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ベアトリーチェ・ディ・メディチの肖像35

その頃、ベアトリーチェは兄の部屋を目指して足早に回廊を歩いていた。

帰ってきてからというもの思うように動きの取れない彼女に、倭文がジョヴァンニと会うという情報をミケランジェロがこっそりともたらしてくれたのだった。

ジョヴァンニの許にはきっとマリーアもいるのに違いない。あの2人の前に倭文が出て行っては今度こそ本当に殺されてしまう。

『どうぞ間に合いますようにー』

ベアトリーチェの足が一段と早まった、その時ー。

「ーーー!?」

とっさのことにベアトリーチェは声が出せなかった。回廊を曲がった途端、そこにマリーアがいたのである。

フィレンツェに帰ってきてからというもの、ベアトリーチェはジョヴァンニとマリーアに会うのを避けていた。彼らが倭文と自分にした仕打ちを考えると、ベアトリーチェは所や立場をわきまえずに自分でも何を言い出すかわからなかったのである。せめてもう少し落ち着いてからと思っていたのに、ベアトリーチェは待ち伏せしたかのようなマリーアの出現を内心気味悪く思いながら傍らを通り過ぎようとした。

「待ちなさい、ベアトリーチェ」

足は止めたもののベアトリーチェは振り向きもせずに答えた。

「私、あなたに指示されたくなどありません。その理由は…ご存知ですわね?今度のことで私は倭文と共に兄と姉も失いました……さようならマリーア、もうあなたを姉とは思いません」

言い捨てて立ち去ろうとするベアトリーチェとは反対に、マリーアは挑戦的であった。

「あなたに人のことをとやかく言える資格があるのかしら、ベアトリーチェ?私はメディチ家の一員として当然のことをしただけよ。すべてはあなたが公女としての役目を投げ出したことから始まったのだわ…隊商の全滅も、倭文の病も、ね」

挑発するような口振りのマリーアは悪怯れもせず、むしろ生き生きとして見えた。ベアトリーチェがフィレンツェを出て行く前のような、白々しくどこか醒めたような彼女とはまったく違っていた。

『そうー私のせいね……でもー』

ベアトリーチェは目を閉じて深呼吸した。高鳴っていた胸が嘘のように静まっていく。再び目を開いた時、彼女は驚くほど冷静に口を開いていた。

「私は自らの罪を償うためにこうして戻って来ました。許してもらおうとは思いません…倭文を愛することはやめられないのですから……ただ少しでも私の祈りが彼らの魂に安らぎを与えることができたら…ペッキーノ一行に、お父様に、ミケランジェロ、そして…倭文にーーあなたにも祈って欲しい。そう思いますわ、マリーア。この上倭文を殺そうなどとお思いにならないで!そこを通して。私を行かせて!」

「ほら、ようやく本性が出たーー」

マリーアは唇の片端を吊り上げてクスクスと笑った。

「私は罪を犯した覚えもないし、祈る気などさらさらないわ。彼らの死はほんのついでのことだもの。でもーーそうね。もしあなたが 砂漠で死にでもしてくれていれば今頃は祈っていたかもしれないけれど 、ベアトリーチェ?感謝の祈りを、ね」

「なぜそんなひどいことをーー?」

マリーアは片手を部屋の扉にかけてベアトリーチェを誘った。

「私達、ようやく本音で話が出来そうね 。メディチ家の一員としてあなたを連れ戻したなんてもちろん嘘ー本当のことを話してあげるわ、ベアトリーチェ。あなたもそれが知りたいのでしょう?」

マリーアに操られたように、ベアトリーチェは無言で部屋に入っていった。



『ここはなんて暗いのだろう。前に来た時も思ったことだけれど……』

天井からぶら下がる薬草や何かを干したらしい得体の知れない物体などを見上げたベアトリーチェは我知らず眉をひそめていた。以前よりもそれらが不気味に見えるのは、この薬で殺された亡霊達の存在に彼女自身が気づいてしまったからに他ならなかった。

「…いったい、いつから私達を騙していたの?」

「ヴェネツィア人の刺客が倭文を襲った時。男に薬を飲ませて操ったわ」

「ヴェネツィアの名をかたったの!何てことを…ヴェネツィアのドージェに知れれば国同士の問題になるわ!!」

「許嫁を放り出して逃げる方がよほど問題だわ! 誤解しないでね、ジョヴァンニの許にはヴェネツィアから”倭文を消せ”と手紙が届いていたの。名をかたったわけじゃないのよ」

