ベアトリーチェ・ディ・メディチの肖像37
ーーフィレンツェの街中ーー
フィレンツェの街はカレンダマッジョ(カーニヴァル)で大賑わいであった。季節は本格的な春を迎え、人々の心は華やぎ浮き立っていた。街角のいたる所に老若男女問わず仮装した人々が溢れ、豪華に飾った山車が街中を練り歩く。
今年は、この祭りをここまで大きくした功労者のロレンツォ・メディチが危篤状態だということで例年よりも小さな規模のものだったが、それでも人々は飲み食いに浮かれ数多くの広場では若者達が踊りを楽しんでいた。
「ー早いものだね、もう1年が経つ……」
踊る人々を眺めながら、ぼんやりと倭文が呟いた。
「え…ああそうですねぇ……」
「この1年、私は何をしてきたんだろうな?ベアトリーチェを悲しませ、多くの人々の命を奪って…」
倭文の前を歩いていたミケランジェロも、歩く速度を緩めた。倭文がこのフィレンツェに姿を現したのは、ちょうど去年の今頃だったのだ。
「そりゃ確かにそうかもしれませんけど…でも倭文様、あなたは同時に私に、ベアトリーチェ嬢様の真の美しさを描かせて下さいました。嬢様だって幸せだったと思うんです。あなたと出会えて…旅したことはーー」
「ありがとう。君には苦労ばかりかけたね、ミケランジェロ…お礼の言いようもないけれど。こんなに素晴らしい絵までもらってー」
倭文は抱えていた包みを愛しげに撫でた。布で包んである合間から、ベアトリーチェのいたずらな微笑みが覗いている。
「本当にこの絵をもらってしまってよかったの?確かこれは ロレンツォ殿の依頼だったのでは…?」
ミケランジェロの表情がふいに歪んだ。泣きたいのをこらえ、彼は遠くで踊っている若者達の輪を睨みつけた。
「もうーーいいんですよ…殿様は今朝方お亡くなりになられましたから…注文主がいなくなられちまったんだからこの絵は私のもんでさぁ」
「亡くなられたーー?」
歩みを止めた倭文は、パラッツォ・メディチの方角に取って引き返そうとしてミケランジェロに止められた。
「やめて下さい、倭文様!!それじゃあパラッツォ・メディチを出てきた意味が失くなっちまうじゃあありませんか!」
「しかし、こんな時に旅立てないよ、ミケランジェロ。ロレンツォ殿には散々迷惑をおかけしたし、お世話にもなった。命まで助けて頂いたというのにー」
「その殿様のお心を無駄にしたくなければ、あなたはこのままフィレンツェから旅立って下さい。殿様という保護が失くなった今、実権を握ったジョヴァンニ様とマリーア様はここぞとばかりにあなたの命を狙うでしょう。それを察したリーチェ嬢様が、彼らが動き出さないうちにあなたを連れ出すようにと私にお命じになったんですから」
「でも ーー」
割り切れない様子の倭文の気を引き立たせるようにミケランジェロは話を戻した。
「その絵は私からの餞別です。本物のリーチェ嬢様には遠く及びませんけどね。ま、少しは嬢様の面影を思い出して頂くのに役立てば…最も倭文様の胸には充分焼き付いていらっしゃるでしょうけどー嬢様もね、あなたからもらった手紙を見つめながらそんな瞳をしてましたよ」
ミケランジェロは何日か前の晩に見たベアトリーチェの様子を思い浮かべた。
☆
ーー月やあらぬ 春や昔の春ならぬ 我が身ひとつはもとの身にしてーー
(月は昔のままの月ではなく、春もまた君と会った頃の春ではない。すべてはすっかり変わってしまった。ただ私の身だけがもとのままに取り残されて)
肖像画を倭文に渡しに行ったミケランジェロは、彼から預かってきた手紙をベアトリーチェに渡した。
「倭文様はだいぶお元気になられてましたよ。嬢様のご様子をお話しするとベアトリーチェを苦しませた自分には何も言う資格がないからと…この手紙を渡されたんです。一体何がー?」
手紙を見ていたベアトリーチェの、懸命に見開いた瞳から涙がこぼれ落ちた。紙に滲んでいく涙を見て、ミケランジェロはギョッとしたように彼女を見つめた。
「嬢様、大丈夫ですか?リーチェ嬢様…」
「ーーこの歌があれば私、どこへ行っても生きていけるわ…だってこれは倭文の心ですもの……私、幸せねー幸せ過ぎて泣けてしまうわね…」
☆
「あの歌、一体どういう意味があるのですか?」
見たこともない異国の文字はミケランジェロの好奇心をくすぐったらしい。倭文は微笑みながら答えてやった。
「あれはジパングに伝わる物語の中に出てくる歌だよ。国を出る時に父か、母が唯一持ち出したものらしいー主人公の男が身分違いの姫に恋をしてね…一緒に逃げるんだが彼女はやがて連れ戻されてしまうんだ」
「ーー倭文様」
「フフ 、驚くほど似ているだろう?なぜなのかな…旅の途中でこの本をベアトリーチェに見せてこの歌の意味を説明した事があった…数年後、男は姫と初めて会った場所を彷徨ってこの歌を詠むんだよ。彼女は嫁いでしまって自分だけが取り残されてしまったーでも彼女への愛は今も変わらないと…ね……」
言いかけた倭文は、広場の反対側の人並みの中から彼を見つめている人影に気がついた。粗末な町娘の格好に身をやつした少女の顔は仮面に隠されて見えなかったが、しかし倭文はそんなことで恋人を見誤ったりはしなかった。
「……ミケランジェロ…彼と私のたったひとつの違いを見つけたよ…彼はとうとう姫君に会うことはなかったんだ。でも私はーーー」
うわ言のように倭文が囁く。辺りを憚るように、ゆっくりとひそやかに広場を横切った彼はベアトリーチェに近づいて行った。
すれ違いざまに、倭文がそっとベアトリーチェの柔らかな手を握りしめた。ベアトリーチェも確かな力を込めて彼の手を握り返す。それが彼らの誓いだった。
「…行ってちょうだい」
「ーーああ」
一瞬の後、離れた彼らは人並みに紛れていく互いの姿を二度と振り返ろうとはしなかった。恋人達には永遠が見えたのか。
浮かれ騒ぐ人々をよそに、熟れきったフィレンツェの逝く春だけが静かに彼らを見守っていた。
1501年、嫁ぎ先のヴェネツィアで、ロレンツォ・イル・マニフィーコの第6公女、ベアトリーチェ・ディ・メディチの時は止まる。享年22歳。その若過ぎた死は胸を患った為と言われているが、ロレンツォの死後、没落したメディチとの関わりを断つ為の、ヴェネツィア共和国による毒殺だったというまことしやかな噂も存在している。
一方、歴史の波間に呑まれた倭文の、その後の行方はようとしてしれない 。
完
最後までお読みいたたきまして誠にありがとうございました。イタリアルネサンス三部作の第一部でした。
舞台はフィレンツェからローマ、ヴェネツィアへと主人公を替えて移っていきます。ご興味をお持ち頂けましたらぜひまた続編もご一読頂けますと幸いです。




