ベアトリーチェ・ディ・メディチの肖像32
「どうしたの、倭文。急に歩こうだなんて…」
先を歩いて行く倭文に追いつこうとベアトリーチェは砂の上を駆け出した。砂地は足を取られて走りにくい。勢い余ったベアトリーチェは倭文を追い越してしまった。
「次の都市ーダマスカスまで行ったらこの隊商とは別れよう」
「え、何ですって?」
砂を払いながらベアトリーチェは倭文を振り返った。
「コンスタンティノープルでのことがあってから、ずっと考えてはいたんだよ。あの時は無事逃げ切れたからよかったけれど、もし捕られていたらきっと彼らもただではすまなかっただろう。私達は追っ手を覚悟の旅だとしても、隊商のみんなを危険に巻き込むわけにはいかないよ。あの男達の狙いは私達2人だ。君と私がいなくなれば、彼らは少なくともメディチ家からの脅威とは関わりがなくなる」
「で、でも私達そこからどうすればいいの? 追っ手のことなら心配ないわ。だってコンスタンティノープルで出会ったきりじゃない。きっともう追ってこないってアーンミヤも言ってたわ」
「本当にそう思うーー?」
月明かりに照らされた倭文の黒い瞳は恐ろしいほど現実を見ていた。
「何も知らないアーンミヤじゃそう思うのも無理はないよ。でも君は、君にはわかるだろう?メディチ家はそんなに甘くない。だからこそフィレンツェの君主の地位を保っていられるんだ。メディチ家が一度下した決定はどんなことがあっても遂行される。だから私達は逃げるしかなかった」
「ーー倭文……」
「焦ることはないんだよ、ベアトリーチェ。逃げる一方じゃどんどん追い詰められていくだけだもの。ダマスカスはイスラムの都だし、コンスタンティノープルほどメディチの力が及ぶことはないだろう。そこまで行ったら彼らの出方も違ったものになるだろうし。しばらく身を潜めてからまた旅を始めよう。それが一番いいと思うのだけど?ペッキーノ船長達や私の体の為にも、ね」
「そう…ね。でも倭文、私ダマスカスに着くまで剣が扱えるようになるかしら?」
「剣ーーどうして?」
「だって2人で旅するとなったら、あなたを守るのは私しかいなくなるわ。あの男達、お父様の隠密なの。コンスタンティノープルでは素人相手だと思って油断してたみたいだけれど、真剣にやり合えばそれはもう強いのよ、精鋭ですもの。こんなことならフィレンツェにいた時にお兄様達と一緒に剣のお稽古をしておくのだった…」
「私は君にそんな心配までさせてるのー情けない男だな…」
ベアトリーチェの言葉を聞いた倭文は自嘲気味にため息をついた。
「あらーだってあなたは病気なのですもの、仕方ないじゃないの」
ベアトリーチェは皮がむけて豆だらけになった手で倭文の憂い顔をそっと包み込んだ。
「ねぇ倭文、忘れないでね。私、たとえ神が咎めたってあなたを守るわ。どんなことがあっても私達は離れないわね?」
答える代わりに倭文はベアトリーチェを抱きしめた。この、あてどない旅に出てから一体幾度彼女を抱きしめただろう。彼女と出会うまで自分はどうやって生きてきたのだろうか。
溢れくる幸福な思いを噛みしめながら、冴え渡る夜空を見上げた倭文は、天幕のある方角がやたら明るいことに気がついた。
「ベアトリーチェ…そろそろ戻ろうか。天幕の辺りが明るいんだ。ひょっとしたら私達の帰りが遅いのをみんなが心配して捜し始めたのかもしれない」
「あら本当だわ。いけない、ほんのわずかだと思ったのに月があんなに傾いて」
天幕の方向と空を交互に見上げて、ベアトリーチェは焦ったように足を踏み出した。
途端に細かい砂が崩れて転びそうになる。すんでのところでベアトリーチェを抱き止めた倭文は、黙って手のひらを差し伸べた。ベアトリーチェはニッコリとその手を掴む。
「ね、隊商から抜けることはいつ言うつもり?」
「早い方がいいと思う。ペッキーノ船長には色々お世話になったから今後の事も詳しく話しておきたいし…天幕に戻ってまだ起きていられたら今夜にでもー」
「そして明日の日中までにはアーンミヤが聞きつけて大騒ぎをするのね。倭文〜ゥ!って」
冷やかすベアトリーチェを軽く睨みながら、倭文も負けじと切り返した。
「どういたしまして。君の方こそ大変なのじゃない?エンリコはまだ君を少年だと思っているからね。別れが迫ってきたとなれば、また襲ってくるかもしれないよ。今度は私は助けないからね。ちょうどいい剣の相手になるよ、彼は」
2人はこらえきれなくなって同時に吹き出した。と、その時ーそれは2人の幸せに割り込むかのように、かすかに飛び込んできた。
「えーー?」
「どうかしたの?」
その異変に最初に気づいたのはベアトリーチェだった。
尋ねる倭文にうなずきながらベアトリーチェはそれにじっと耳を傾けた。
「ー何か、人の叫び声が聞こえたような気がしたの。あっ、ほらやっぱり…1人じゃないみたいだわ」
