ベアトリーチェ・ディ・メディチの肖像36
『倭文ー倭文どこにいるの?会いたい……』
ベアトリーチェは泣きながら走っていた。
「倭文!!」
気がつくと彼女は兄の部屋の扉を力任せに開いていた。が、しかしそこには既に恋人の姿はなかった。
「何だ、ベアトリーチェ」
代わりに目に入ったのは椅子から立ち上がったジョヴァンニの姿である。
「倭文はーー」
言いかけてベアトリーチェは身を固くした。
“ジョヴァンニはあなたを愛しているのよ!”
マリーアの生々しい叫びが頭の中に蘇る。
「相変わらず倭文、倭文ーか?父上や召使達の話ではすっかり観念して大人しくなったと聞いていたが、どうやら噂だけだったらしい」
「ーー倭文の矢傷と水銀中毒はあなたとマリーアのせいだと聞きましたので…」
顔を強張らせながらもベアトリーチェはいきなり核心をついた。無表情だったジョヴァンニの頬に心なしか血の気が昇る。
「倭文は尋問が済んだので部屋に引き取らせた…僕があいつをどうにかすると思って息堰切って現れたのか?僕は何もしていないぞ。あいつに手出しをするなとの父上の命令もあるし、今はまだーな」
今は?ではいずれはどうなのかとベアトリーチェは兄を問い詰めたい衝動に駆られた。しかしジョヴァンニの顔に浮かんだ陰惨な微笑を見ているうちに、わかりきったことだとその気も失せた。
「ーーで、では私も部屋に帰りますー」
「待て! 」
扉の取っ手に手をかけた途端、ベアトリーチェの手首に兄の指が絡みついた。
「は、離して下さい。ジョヴァンニお兄様!!」
「マリーアから聞いたんだな?ならばどうして僕が倭文を亡き者にしたかったのかお前はその理由を知っているというわけだ。これでようやく僕は思いのままに振舞える」
近づいてきたジョヴァンニの鳶色の瞳は凶々しい光を帯びていた。
いつかもこの人はこんな目をして自分を見ていたー息もできないほど強く抱きすくめられたベアトリーチェは妙に醒めた頭で考えていた。
「お前を手放したくなかった、ベアトリーチェ…父上に枢機卿になれと言われ、ここを出て行かねばならなかった時、できるものならばヴァチカンに連れて行きたかった…お前の無邪気さ、明るい笑い声、軽やかに動く白い手足ーーいつしかそれが僕の支えになっていたのだ…幼い頃は家に天使がいるのだと固く信じ込んでいたよ。天使ではないとわかってからもお前を愛おしいと思う気持ちはどうすることもできなかった」
すがるように妹を抱きしめたジョヴァンニの指が、ベアトリーチェの金髪を弄った。
「だが所詮どうすることもできぬと悟って僕のした事といえば、お前が間違いなく不幸になるような結婚相手を探すことだった。マルコ・カペッロは…理想にぴったりの花婿だったよ。男女問わずの山程の愛人、しかも1番の寵愛は側仕えの男にあると聞いている。その上、ヴェネツィアのドージェともなればメディチの姫と身分的にも釣り合った。ベアトリーチェ、ヴェネツィアに嫁いだお前は、不幸な日々の中でこの花の都を思い出すだろう。光と自由と安らぎに満ちた故国のことを……徒然の思い出の中にはこの兄の姿もあるだろう。そして会いたいと思うかもしれないーそれだけで僕はよかったのだ!! それなのに倭文が現れ、お前はあの男と行こうとした。あの男と共にあればお前はいともたやすく僕を記憶の外に押しやるだろうー僕にはそれが許せなかった。それが、我慢できなかった…」
「ーだから倭文を…?」
ベアトリーチェはやっとの思いで首を巡らして、彼女の肩に顔を埋めているジョヴァンニを見た。
「馬鹿ね、私達は兄妹だもの。私があなたを忘れるはずなどなかったのに……あなたはご自分で私とのつながりを断たれてしまいましたのよ、ジョヴァンニ・メディチ様。今更言っても詮無きことですけれどーー」
「ベアトリーチェ! お前を離さぬぞ…絶対に!!」
妹の言葉に、ジョヴァンニはビクリと顔を上げた。いつも冷静な兄の瞳が、激したせいか薄っすらと涙さえ浮かべているのが見え、耐えきれずベアトリーチェは目を閉じた。
「ーー好きにしたらいいわ…こうなったとあってはヴェネツィアに嫁げることがせめてもの幸いなのでしょうーヴェネツィアはキリスト教国家とはいえ、実際のところオリエントの影響下にあるといいます。法王の命も、彼の地では何の効力も持たないと…ですからジョヴァンニ・メディチ枢機卿様、この先あなたが法王になられても、私はもう二度とあなたの言いなりになどならない!!倭文を殺せば私があなたの許へ帰ってくるなどと本気でお思いでしたか!? 私の心は一生倭文のもの。人の心は縛れません……たとえいかなる尊き方でもー」
「ーーー」
ジョヴァンニはズルズルとベアトリーチェの足許に崩れ落ちた。
憔悴しきった様子で、ジョヴァンニは机上の蝋燭を見つめていた。
ベアトリーチェがいつ去ったのか、彼にはさっぱり記憶がなかった。いつの間にか窓の外はとっぷりと日が暮れていた。
“自分は一体何をしていたのだろう?”
ふと我に返ったジョヴァンニは、しかしすぐに無気力感に襲われて、再び放心状態になった。愛しいものに見放されたーーその思いが彼の心を空虚にしていた。だから彼は気づかなかったのである。自分の部屋に誰が入ってきたのかさえ。
ジョヴァンニの後ろにはいつ来たのか、勝ち誇ったように微笑むマリーアが立っていた。彼女は虚ろな目をした異母弟の背に、そっと頭を持たせかけて囁いた。
「自分の道を信じてお行きなさい、ジョヴァンニ。このマリーアが影となって、あなたをずっと支えておりますから……あなたの道は悠か彼方まで続いているーー流血と栄光の未来へと」