「…そうーーー」

ポツリとため息交じりの呟き。

「そう…皆で私達を騙していたとーいうわけね。それではいくら逃げても無理なはずだわ」

ベアトリーチェはヘタヘタとその場に膝をついていた。裏切りに続く裏切りーもう涙も出ない。彼女は恐ろしく孤独だった。

「どう、いくらおめでたいあなたでも少しは浮世の厳しさが身に沁みて?倭文と引き裂かれて報われない愛がどんなに辛いものか味わえたでしょう」

「まさかーー」

「そう、あなたと倭文を逃がしたのはあなたにこの苦しみを与える為だったーーあなたはあまりにも恵まれ過ぎて、たったひとつの愛を得ることも許されない私やジョヴァンニの苦しみに気づきもしなかったのだから」

マリーアは少し、言葉を切って異母妹を見る。呆然としているベアトリーチェの顎をつまんで仰向かせた。

「ひとつの愛ってーー?」

弱々しく漏れたベアトリーチェの呟きにマリーアは間髪入れずに答えたのだった。

「ジョヴァンニはあなたを愛しているのよ。そして私はジョヴァンニを愛している」

「ーー私達、兄妹なのよ…ロレンツォ・メディチの子供だわ」

「そんなこと関係ないわ。あなただって許嫁のある身で、どこの馬の骨とも知らない倭文と逃げ出したーあなただけが幸せになるなど私達は絶対に許さない」

憎々しげに声を荒げるマリーアを、ベアトリーチェは哀れむように見上げた。

「ーーーあなた、この部屋を気味悪いと思って?」

狂気を帯びたマリーアの瞳に、一瞬静けさが戻ってきた。彼女はベアトリーチェから離れるとふと視線を遊ばせた。

「私もそうだったわ、幼い頃は。闇に食われてしまうのじゃないかと思った。泣いて泣いて……でも誰も私を助けに来るものなどなかった。産んだばかりの私を捨てて母がこのパラッツォ・メディチから出て行ってからというもの、ロレンツォ・メディチが私に与えたものは、死なないための糧と乳母ーその乳母も当主の愛情薄い子供には何の価値もないと思ったらしくて慈しまれた記憶はひとつもないわ。ある時、何か大きな宴があったの。子供だった 私も特別に出席が許されて…それは、この部屋が世界のすべてだった私にとって初めて見る世界だった。美しく着飾った男女、何千という灯り、リュートの奏でる音色ーでも私は偶然見てしまった。ロレンツォ・メディチとその家族を」

マリーアの瞳にありありと羨望の色が浮かび上がった。

「ローマの名家から嫁いできた美しく、大人しそうな妻とその胸に抱かれていた赤ん坊ー今思うとあれがあなただったのねーその周りを囲んでいる子供達も穏やかで平和そうで愛情を与えられて育った子供達だと一目でわかるようだった。それを見た時に私はわかった。乞食の子、下女の子と思ったのでも構わない。あの美しいけれども孤独な広間で、私が欲しかったのは私のことを気にかけてくれる、私のためだけの言葉をくれる人だった。そんな時 私の心を察したようにその子供達の1人が私の側へ寄ってきて声をかけてくれた…” どうしたの?とても寂しそうな顔をしているよ”と…実の父親にさえ厭わしく思われている、このジプシーの混血児にね。あの時私は思ったの。この人のためなら何でもしようと。彼がジョヴァンニ・メディチという名で、私の異母弟だということは後からついてきた結果にしか過ぎないわ」

マリーアの視線が再びベアトリーチェの上に止まり、彼女は愛に飢えた子供から実の弟に愛情を抱く、狂おしい乙女の表情に変わった。

「お前にジョヴァンニを責める資格などない! あの優しかったジョヴァンニをここまで変えたのは一体誰だと思っているの!ベアトリーチェ、お前が変えたのよ。ジョヴァンニはお前を愛するがために自ら一生誰も娶らない枢機卿になった。俗世にいればピエーロなどより遥かに優れたメディチの当主になっていたのに……お前とあの男が苦しむのは自業自得だわ。ジョヴァンニを捨てて幸せになろうとしたのだから。永遠に苦しむといい!! 」

半ば正気を失ったような、マリーアのヒステリックな笑いを背後に、ベアトリーチェは部屋を飛び出していた。

恵まれなかった幼い頃のマリーアへの憐れみと、兄と異母姉の秘められた思いへのおぞましさが入り混じって、ベアトリーチェはとてもその場にいることができなかった。

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