その時、一陣のキナ臭い風が倭文の鼻孔をくすぐった。倭文の表情が凍りつく。彼はベアトリーチェの手を強く握りしめると突然駆け出した。
「し、倭文ーー?」
驚いたベアトリーチェはしかし、その答えを倭文から聞くよりも早く、それに直面してしまった。
「ーーーー!? 」
彼らが天幕にー正確には天幕のあった場所にー戻ってきて見たものは、炎に包まれた数々の天幕と累々たる死体の山であった。
「ーーダ…ン?」
ベアトリーチェの目に真っ先に止まったのは、首を射抜かれて息絶えた人の良いムーア人だった。多分抵抗する間もなかったのだろう。驚愕に見張った目と何か言いかけた形の口がそれらを語っていた。
寝ていた間に天幕に火をつけられて、まだくすぶってる黒焦げの死体、突然の死に信じられないような形相を浮かべて転がっている首、流れる血を砂地にむなしく吸わせ続ける胴だけの死体ー皆ついさっきまでは火を囲んで夕げを共にしていた仲間であった。
「キーーキャアーッ!!」
人間は心底意外な事実に出会うとすぐには反応できない。ベアトリーチェが事態を把握して混乱状態に陥ったのも数秒の後のことだった。
倭文はベアトリーチェの絶叫で我に返り、とっさに彼女を抱きしめた。自分の体を盾にして目の前に広がる無残な光景からベアトリーチェを守ろうとするかのように 。
『ここを襲った者達の残党がまだその辺りをうろついているかもしれない』
倭文は昼間のように明るい中から外に広がる闇に向かって目を凝らした。しかし倭文の緊張の糸は背後から聞こえたかすかなうめき声によって途切れたのだった。彼は弾かれたように振り返った。ベアトリーチェもその声を聞きつけたらしく、ショックも忘れて倭文の腕から飛び出していた。
「アーンミヤ!! 」
2人は折り重なる死体の中からアーンミヤを見つけ出したのだった。背中にかなりの深手を負って血まみれになった彼女を、倭文がそっと抱き起こす。
「アーンミヤ…アーンミヤ……」
涙で顔をクシャクシャにしながら、ベアトリーチェは虫の息のアーンミヤの血を拭き取っていた。
「誰なんだ、アーンミヤ… 君達をこんな目に合わせたのは?」
倭文の声が震えた。
「ハ…コンスタンティノープルの男達だよ…あいつらが来て…あっという間だった……」
アーンミヤは弱々しく笑うとベアトリーチェに手を伸ばした。
「え…なぁに、アーンミヤ?」
ベアトリーチェは必死になってその手を握りしめた。
「チビ… あんた本当はお姫様なんだってぇ……あいつらが血眼で捜してたよ… よかったよ、ここにいないでさ…あんな奴らん所になんて戻りたくないよね…ウッーー」
「アーンミヤっ!傷に触るからもう喋らないで!!」
「なぁに…それよりあんた達、駆け落ちしてたそうじゃ…ないの…それじゃあたしが倭文にくっついてたらあんたが怒るわけだ…フフフ…でも今だけ倭文を貸してよね…いいよ、ね?どうせあたしもう…死んじゃうんだから…」
「なー何を言ってるの!!」
「…エンリコは…どうしたか…な?」
ベアトリーチェは倭文を見た。倭文は黙ったまま首を横に振る。
「そっかぁ…くたばっちまったの…… あいつね、あんたが女だってわかっても好きだって言ってたんだよ。女なんて泣くか媚びるかしか能がないと思ってたけどあんたは違うって… その上姫君だって言うんだからもう驚きだ、あんたの為なら命張っても惜しくないや…ってさ。あたしもおんなじ…倭文の腕ん中で死ねるんならまぁいいかって…ね……」
「アーンミヤ、しっかりするんだ!!」
黒髪のベドウィンの娘は、力なく倭文を抱き寄せてその頬に口づけた。
「…サラーム… 幸せに… なんな、よ…」
それがー彼女の最後の言葉だった。
「ーーーい……嫌ぁーっ!!」
ベアトリーチェは倭文の胸に顔を埋めた。
「私、そんな立派な人間じゃないわっ。公女としての役目も放り出してきたし、病気のお父様を置いてもきたわ。ミケランジェロを出奔に巻き込んで、そしてーとうとうこんな大勢の人々の命まで奪ってしまった……」
ふいにベアトリーチェはビクリとして 倭文から離れ、まるで初めて出会ったように彼を見つめた。
「ー倭文…あなただって私と会わなければ水銀中毒になんてならなかった」
「違う!君のせいじゃない。君をフィレンツェから連れ出したのは、この私なのだからー」
言いかけた倭文は、背後に冷たい金属音を聞いて振り返った。そして彼は見たのだ。血まみれの剣を引っさげてそれでも表情を変えることなく近づいてくる死神たちの軍団を。
「ベアトリーチェ様、フィレンツェよりお父上、お兄上の名代としてお迎えに上がりましたーー」
「ーーーー」
砂漠に住むハイエナのような男達と視線が合った途端、まるで糸の切れたマリオネットのようにベアトリーチェは気を失った。




