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ベアトリーチェ・ディ・メディチの肖像1

16世紀半ば、日本・平戸で1人の老人が息を引き取る。宣教師が遺品の中から見出したのは、イタリアルネサンスの巨匠であるミケランジェロのサインが入った1枚の肖像画。描かれていたのはフィレンツェの名家の姫ベアトリーチェだった。なぜこの絵が遥か東方の日本にあるのかーー物語は過去へ遡る。


フィレンツェで、東方ジパングから旅して来た青年・倭文(しず)と出会ったベアトリーチェは、身分も国も越えた恋に目覚める。しかしその関係はヴェネツィアとの政略結婚を巡るメディチ家の思惑とベアトリーチェに禁断の想いを寄せる兄ジョヴァンニの執着、その彼に歪んだ愛を抱く異母姉のマリーアの陰謀によって引き裂かれていく。

遂に出奔したベアトリーチェと倭文は追われる旅の果て、永遠の別れを選ぶ。やがて倭文に託されたベアトリーチェの肖像画だけが、叶わなかった愛の証しとして時を越えて残されるのだった。

1560年・春ー肥前・平戸ー

よく晴れた春の日のことだった。茫洋と霞む海を眼前に松浦家の城下町、平戸は人々の活気に満ち溢れていた。

街の中心には市が立ち、野菜や魚を売る声が威勢よく飛び交う。それに惹かれて足を止める人々の格好も、実に様々であった。市女笠を被って供を連れた、忍び歩きらしい武家女。薄くなった頭まで真っ赤にして千鳥足になりながら、それでもまだ酒を飲もうと酒屋に入っていく初老の男。両手に抱えきれないほどの荷物を持ちながら器用に人混みを掻き分けていく、長い黒髪を馬の尻尾型に結んだ下働きの娘 。

数々の人が入り乱れる中を、おそらくその中の誰よりも人目を引く男が一人、 急ぎ足で過ぎていく。

異人であった。その瞳は平戸の海のように青く、その肌は町の中心にそびえ立つ平戸の城の白壁のように白い。おまけに彼はその巨人のような体躯に、袋を被せたような足まで引きずる黒い布を身に纏っていた。彼は、ポルトガル人のイエズス会宣教師であった。

今を去ること11年前、この平戸より更に南下した薩摩に一人の宣教師が来航した。その名をフランシスコ・ザビエルといった。彼はヨーロッパで衰退したカトリック系のキリスト教をアジアに広めるべく、カトリックの総本山、ローマから日本に送り込まれてきたのである。

ザビエルの布教活動は大友義鎮(よししげ)などの西国大名に認められ、その保護を受けて確実に信者を増やしていった。

この成功に気を良くしたローマは、布教活動に熱心な情熱を燃やす宣教師達を次々と日本に送り込んできていたのである。

この男もそんな宣教師のうちの1人であった。彼は市の立つ通りを抜けると1本の細い路地を曲がった。そこには何軒かの掘っ立て小屋が集まって、互いを支え合うように立っていた。彼はそのうちの1軒につかつかと寄って行くと入り口のところで立ち尽くし、青い瞳を 驚愕に見開いた。

「ご老人…」

「ぱーどれ様…」

答えたのは宣教師が話しかけた相手ではなく、みすぼらしい着物を着た痩せこけた少女であった。

「ぱーどれ様、遅かったよ。爺ちゃんは逝っちまいました。ぱーどれ様によろしくって言い残して…」

少女のあかぎれだらけの手には小さな壺が抱えられていた。その壺の中身こそ、彼が話しかけた相手であった。

「何ということだ。旅に出る前にご老人の具合が悪いのに気がついていれば…」

「爺ちゃんがぱーどれ様はお忙しいんだから煩わせちゃいけないって…」

宣教師は鎮痛な表情を浮かべて目を閉じ、十字を切りながら何か低く祈りの言葉をつぶやいていたが、やがて目を開くと少女に話しかけた。

「それで、ご老人の最後はあなたが看取ってくれたのだね?」

「はい、爺ちゃんとは 隣同士だったし、色々お世話になっていたから…お触れ読んでもらったり、意味を教えてもらったり…」

「あなたに神のみ恵みがありますように…それにしてもー」

宣教師は骨壷にそっと触れながらひとりごちた。

「不思議な老人であった」

普通、この辺りの人々は皆、文盲であることが多いのだが、老人は読むばかりか書くこともできた。それはこの時代、相当の学を身につけたということを示すものであった。それにーと、宣教師は老人と初めて会った頃のことを思い出していた。

平戸は早くから異人達が貿易のために行き交っていた町とはいえ、髪も肌も自分達とはあまりに異なる外見を持つ人々を最初、平戸の住民たちは嫌い恐れたものであった。

ところが老人は、同胞であるはずの日本人よりもむしろ自分たちと話すことを好んでいたようであった。自らのことは決して話そうとはしなかったが、キリスト教や自分たちに対する理解の深さに宣教師は、本当に日本人だろうか?と幾度か密かに疑ったものである。

「そういえば、ぱーどれ様ー」

少女はふと気がついたように口を開くと、骨壷を傍らに置いて立ち上がった。宣教師の目がその後ろ姿を追う。少女はやがて部屋の隅から小さな板を抱えてきた。ほら、と言うように目配せをすると、板をひっくり返し宣教師に見せる。

