ベアトリーチェ・ディ・メディチの肖像34
ーーフィレンツェ パラッツォ・メディチーー
茜色に染まるフィレンツェの街中を、サンタマリア・デル・フィオーレの鐘が響き渡っていた。数ヶ月ぶりに見る故郷は相変わらず美しかったが、ベアトリーチェにとってはもはや清らかな鐘の音さえも弔いの音色にしか聞こえなかった。
ラルガ街にある重厚な造りの見慣れた我が家の前に立った時、ベアトリーチェは被っていた頭巾をずらしてそれを見上げた。
「さ、お早くお入りを…人目につきますゆえ」
促されたベアトリーチェは無言のまま門を潜った。
「お戻りなさいませ、ベアトリーチェ様!!ようご無事で……」
中庭から館につながるアーチ型の回廊で、ベアトリーチェは乳母とミケランジェロの迎えを受けた。乳母は転がるように飛び出してくると、男達から奪うようにしてベアトリーチェを抱え込んだ。
「まぁ真珠のようだったお肌がムーア人のように真っ黒になられて…レモン汁でパックをしなければなりませんわ。お髪もきらめく黄金であられたのに、埃と強い日差しのせいで白んでしまわれて…短く切ってしまわれたのですね、おいたわしいこと…ご婚礼の日までに伸びられると良いのだけれどーー」
乳母の矢継ぎ早の鑑定をベアトリーチェは黙って聞いていた。されるがままの彼女であったが、回廊の両脇に灯された蝋燭の下に、懐かしい彼女の崇拝者を見出した時、ほんのわずかに表情が動いた。
「ーーミケランジェロ……」
「…お帰りなさい、嬢様……そのう、何と言ったらいいのか…」
痛ましそうに目を伏せるミケランジェロの姿をベアトリーチェの視線が撫でた。
「無事、だったのね。ミケランジェロ…よかったわ。私達のせいで血が流れるのはもうこれ以上ーー」
シリアでの隊商虐殺の噂はミケランジェロも聞き及んでいた。ましてフィレンツェにいた彼である。ロレンツォの名で行われたこの行為が、真実は彼の次男と妾腹の娘によってであったことはーロレンツォは危篤状態と言われるほどの重病である。命令を下せるはずがなかったー周知の事実であった。
倭文の水銀中毒、虐殺事件、言い表せない苦難を乗り越えてきたベアトリーチェの旅の終わりがこのフィレンツェだったとは…。言葉もなく立ち尽くすミケランジェロにベアトリーチェはむしろ淡々と口を開いた。
「ーヴェネツィアはよい所だったわ。ひいお祖父様のコシモ様がフィレンツェを追われて一時あそこで過ごされたのですって。蒼い海があって、明るい太陽があって…でも……」
ふいにベアトリーチェの頬を真珠のような涙の粒が静かに濡らした。
「再びヴェネツィアに行ったとしても、あの人がいない…倭文はもういないわ……」
「リーチェ嬢様…」
くず折れたベアトリーチェをミケランジェロはとっさに抱きしめた。驚いた周りの者達が駆け寄る中、ベアトリーチェはミケランジェロに低く囁いた。
「私、今までメディチ家の、ロレンツォ・マニフィーコの娘に生まれたことを誇りに思っていたの。でもどうしてかしら、ミケランジェロ?今ではそんな風に思っていた自分がとても口惜しいわ」
乳母に連れ去られるベアトリーチェを見送りながら、ミケランジェロは非運の恋人達の無念を思って溢れる涙を拭った。
『お父様ーーこんなにおやつれになって……』
「ベアトリーチェ…戻ったのか?その椅子にかけなさい。いや、その前にこちらへ来て顔を見せておくれーなんとそなたは大人びたのだろう」
「お父様、ご心配をおかけして申し訳ございませんでした。変わったのはきっと、この肌と髪のせいですわ。おかげで乳母やが部屋から出してくれませんの。黒い顔をして日を浴びては白くなるどころかいっそう黒焦げになってしまうと言ってー」
首筋をようやく覆う長さの髪に手を当てた娘を眩しそうに見ながら半身を起こしたロレンツォは笑い声を立てた。しかし、彼を蝕む痛風の病はすでに彼の容貌に死相を刻み込んでいた。肌はカサカサと生気がなく、四肢は自由に動かすこともままならないほど腫れ上がっている。
「いや、そなたは変わった、ベアトリーチェ。愛することを知っただからだな…」
「お父様……人を愛するということはーそんなにいけないことなのでしょうか?」
ふいに微笑を消してベアトリーチェは父に問うた。ロレンツォは娘を座らせると周りの者を退がらせた。やがて彼は娘の瞳を食い入らんばかりに見つめながら、ゆっくりと諭すように口を開いたのだった。
「そうではない、ベアトリーチェ。愛するということはとても素晴らしいことだ。無論いい事ばかりではないが…それが人を一層成長させる。父の小さなベアトリーチェはこんなに美しく賢い貴婦人になった。倭文殿に感謝せねばな。そなたとてフィレンツェに戻ったらどうなるかわかっていて、しかしなお父の病を案じて戻ってくれたのであろう?倭文殿の身を案じる心であったにしても、やはりそれもまた愛だ。そなたは自分の幸福と引き換えに、人に愛を与えることができた。父が望むのは、そなたが1人の人間を愛するのではなく、その愛を花の都の人々全員に分け与えるということなのだ。余の父や祖父がそうしてきたようにな」
