ベアトリーチェ・ディ・メディチの肖像3
その夜、メディチ家の館であるパラッツォ・メディチではヴェネツィアからの使節を迎えて華やかな宴が催されていた。何千という蝋燭が灯された大広間は妙なる楽の音と人々のざわめきで満たされている。
ロレンツォ・イル・マニフィーコは、その名の通りの宮殿の中でヴェネツィアを相手に鮮やかな外交 政治を繰り広げていた。フィレンツェの元首であるこの男は、その地位についてからというもの” パッツィ家の陰謀”(メディチ家の打倒計画)に代表される数々の危機を乗り越え、次男ジョバンニを枢機卿とし、長女 マッダレーナをローマ法王イノケンティウス8世の子フランチェット・チボーに、自身の姉ビアンカを宿敵パッツィ家に嫁がせて群雄割拠の乱世の中、国の内外を巧みに治めていた。
何者にも有無を言わさない威厳、強い意志を決めた目、穏やかで巧みな、しかし必要とあればたちまち剣となって人の心を鋭くえぐる事も可能な弁論ー政治家として、君主としていかにもふさわしい条件を備えた彼は、しかしまた詩を作る詩人でもあった。
「おお 来られたかお客人、こちらへいらせられよ。皆に引き合わせようぞ」
ロレンツォは周りに群がる人々の向こうの人影に声をかけた。朗々とした力強い声がパラッツォ・メディチの大広間に響き渡る。居合わせた者たちは申し合わせたようにロレンツォの視線を追った。
ロレンツォが声をかけた相手は柱の影から静かに姿を現した。
流れるような物腰の青年である。頭に布を巻いたその姿は、中東風の商人の出で立ちであった。黒髪ではあるが、おそらく元は白かったに違いない肌は、彼がトルコやアラビアの人間ではないことを無言のうちに語っていた。
「いえ、私はこれにて…大公様…宴を楽しむ術を知らぬ不調法者ですゆえ…」
「何を言われるか、ここに居並ぶ方々の顔をご覧あれ。皆そなたに話しかけたくて我慢できずにおるのがお分かりになられぬか?さ、早う、お客人」
ロレンツォは黒いローブの下から手を差し伸べて青年を招いた。青年は困ったような微笑を浮かべたが、言われるままにロレンツォの方に歩み寄った。
ロレンツォは傍らのテーブルからワインを取ると青年に渡して居並ぶ人々に向き直り自分の杯を掲げた。
「方々、遥か東方の国、ジパングより来られたというお客人じゃ!まずは稀なる旅人にお引き合わせくだされた神に乾杯を」
乾杯という言葉と杯の触れ合う音があちこちから聞こえてきた。
「大公様…かたじけけのうございます。どこから流れてきたともわからぬ者に、このようにきらびやかな宴の席をお賜りくださいますことは、この粗末な身に余る光栄でございます」
ほっそりとした体を折って、青年はロレンツォに跪いた。黒髪がさらりとその頬にかかる。その異国情緒あふれる典雅な姿に人々の間からはため息が起こった。
「何の…これでもフィレンツェを統べる身、命を狙われたことも一度や二度ではないのでな… 多少は人を見る目も備わっておるつもりだ」
ロレンツォは青年を注意深く見つめながら口を開いた。
「余はジパングという国のことはよく存じ上げぬ。だが、そなたの立ち居振る舞いは一朝一夕には身につかぬ洗練されたものであるようにお見受けしたが…のうお客人、尊き身分の者の挙措とは万国共通のものではござらぬか?」
「見れば異国の方なのに言葉を巧みに操りなさる。高貴なお方がこの花の都に辿り着かれるまでどのような旅をして来られたのか?」
「大公様のご炯眼にはかないませぬ。さ、白状しておしまいなさい、お客人」
ロレンツォの言葉を受けて、周りの者たちが待ち構えていたように青年に話しかけた。青年は控えめな笑みを浮かべて聞いていたが、やがて近くのテーブルに静かに杯を置いた。
「まことに… では、この宴にお招きくだされたお礼に大公様と皆様に身の上話などいたしましょう。取るに足らぬ身の上ではございますが皆様の徒然をお慰めできれば幸いでございます」
「神の祝福を!東方の物語は今宵最高のもてなしとなりましょうぞ、お客人…おお、これは迂闊であった…そなたの御名は?」
ロレンツォは物語を聞くために傍らにあったビロード張りの椅子に腰掛けたが、ふと思い出したように身を乗り出して尋ねた。
「ー倭文宮……いえ、倭文と申します…大公様」
「”シズ”とな、面白い御名じゃ。何か意味がおありなさるのか?」
「はい。それ自体はジパングに伝わる綾織りの名だそうですが…」