「 これはー?」

彼はこの家に入ってから 2度目の驚愕に貫かれていた。

「 爺ちゃんの遺品を片付けてたら出てきたの。爺ちゃん、誰にも見せてなかったみたいだけどきっと、とっても大事にしてたんだと思う。だってそれ、絹で包んであったんです。自分は絹どころか、木綿のボロを着てたってのに…それにしても綺麗な女の人ですね。ぱーどれ様のお国の人はみんなこんなに綺麗なのですか?」

少女が見せたのは 肖像画であった。そこには1人の美しい異国の少女が微笑んでいた。 白い、宣教師の肌よりも透明度のある白い肌、ルビーを散りばめたネットで抑えた黄金と見紛う豊かな髪、つんと澄ました朱い唇、そして何より印象的なのは澄ました表情を隠しきれない、いたずらっぽく輝く瞳ー。彼女を描いた者の愛情が伝わってくるかのような暖かな、命が溢れるような絵である。この美しい少女を飾っている装身具もその美しさに見合う豪華なものであった。

髪飾りに合わせた深紅の衣装は、柔らかそうなビロードであり、その隙間から覗く下着は手の込んだ作りの雪のように真っ白なレースである。黄金の首飾りは繊細な細工が施され、少女の華奢な首が折れはしないかというほど幾重にもかかっていた。

『これは誰の肖像画だ?この姫は…』

宣教師は絵の中の少女の美しさにしばし呆然となっていたが、やがてふと思いついたように肖像画の下に視線をやり、そこに何もないとわかると絵を裏返して額の後ろを見た。彼の指が丁寧に、古い額の背を撫でていく。彼の指はある所で突然止まった。その下には時を経て変色した文字が浮かび出ていた。よほど注意して見なければ見逃してしまうであろう。それほど薄い文字だった。

文字は2種類あった。1つは宣教師にはなじみ深い異国の文字であり、今ひとつは見覚えのある老人の日本語の筆跡である。

異国の文字はー Mihelangeloーと記してあるようだった。

「…ミケランジェロ……ブオナローティ… ミケランジェロ・ブオナローティ… おお! やはり あのミケランジェロか!かのサン・ピエトロ寺院の天井画と道理で似ていたわけだ。しかしなぜこの東の果ての日本に偉大なる芸術家の絵が?」

宣教師は感動と驚愕の混ざった面持ちで文字の続きを追った。

「 ーベアトリーチェ・ディ・ メディチの肖像ー…1491年ーこれがかのミケランジェロが崇拝していたというメディチ家のマドンナか……」

唸ったり、 呆然としたりする宣教師を横で見ていた少女は、彼が気でも違ったのではないかと恐る恐る声をかけた。

「あの、ぱーどれ様…その絵の人、知っておられるんですか?」

宣教師はその声でようやく我に返ったようだった。

「あ、ああ…すまなかったね、久しぶりに故郷の文化に触れたものだから…この少女は異国の殿様の姫君だ。ロレンツォ・イル・マニフィーコという立派なお殿様のね。美の女神の化身とも讃えられたほどの美しい人だったそうだが。確かヴェネツィアのカペッロ家に嫁いで数年のうちに亡くなったのではなかったかな。嫁いですぐに実家のメディチ家も没落したし、幸薄きベアトリーチェ・カペッロ夫人というのはローマでは有名な話だったよ。かれこれ70年前も前のことだがね。しかし噂には聞いていたがベアトリーチェ夫人の肖像画を見るのはこれが初めてだ。ローマには彼女の肖像画は不思議なことにただの一枚もないのだ。噂によるとミケランジェロが彼女の美しさはこんなものではないと彼女の全ての肖像画を買い取って燃やしてしまったとか…」

「ぱーどれ様、その次のとこにも字が書いてあるみたいですけど。お触れの字と同じのが」

「これは 和歌…ではないかね?貴人が詠んだりする…筆跡はあの老人のものだが、果たして彼が詠んだものだろうか」

「読んでください、ぱーどれ様。あたし、字が読めないから」

流れるような平仮名の表記は宣教師にも解読が困難であったが少女の向ける信頼の眼差しと、何より彼自身の好奇心が彼に文字の解読を促した。

「ー月やあらぬー春や昔の春ならぬー我が身ひとつはもとのー身にしてー」

「どういう意味なんでしょうか?」

「残念ながら私にはよくわからぬ…」

宣教師は少女に向かって苦笑した。

「だが、あの老人は我々の想像するよりもはるかに波乱の人生を送ってこられたようだな。ローマにはただの1枚も存在しない幻の美女の肖像画を持っていたとは…しかも描いたのは偉大なるミケランジェロときたー 一体どのような経緯でこの絵が彼の手元にあるものか。あの老人とメディチ家のベアトリーチェ姫の間にかつて何かあったのか?それとも老人が偶然この絵を手に入れただけなのか?それにしてもおそらくそれはこの日本でのことではあるまい…」

宣教師の声はいつしか少女に聞かせるそれから、自分への低いつぶやきになっていった。

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