「ーーそれが、このメディチ家に生を受けた者の運命なのですね…気づかない私が子供だったのですわ。けれどお父様、子供のベアトリーチェの最後のお願いをどうか聞いて頂きたいのです。倭文の命をどうかお助け下さい。でなければ私、とても婚礼まで生きていられるとは思いません」
ベアトリーチェがフィレンツェに到着した 数日後、倭文の一行もこの地に着いていた。
フィレンツェに着けば、即地下牢行きだと思っていた倭文の予想に反して、彼はパラッツォ・メディチに以前の部屋よりは劣るものの小部屋を与えられたのだった。そこで彼は医師をつけられ、水銀中毒の手当を施された。実際、中毒はかなりのところまで進んでおり、よくも旅に耐えてきたものだと医師は内心舌を巻く有様だった。
パラッツォ・メディチに着いたその日のうちに、意識不明になって寝込んだ倭文は夢と現の狭間でベアトリーチェの面影を追い求めていた。目を覚ませばいつかのようにベアトリーチェが傍らで微笑んでいるのだと自分に言い聞かせながら、倭文は泥のような眠りに落ちていった。そんな眠りを何回繰り返した頃であったか、倭文はある部屋へ連れて行かれた。意識ははっきりしているし、足腰も萎えてはいるもののふらつくことはない。中毒が回復してきているのが自分でも手に取るようにわかった。ただベアトリーチェを失ったあの時の痛みだけは一向に言えることはなかったのだが。
「連れて参りました、ジョヴァンニ様」
そこはかつてミケランジェロと通りかかったジョヴァンニの部屋であった。押し出されるように部屋の中に入れられた倭文を待っていたのは、当然のことながらここの主であるジョヴァンニであった。
長兄であるピエーロを補佐するというよりも専ら父ロレンツォの後継者と噂されている彼はごく簡単な枢機卿の略装で机に向かい、したためた封書に蝋を垂らしていた。
「これは倭文殿ーー久しくお会いせなんだがお元気そうで何よりだ…」
口許に満面の笑みをたたえたジョヴァンニの瞳は、しかし少しも笑ってはいなかった。椅子から立ち上がった彼はペーパーナイフを片手に、獲物を追い詰めるような足取りでゆっくりと倭文に近づいた。
「ー手も、足もー」
ふいにジョヴァンニは、手にしたペーパーナイフの柄で倭文の手足を打った。思わず倭文がよろめくと、再び伸びたナイフが今度は彼の頬を打つ。
「そしてこの顔もーーよう日焼けして、まこと健康そうだ…旅はさぞ楽しかったのであろう?」
あからさまな嫌味に倭文はただ黙って頭を下げて跪いていた。その様子を見たジョヴァンニの鳶色の瞳には、狂おしい苛立ちが閃いたが彼はかろうじてそれを抑えるのに成功したようだった。やにわにナイフを置いて、銀の指輪をはめた指で神経質に机を叩き始める。
「倭文殿、そなたにひとつ聞きたいことがーーある」
細めた目が倭文に向けられた。
「ーー何なりと」
「フィレンツェでもヴェネツィアでも、名家の娘の価値は処女性で決まるーということはご存じかな?」
「ーーーはい」
「ではベアトリーチェはいかが?本人に確かめてもよかったのだが、さすがに実の妹に向かっては少々しづらい質問だったのでな。倭文殿とは男同士、聞く方も聞かれる方もこの際遠慮はなしとしよう。まぁ駆け落ちをした者達にそれを聞くのも無柳だとは思うがメディチとしては今後の対ヴェネツィアの基本方針にも関わることなので」
「ではー天地神明にかけて誓います。ベアトリーチェ殿は今もメディチ家のベアトリーチェ姫であらせられます。真実この薄汚れた旅人の妻にはなっておられません」
倭文の頭上でジョヴァンニのヒステリックな笑い声が響いた。倭文を睨みつけたジョヴァンニはもう憎しみの色を隠そうとはしなかった。
「これは笑止。なんと往生際の悪いことだ、倭文殿。とても人の家の娘をかどわかした悪党とは思えぬ情けなさよ!」
「この身はなんと罵られましてもーーただベアトリーチェ殿の名誉は守って頂きたい。決して無実の罪によって幽閉されることなきよう願います」
「そのような寝言を信じよというのか。土台無理な話だな。メディチほどの名家の娘を手に入れてものにしない男がいようか?こんな噂は広まればメディチ家の命取りの醜聞になりかねない。これをネタにメディチをゆすって一生遊んで暮らすという手もあるではないか」
「私はベアトリーチェを家柄で愛したわけではありませぬゆえ」
瞬間、倭文の声が氷の刃の如く、ジョヴァンニの耳に突き刺さった。ジョヴァンニは息を飲んで倭文を見つめた。そこには彼が見慣れた、たおやかさや優美さとは程遠い、燃えるような目をした倭文がいた。




