ベアトリーチェ・ディ・メディチの肖像2
1491年 春ー フィレンツェー
「リーチェ嬢様、 ベアトリーチェ 様」
春の午後の柔らかな日差しが降り注ぐ庭園の中を、少年が素早く駆け抜けていった。
「まあいったい何でしょう。騒々しい」
窓際の椅子に腰掛けて刺繍をしていた婦人は眉をひそめながら立ち上がって窓を開いた。
しかし少年の姿はどこにもなく、代わりに階下で勢いよく扉の開く音がした。
「あの声は ミケランジェロ ね。今日は一体どうしたのかしら ?いつもにも増して元気が良いようだけど…」
婦人の前に腰掛けていた少女は 刺繍の手を止めて呟いた。まだあどけない、しかし数年の後には必ずや他の及ばないほどの美貌になるであろう、白く小さな顔の周りには 春の陽差しを集めたような金髪が波打ち、咲きたての薔薇のような唇には微笑が浮かんでいる。
「 全くミケランジェロはうるさすぎます。ベアトリーチェ様に馴れ馴れしすぎますわ、お勉強の邪魔ばかり…いくら ロレンツォ様に才能を認められたとはいえ、ベアトリーチェ様はこのフィレンツェの支配者、メディチ家の公女様ですのよ」
「ミケランジェロは面白いお話をたくさんしてくれるわ。フィレンツェの街では今、どんなことが 評判になっているとか、お父様のお供をしてヴェネツィアに行った時、元首様のお館にあった聖母子の絵がとても優しそうだったとか…私、ミケランジェロのお話を聞いていると、とても楽しい気持ちになるの。楽しい気持ちになるとお勉強もはかどるのではなくて?私きっと今日の刺繍は上手にできてよ。だって ミケランジェロがあんなに楽しそうなんですもの。ねぇ乳母 や、ミケランジェロってやっぱり天才ね。自分の楽しさを人に分け与えることができるなんて…」
「ま…ベアトリーチェ 様…」
乳母と呼ばれた婦人は身も心も天使のような、彼女の小さな女主人を振り返って苦笑した。
☆
時はイタリア・ルネサンス 華やかなりし中世の頃、ここルネサンス発祥の地、花の都 フィレンツェは メディチ家当主の大公、ロレンツォ・イル・マニフィーコ(豪奢殿)の治世のもたらす 平和の中で繁栄の夢にまどろんでいた。
ロレンツォ大公には3男6女の子供があった。ベアトリーチェはその末娘、第6 公女である。
☆
「リーチェ 嬢様、 どちらにいらっしゃいますか!」
「ここよ、ミケランジェロ。ここにいるわ!」
ベアトリーチェは高く澄んだ声で答えた。バタバタという靴音が回廊に響き、厚い扉を勢いよく開いてミケランジェロが飛び込んできた。
後にルネサンスの巨匠としてその名を歴史にとどめたミケランジェロはこの時16歳、その才能をロレンツォに認められ、彼の身辺に仕えながらメディチ家の工房で絵画や彫刻の修行をしていた。
「リーチェ 嬢様、今日はすごい知らせがあるんですよ。今朝、大公様に謁見を願い出た者の中に、東方からの商人の一行が混ざっていましてね…」
「東方よりの商人?どうせ野蛮なトルコやアラビアの者がこのフィレンツェの富に預かろうと大公様に商売許可を願い出たのでしょう。珍しくもない…」
乳母は風に赤毛を乱したミケランジェロをじろっと見ながら言った。しかしミケランジェロの方はそんな乳母の視線には一向に気づかず、ベアトリーチェの傍らに座り込んで興奮気味に口を開いた。
「トルコやアラビアの商人なら、私だってこんなに慌てやしませんよ。問題はその商人の中に東方からの客人がいたということなんです。商売ではなくて純粋な…ね、リーチェ 嬢様、当ててごらんなさい。東方の客人とはいかなる異国の人か…」
「そうね… 東の果てに 栄えてるという、明という国の人ではなくて?」
「ああ 惜しいな、近いんですけどね… 東方のお客人は ジパング(日本) からいらしたんだそうですよ」
「ジパング…?」
「そう、あの マルコ・ポーロの記録に”黄金の島” と書かれているジパングです!」
「どんな国なの?」
ベアトリーチェは澄み渡ったフィレンツェの空のようなセルリアンブルーの瞳を輝かせながら椅子の手もたれに腕を乗せた。
「とても遠い国です、リーチェ 嬢様…明よりも、もっと東にある小さな島国、 それがジパングです」
ミケランジェロは、うっとりと宙を見つめてつぶやいた。彼はもはや、ここがどこで自分自身が誰か、などということを一切忘れていた。彼はその豊かな想像力の赴くままに海を越えてはるかなジパングで旅人として彷徨っているのであった。
「そこには、どんな人々が住んでいるのかしら?フィレンツェのように蒼い空はある?明るい太陽はある?」
「わかりません… 嬢様。だってフィレンツェの東方貿易商達も誰一人としてジパングに行ったものはないんですから。フィレンツェーヨーロッパ一のこのメディチでさえ、彼の国には乗り込んだことがありません」
「マルコ・ポーロも?」
「そう、マルコ・ポーロもはるか東方をさすらって元の皇帝、フビライ・ハンに珍重されはしましたが、彼もまたジパングへは渡っていませんからね」
ミケランジェロは勢いよく立ち上がると、壁にかけてあった羊皮紙の地図の上に手を置いた。
「誰も知らない国…ね、リーチェ嬢様、ワクワクしませんか?私は一刻も早く、1つでも多くのことを知りたい…創造するということは常に新しい知識を必要としますからね」
「知りたいわ、私も…お父様もお兄様お姉様も知らない国があるなんて…ああなんて素敵なの、夢のようだわ」
「リーチェ嬢様ならきっとそう言ってくださると思った…ね、すごい知らせでしょう?」
「ええ」
「実はこれだけじゃないんです、嬢様。ロレンツォ様がこの珍しいお客人を気に入られて、急ぐのでなければ暫し留まられてはいかがかとお薦めになられ、客人の方もそれをお受けになられまして」
「じゃ…」
ベアトリーチェは無邪気な笑みを浮かべながらミケランジェロに同意を求めるような視線を送った。ミケランジェロはもったいぶったような表情で重々しくうなずいた。
「そうですね、今宵の宴では殿からのお客人の紹介がありますよ…きっと」




