ベアトリーチェ・ディ・メディチの肖像33
それからどのくらい時が過ぎた頃だったかーベアトリーチェは天幕の中で目を覚ました。まるで時が止まったかのように静まり返った中で、彼女はぼんやりと砂の降る音を聞いていた。
「お目覚めでしたか、姫君」
血こそついてなかったが、昨夜の忌まわしい出来事を思い起こすのに十分な黒装束の男が彼女に跪いた時、ベアトリーチェは思わず身を起こしていた。
「お早いお気づきでようございました。過労からくる失神かとーー」
「ーそなた達、倭文をどこへやりました?」
「あの男でしたらあちらの天幕に」
「私が尋ねているのは生きて、無事でいるのか、ということです」
「御意」
ベアトリーチェは握りしめていたブランケットを離すと立ち上がって天幕の外に出て行こうとした。数人の男達が音もなく寄ってきて彼女を囲む。
「ベアトリーチェ様、ロレンツォ様はご危篤状態であらせられます」
隙をつくように響いた声に、ベアトリーチェの歩みが止まった。
「あなた様が出奔なされた後、2月の末に病床にお着きになられたまま、一向によくおなりにならぬご様子で…このままでは春までお持ちになられるかどうかとー」
「……」
無表情なベアトリーチェを前に男はしゃべり続けた。
「フィレンツェではロレンツォ様の代理でジョヴァンニ様がご家門の切り盛りをなされております…ベアトリーチェ様、ロレンツォ様やジョヴァンニ様はご自身、フィレンツェを一歩も離れることなく私どもをこの遠き地へ放ち、あなた様を追わせる力がおありなのだということをご自覚下さい。あの方々が本気になられれば、あの男の命も風前の灯ーそこの所をお含みおき下さって、何卒フィレンツェへお戻りを」
「もうー逃げようとは思いません」
地面をじっと見つめたベアトリーチェはニコリともせずに言った。何もかもが実感を伴わない。彼女は自分の声を夢心地に聞いていた。
「どこまで行ってもそなた達は追ってくる…たとえそれがジパングであってもーーそして皆を殺したように倭文を殺すのでしょう。違いますか?」
「御意」
「但し条件がありますーーフィレンツェに戻るのは私1人、倭文には一切の危害を加えず、無事ジパングへ旅立たせること」
「恐れながらそれについてはマリーア様よりのご伝言がございます。あの東洋人は怪我も治らぬうちに出奔したゆえに未だ傷が良くなってはいまい。前に与えた薬はかなり強いものなのでご気分を害されておるやもしれぬ。もしそうならば完全に治して差し上げるゆえフィレンツェに共に参られるがよろしかろうとーー」
「…白々しいこと」
「は?」
「それは…倭文の決めることです。おどきなさい」
男達の前を通り過ぎたベアトリーチェは振り向きもせずに出て行った
「ーーなぁ、おい…」
「何だ」
人形のように、ただただ愛らしかった主君の娘の豹変ぶりに男達はなんとなく毒気を抜かれて呟き合った。
「ベアトリーチェ様はーー変わられたな。ボロを纏っておられるとか髪が短くなられたとかではなく…」
「ああ…特に今朝は昨日までのあの方とは別人のようだ。やはり姫君にはあの光景が応えられたのだろうよ」
「なぁ、あの隊商の処分というのは本当にロレンツォ様から出た命令なんだろうか?」
「なぜだ?」
「ロレンツォ様はベアトリーチェ様を殊の外お可愛いがりだろう。いくら見せしめの為とはいえ、愛娘にこんな光景を見せられることを良しとなさるだろうか?確かに殿様は政敵には厳しい方だ、だがかつて庶民を巻き込んだことといえばヴォルテッラ事件ぐらいしか思い浮かばない…今、実権を握っているのはジョヴァンニ様だ。案外”メディチの黒魔女” 殿が関与していたりしてな」
「滅多なことは言わない方がいいぞ! 仮にもロレンツォ様の姫君だ」
「どうしてだ?近頃のジョヴァンニ様が異母姉を離さないというのはフィレンツェでは評判のことじゃないか。何かあると思っても不思議はないだろう。マリーア様の名を聞かれた時のベアトリーチェ様の反応といいーー」
「だからこそやめるんだ! もしあの方が陰にいるのだとしても俺達は黙って使命を果たせばいいだけだ。下手な事に首を突っ込めばメディチの黒魔女の怒りを買うぞ!!」
錬金術や黒ミサの噂に縁取られた妾腹の姫を思い出した男は忌々しげに首を振った。
「ーーいや…そうだ…きっとー」
いまひとりの男は憑かれたように呟いた。
天幕の入口を上げた時、砂漠には薄紫の帳が降りていた。一歩踏み出せば辺りは冷気に満ちている。ベアトリーチェは襟を掻き合せながら倭文を捜して彷徨った。
「ーー倭……」
天幕からそう離れていない場所でベアトリーチェは倭文を見つけた。だが声をかけようとした彼女はいつしか息を飲んで足を止めていた。
倭文はーたった1人、死体の山の中で彼らを清めて葬っていたのである。一つ一つ丁寧に、ブランケットで砂を払い、血を拭き取りーーー。
一夜明けて死者達はとても静かだった。すでに火は消え、燃え尽きた残骸だけが黒々とした炭になって寒々しい。その中でただ1人倭文だけが、一心に死者達の苦しみを背負ったように苦悶の表情を浮かべて異質であった。
