
“ なかなか見かけよりはお転婆な姫なのだな”
後に残された倭文は月の光にグラスを透かしながらひとりごちた。




