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ベアトリーチェ・ディ・メディチの肖像29

ふうっとひとつ、大きなため息をついてベアトリーチェは夜空を見上げた。

満天の星を従えて、満月が皓々と輝いている。かすかな潮の香を含んだ冷たい風を吸い込むと、しゃくりあげていた呼吸が少し落ち着いた。

『倭文の具合がなかなか回復しないのは、矢傷のせいだと思っていた…傷を負って何日もしないうちに旅に出てしまってだいぶ無理をしてしまったからーそれが水銀…のせいだなんて。マリーアお姉様…信じられないわ。いえ、信じたくない。一体どうして?私達を引き離したかったのなら、どうしてお姉様は私達を逃して下さったの?ジョヴァンニお兄様はこのことをご存知なのかしら?』

思い余って船べりにもたれかかった時、ふいに背後に人の気配がした。

「おやーそこにいるのはロレンツォだろう?」

「エンリコー」

ベアトリーチェは声をかけてきた男を見て、自然と顔が引きつっていくのを感じた。

「な、何の用?悪いけど今ちょっと考え事してるんだ。用がないのならー」

「用、だって?」

栗毛色の髪を肩で切り揃えたエンリコは、三十路を少し超えたフランス人だった。何度もトルコに出入りしている商人らしく、ターバンとゆったりとしたズボンをまとっている。この服装には黒髪の倭文の方が似合っているーそんなことを思いながら彼を眺めていたベアトリーチェの傍らに、エンリコは妙に馴れ馴れしく滑り込んだ。

「甲板に来るまでは特に何もなかったのだがね。それがーおお、これぞ神のお導きか!!あてもなく彷徨う私の前に、月の光に彩られた君が姿を現したのだ。月の女神アルテミスに愛されたという美少年エンデュミオンその人の如く」

『私は姿を現したわけじゃないわ。そっちが勝手に出てきたのじゃない』

立て板に水といった様子で喋り続けるエンリコに、呆気に取られてベアトリーチェのもの思いはしばし中断された。

「ロレンツォ、夜更けにたった1人でこんな所にいてはいけない。ぬば玉の夜の闇の中では、君の黄金の髪は灯台の灯など足許に及ばぬほど輝くだろう。海のセイレーン達はその光に惹かれてやってきて、君のその美貌を見、海の中に引きずり込んでしまうに違いない。今宵私達が出会ったのは、君を守れという天の啓示ーこれは運命だ。いざや、君を我が部屋へ招かん。プラトンの教えを心ゆくまで語り合おうではないか…ロレンツォーー」

「ち、ちょっと待ってエンリコー何をわからないことを言って…」

そういう間にも目の前のエンリコはジリジリと迫って、ベアトリーチェの腕を掴んだ。抱き寄せようとするエンリコの手を振り払おうとした彼女だが、彼の手は益々力強く細腕に食い込んだ。

「ーちょっと!い…嫌っ!!」

思いっきりのけぞったベアトリーチェは瞬間、視界が真っ暗になって体が浮き上がったのを感じた。

「キャーッ!!」

「 ベアトリーチェっ!!」

ふいにーベアトリーチェは強い力で引き戻された。そして突然、板にしては弾力のある壁にぶつかった。

「ーもう大丈夫だから…目を開けてごらん」

優しい声と共に、ベアトリーチェの背を軽く叩く手があった。

「まぁ、倭文…」

恐る恐る目を開いたベアトリーチェは倭文の腕の中にいる自分に気がついた。呆然として倭文を見上げると彼は珍しくその面に怒りを見せてエンリコを睨んでいた。

「ーエンリコーこの夜更けに私の弟に一体何の用件があったのです?これは私の大事な弟、御用なら保護者の私を通してからに願いたい。おまけに弟は嫌がっていたように見受けますが?とても、ね」

「い、いやぁちょっと話をしていただけだよ。なぁロレンツォ…君ー」

バツの悪そうな笑みを浮かべて、エンリコはベアトリーチェを見た。ベアトリーチェはツンと顔を背ける。

「と、とにかくーその物騒な物をしまってくれないかな?身動きが取れやしない……」

エンリコは両手を上げて、喉元に突きつけられている剣の切っ先から逃れようと必死になっていた。

「あなたが、弟に二度と無体なことをしないと誓えば」

「ああっ、誓うよ、誓う!!」

倭文はしばらくエンリコを睨み続けたが、やがて静かに剣を持った手を下ろした。

「じ、じゃあな」

倭文とベアトリーチェの冷たい視線を浴びて、口の中で何やらモゴモゴとつぶやきながら、エンリコはそそくさと甲板を去って行ったのだった。

彼が消える間の時間も惜しく、ベアトリーチェは早々に倭文に向き直った。

「倭文!あなた、どうしてここに?起きられる体じゃないのにーー」

「なんとなく胸騒ぎがして…それともかえって邪魔してしまったのかな?エンリコと2人のところを…」

2人きりになるとさすがに倭文は立っていられなかったらしく、糸が切れたように寝転んでしまった。

「もうーー意地悪なんだから……」

ベアトリーチェは倭文の傍らに座り込むと、その膝に倭文の頭をそっと乗せた。

「エンリコは私のこと、男だと思い込んでいるのよ?もし女だとわかってしまえばそこから私達の正体がわかってしまうかもしれないじゃないの。あなた、いい時に助けて下さったわ、倭文…ありがとう」

風に飛ばされた薔薇の花びらのようなベアトリーチェの唇が、倭文の蒼白い額にそっと触れた。倭文は心地よさそうに目を閉じていたがベアトリーチェが離れるとふと目を開けた。その視線の先にあるものを見たくなったベアトリーチェも思わず空を見上げる。

果たしてそこに広がっていたのは、降るような星々と鏡のような月だった。2人は無尽を思わせる時と互いの温もりに満足して、しばらくの間黙り込んだ。が、やがてベアトリーチェがその沈黙を破った。

「さ、倭文。もう部屋に戻りましょ。本当ならあなたはまだ意識が朦朧としているはずなんですもの。それなのにあなたったらまったくーー」

「水銀中毒らしくない?」

「ーーー」

ムクリと起き上がった倭文は無言のベアトリーチェを覗き込んで微笑んだ。ベアトリーチェは何と答えてよいのかわからず、とっさに倭文に背を向けた。

「…どうして、それを…倭文?」

「さっき、ペッキーノ船長と君が話していたのが耳に入ってきて…途中で意識が戻ったんだ。その後、君が席を外しただろう?ほんとはねー君が気に病んでるのじゃないかと思って…」

倭文から逃げるようにベアトリーチェは尚も背を向けて唇を噛みしめた。

「ー私、マリーア姉様を許さないわ…絶対にーーやっぱりミケランジェロが言っていたことは正しかったのね。私の倭文を…よりにもよって倭文をーいつかどこかで再びマリーア姉様……ううん、あの人に会うようなことがあったら、その時はーー」

「ベアトリーチェーー」

倭文はベアトリーチェの背後からフワリと包み込むように抱きしめた。

「彼女に会ったら、なんて不吉なことは言わないでおくれ。私達は東を目指して旅しているんじゃなかったの?裏切りも憎しみもすべて西方に置いていこう。余計な重りを背負っていたら新しい国の美しさが半減してしまうよー君には、今のままの君でいてほしい…汚れない心で見て欲しいんだ。私の故国、ジパングを」

「倭文ーー」

ベアトリーチェは首に回された腕に手をかけた。その頬を涙がひと筋伝わっていく。慌てて上を向いた時、月が水面に映ったそれの如く、揺れているのが見えた。

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