うなだれ、ふと足許に視線を落としたベアトリーチェは我知らず、見覚えのある首を拾い抱きしめて呟いていた。
「…ごめん…なさいーーー」
どす黒く乾いた血に塗れた、冷たい首の感触はベアトリーチェにまざと仲間の死を実感させた。
「ごめんなさい……ごめん…ね、みんな…私の…せいでーー」
激しくしゃくり上げるベアトリーチェに気づいて、倭文が弔いの手を止めてやってきた。無言で抱き寄せられ、昨夜から麻痺していたベアトリーチェの感情は堰を切ったように流れ出したのだった。
「ーーー私………フィレンツェに帰りますーーー」
最後の死体に砂をかけ終わった時、ベアトリーチェはポツリと呟いた。ベアトリーチェの泣き腫らした横顔を見ながら、倭文はため息をついた。
「…ベアトリーチェ、君がショックを受けたのはわかるけど、アーンミヤだって幸せになれと…言ってくれた。今ここでフィレンツェに引き返してしまえば彼らの死は無駄に終わってしまうだろう…勇気を出してついてきてほしい」
「勇気なら出しているわ…これ以上ないくらいーーあなたと行かないって言うことで」
「ベアトリーチェ、どうしてーー?」
「あなただってわかってるくせに」
苦笑めいた表情でベアトリーチェは倭文を見た。
「倭文ーあなたをこんな風にしたくないの。私がフィレンツェに戻り、ヴェネツィアの元首の元に嫁がない限り、また多くの人々の血が流されるわ。メディチ家の決めたことは何があっても実行される。昨夜あなたが言ったのよー私達もう無理よ」
「…だから他の男と結婚するっていうの?」
「あなたの為よ…あなたの命を守る為に、私ができる唯一の事だわ」
「私の命なんてどうでもいい!!君と離れて生きられるものならわざわざフィレンツェから連れ出したりはしなかった! 今更ーー」
絶句した倭文の腕の中でベアトリーチェは目を閉じる。涙が頬を流れ落ちた。
「私、こんなにあなたのこと好きじゃなければよかった…そうしたらここで一緒に死ねたかもしれないのにーーー」
その時、地平線の彼方から太陽が昇ってきた。遮るものの何もない砂漠のこと、その光は身も心も凍え切った倭文とベアトリーチェの上に恵みのように照りつけた。
「ーごらんベアトリーチェ、夜明けだ」
手を離せばその姿がかき消えてしまうと言った風情で、ひしと倭文の腕にすがりついていたベアトリーチェは、ほんのわずかに顔を上げると輝き始めた太陽を見た。
「昨夜からの出来事がまるで夢のようだーーああ、こんな時だというのに夜明けというのはほっとするね。地上の誰が祝福してくれなくても私達は神に愛されている気がするーーーベアトリーチェ、ジパングに一緒に行こう」
「………」
応えはない、腕を緩めた倭文が見たのは、黙ったままハラハラと涙をこぼすベアトリーチェだった。
「ーーそうできたらどんなにいいでしょう…でも私は見てしまったの。アーンミヤやダンの死を…そしてあなたの近い未来を。気づかなかった頃には戻れないわ」
「お別れは済まされましたか、ベアトリーチェ様ー」
ふいに背後から聞こえた声は、まるで最後の審判を告げるラッパのように2人の耳に響いた。その声に引かれるように、ベアトリーチェはゆらりと倭文から離れた。
「行くな、ベアトリーチェ!!」
倭文の手が素早く伸びてベアトリーチェの手首を掴み、引き寄せた。とっさの出来事に周りの男達の間に緊張した空気がみなぎった。
「控えなさい、そなた達!!」
男達をとどまらせ、ベアトリーチェは静かに倭文を振り返った。見上げた瞳はすでに濡れてはいなかった。
「ーー元気でね、倭文…あなたのこと、一生忘れないわ」
ベアトリーチェの身が飛び跳ねた瞬間、倭文は羽のような口づけを受けていた。メディチという巨大な力の前で無残に壊された、彼らの愛のようなはかない接吻ー倭文は非力な自分を呆然と感じる他なかった。倭文の力の緩んだ瞬間にベアトリーチェはその腕から離れた。
「ベアトリーチェッ!!まっ……」
一瞬、足を止めて振り返ったベアトリーチェは切ないほど美しい微笑を倭文に向けた。それは倭文の見慣れた天心爛漫な微笑ではない。もっと深みのある、もっと哀しげなーーーベアトリーチェのこの表情を倭文は生涯忘れることはなかった。
「ーーー戻ります」
用意されたラクダに乗ったベアトリーチェは、毅然として前方を見つめたまま二度と振り返らなかった。時折かすかに肩を震わせているのは、きっと耐えきれなくなった涙を啜り上げているのに違いない。
「ベアトリーチェ……ベアトリーチェッ!!」
矢も盾もたまらず駆け出した倭文は、残っていた数人の男達に取り押さえられた。
「離せっ!離してくれ!!ベアトリーチェをーー返してくれ……」
男達の手を振り払おうとしたものの、水銀中毒のために倭文にはもはや抗う力も残っていなかった。どうしてベアトリーチェを止めることができなかったのだろうー悔し涙に暮れながら、倭文は男達に囲まれて砂塵の中を遠ざかっていく恋人の後ろ姿を見つめていた。
こうして彼らの間は一夜にしてジパングとフィレンツェよりも遠く隔たったものとなったのであった。




