ベアトリーチェ・ディ・メディチの肖像28
「水銀中毒じゃな」
神託を告げる司祭の如く、厳かな様子でペッキーノ船長は口を開いた。
「ーー水銀…中毒ーー?」
耳慣れない言葉を口にして、ベアトリーチェは最初、それが倭文の病だとは気づかなかった。
「そう、錬金術で使っとるアレじゃ。しかもかなり進んどる。意識を失うくらいじゃからなぁ」
ペッキーノは船底に横たわる倭文を見ながら酒瓶をあおった。プハーッと息をつくと手の甲で口を拭う。
ベアトリーチェはそんな船長を疑わしげなまなざしで見上げた。
「この症状じゃ急性じゃあるまい…急性だったらおそらく生きちゃおらん。こりゃ長いことかかって一服盛られたな。あんたの兄さんも相当恨まれたもんだ。何をやらかしたのか心当たりはないのかい?」
「ありませんッ!!倭文がっ…あ、兄はとても優しいんです。そんな、人に恨まれるなんてことッ!!」
「まぁ、落ち着きなさいよ。病人が目を覚ますよ」
ベアトリーチェはハッと口をつぐんで倭文の様子を伺った。彼は一向に目覚める気配もない。仄暗くカンテラが灯り、静寂をぬって微かな潮の香と船底に当たる波の振動だけが単調に響いていた。
「ー果たしてそうかね?」
短い沈黙の後、ペッキーノは再び口を開いた。飲んでいる割にはちっとも酔っているように見えない鋭い視線をチラッとベアトリーチェに投げかける。
「確かにお前の兄さんは優しいようだが、多少優柔不断な所があるようじゃの。世の中迷ってる暇があるなら、きっぱりと判断しなけりゃならないようなこともある。でないと周りが許さんこともあるのじゃよ。アーンミヤのように誰か女に言い寄られて、さてはその恨みでも買ったかの?ま、この顔じゃそんなことのひとつやふたつ、あったってちっともおかしくはないわさ」
「そんなことないです!!」
憮然とした面持ちのベアトリーチェを見て、ペッキーノは潮焼けした赤ら顔をほころばせた。
「まぁま、そう怒りなさんな。今のは例えじゃよ、例え…もう一度よく考えてごらん。兄さんは水銀のある場所に出入りしていたことはなかったかー錬金術師や薬屋……」
「…旅に出てからは大きな街に出ても人目につかないよう、ほんのわずかな人としか接しなかったんです。まして錬金術師や薬屋なんて怪しげな人間が集まりそうなところだもの、うかつに近寄ったらー」
ふいにベアトリーチェは口をつぐんだ。セルリアンブルーの瞳が横たわる倭文とペッキーノの間を怯えたように彷徨う。
しかしペッキーノはそんなベアトリーチェから視線を逸らし、カンテラの油の具合を見ながら再び酒を口に含んだ。
「なぁに、気にすることはない。巡礼船じゃあるまいしこの船に乗り込んでる奴が全員清廉潔白ってなわけじゃあるまいよ。アーンミヤの ようにスルタンのハレムから脱走してきた娘もいれば喧嘩して相手を殺っちまったせいで逃げ込むように乗り込んだ奴もいる。わしらはヴェネツィアの商人じゃ、貰うものを貰って取引が成立すりゃ、それ以上のことはほじくり出そうとは思わんよ」
そう言ってペッキーノは安心させるように片目をつぶった。その茶目っ気たっぷりの様子に、ベアトリーチェも思わずつられて微笑んでいた。
「そうーですね…薬といったら、この怪我でしょう?国を出る時調合してもらった薬は毎日飲んでますけど…」
ベアトリーチェは倭文の肩の白い包帯に視線を落とした。ペッキーノの目が一瞬、鋭く光った。彼は酒の瓶を壁際に置くと手を差し出した。
「その薬ー見せてくれんかね」
ベアトリーチェは言われるままに、ヴェネツィアで買った船旅用の小物入れから薬瓶を取り出した。
「ウーム……」
「ーー どう、ですか?」
「残念じゃが…」
「やっぱり水銀なんかじゃありませんよね。その薬は信用できる人に調合してもらったものですから。私達の恩人なんです」
何かを恐れるように早口でまくし立てるベアトリーチェの肩を掴んで、ペッキーノは彼女を覗き込んだ。
「残念じゃが、水銀が混ざっとるー薄っすらと銀色に光っとるだろう?どのくらい前からこの薬を使っとったのかね?」
「ーいっ、1ヶ月…まえーー」
「…水銀ちゅうのはだな、猛毒だからその気にさえなりゃわずかな量でイチコロなんじゃ。それをひと月も引き伸ばせるような調合ができるとは、そいつは相当な毒薬使いじゃな」
「マーマリーア……」
ベアトリーチェは吐き気をこらえるように口許に手を当てた。
「マリーア?聖母とおんなじ名前のくせにとんだ悪女じゃ」
その悪女が自分の義姉だとも言えず、ベアトリーチェは思わず床に膝をついていた。
「おいっ、お前さんがしっかりしなくてどうする!兄さんはもっと苦しいんだぞ。弟のお前さんが支えてやらなけりゃ治るもんも治らん」
「ー治るの…ですか……?」
「わからん。とりあえず胃の洗浄はしておいたが…コンスタンティノープルに着いたら医者に見せてやることじゃ。あそこには東洋の医学を修めた医者もいる」
「ーーああ、倭文…ようやく抜け出してきたというのに……」
やつれた倭文の頬に手を触れて、ベアトリーチェは崩れるように寝台の上に突っ伏してしまった。ペッキーノはじっとその様子を見守っていたが、やがて酒瓶を手にするとそっと出て行った。