青年は ロレンツォの前で少量のワインをこぼして、それに指を浸すとテーブルの上に”倭文”と言う漢字を書いた。
「最初の文字は 我が祖国、皆様がおっしゃられるところのジパングを示す文字にございます。倭の文字は文と武、つまり平和と戦の、平和の方を示す字で…倭文と言うのは”ジパングの平和”とでも申すのでしょうか?ー私の父母の願いが込められている名にございます」
「ほう…ご父母の。倭文殿のご両親はどちらにおいでかな?」
「死にました。10年前に明の国で…ジパングでは今より20年ほど前に大きな内乱が起こりました」
「20年前といえばちょうどロレンツ様がクラリーチェ・オルシーニ様をお迎えなされた頃ですわね」
「あの頃は、余も この地位に着いたばかりで フィレンツェ も騒がしい頃であったな。ジパングの内乱とはいったいどのような?」
ジパングの都、京都で起きた乱にございます。ジパングでは”将軍”と申す武人の棟梁が君主である”天皇”に国政を委ねられて国を統べておりますが、その将軍家で騒動が起きたのが事の起こりでありました。将軍が亡くなられた後、ご生母が推される将軍の御子と将軍の弟君が、次代の将軍の地位を巡って対立なされ、重臣達がそれぞれに分かれて都を焼き尽くす大きな内乱が始まったのです。この戦は”応仁の乱”と呼ばれておりました。私はこの戦の始まる前年に、天皇家とは遠縁の、京都のとある家に生まれました」
「おおやはり余の見た通り、御身は貴き身分であったか…」
感心したように眺めるロレンツォの視線をやんわりと遮って、倭文は首を横に振った。
「ジパングでは将軍をはじめとする武家の方に力が集まっておりますので、王族と申しましても名ばかりで、このメディチ家のような華やかな暮らし向きではありませんでした。ましてや都が火に包まれ、住む場所の失くなった家族のこと…父母は赤子の私を連れて、ごく僅かな供周りを伴ったのみで都を落ち延びたのだそうです」
「余はかつて、マルコ・ポーロの記録を読んだことがあるが、ジパングの宮殿の屋根はすべて金で出来ているとか…度重なる戦乱でそなたの家にあった黄金も消え失せてしまったのであろう、倭文殿」
「いえ大公様、それは誤解です。ジパングは黄金の島ではありません。ただ昔、マルコ・ポーロの時代に、元の国が2度に渡ってジパングに攻めて来たことがございました。その時、ジパングの軍は2度とも奇跡的に元の軍を追い返したのです。そのようなことから大陸でもジパングを特別視するような伝説が生まれたのでございましょう。今のジパングは…」
倭文の目がふと遠くなり、かすかに翳った。記憶にない祖国の姿を思い浮かべているのか?
「長い間続いた乱のせいで、都はすっかり荒れ果て、将軍は力を失い、各地の武人達が権力を掌中にしようとしのぎを削っているそうにございます」
「それならば、このフィレンツェとて同じ状態ではある」
ロレンツォはいたずらっぽい表情で目配せすると小声で倭文の耳許に囁いた。
「ほれ、そこに居るヴェネツィアやミラノ、ローマといい、一時も油断がならぬ」
「なれどフィレンツェは、まことに平和な町でございます。これもひとえに大公様の治世の賜物でございましょう。まこと偉大な君主を持たれたこのフィレンツェが羨ましくてなりませぬ」
ロレンツォは満足気に微笑んだ。
「倭文殿は、まだお話下さっておりませんぞ!なぜに東方より、このフィレンツェに来られたか」
伊達男を気取った口髭の男が、倭文の優美さに張り合うように派手なマントに包まれた肩をそびやかした。
「まぁそうお急ぎ召さるなリドルフィ殿、夜はまだ長い。そう急かされては話せるものも話せなくなってしまわれる、のう倭文殿?」
倭文は無言でロレンツォに頭を下げると、再び淡々と語り出した。
「都を逃れた私の両親は戦乱で朽ち果てるがままのジパングに見切りをつけて明との国交に使われておりました船(遣明船)に乗り込み、明の港、寧波にたどり着いたそうです。私は18の年まで都の京師(北京)の近くで過ごしました。都では西方の商人をよく見かけましたのでその頃から西方の言葉や人々の習慣について興味を持ち始めて教えを請うようになりました。 西方を目指そうと思ったのは18の時、流行り病で両親が相次いで死んだ時のことでございました。 それから7年、チベット、チムール、ビザンティン、オスマントルコ、 ヴェネツィア、ミラノ、フェラーラ と数々の国を超えてこのフィレンツェにたどり着いた次第にございます」




