ベアトリーチェ・ディ・メディチの肖像27
「まったく。なんて嫌な奴なの!怪我をして苦しんでる倭文を売れだなんて…エンリコよりも性質が悪そうだったわ」
フィレンツを出てからまだひと月とはたっていなかったが、ベアトリーチェは近頃すっかり板についてきた姫君らしからぬ言葉遣いを駆使して憤慨の感をあらわにしていた。
とは言っても、まだまだ生まれつきその言葉を使っている者と比べれば、片言程度に過ぎなかったが。それでも下々の言葉や男言葉というものは、案外と心情を表すのに便利だということにベアトリーチェは気づいたのだった。ともあれ、ミケランジェロがこの場にいないのは幸いであったろう。
「ベアトリーチェ、ベアトリーチェーー心配してくれるのは嬉しいけどね、私達はお尋ね者なんだよ」
いくらか持ち直したように見える倭文は、ベアトリーチェを見てクスクスと笑った。ベアトリーチェはそんな倭文を気遣わしげに見遣ってため息をつく。
「ええ…だから目立つことはしてはいけないのでしょ?それは充分わかっているつもりなのだけれどー」
「わかってるよ、我が姫君は正義漢だから…でもそろそろロレンツォに戻ってくれないとね。アーンミヤ・ヌールが私達を見つけたようだよ」
「あらー」
ベアトリーチェは彼らに近づいてきた女を認めると、改めて眉をひそめた。
「あーッ、いたいた!倭文ぅ」
女は嬌声を上げると、いきなり倭文に抱きついた。年の頃は17、8。まだ若い娘である。トルコ人のそれよりも浅黒い肌、アーモンド形の吊り上がった瞳に加え、引き締まった細腰、豊かな胸元、しなやかな手足と風に舞う黒髪ーどこをとっても"女"を感じさせる娘である。アーンミヤ・ヌール、倭文とベアトリーチェが潜り込んだ隊商にいたベトウィンの娘だった。
約ひと月前にフィレンツェを旅立った倭文とベアトリーチェが当面の目的地としたのはオスマン・トルコ帝国の首都であるコンスタンティノープルであった。西から東へ、東から西へ、旅をする人は必ずと言っていいほどこの都を通って各国に散らばっていくのである。カタイと呼ばれる明の国から倭文がやってきた時もやはりこの地によっていた。
しかし、内陸部のフィレンツェからコンスタンティノープルを目指すには一度北方まで抜けて沿海沿いを行くか、ヴェネツィアまで行って商船や巡礼船(聖地エルサレムに向かう巡礼を運ぶ)に乗り込んで海路を行くという方法しかなかった。
陸路を行くのは、北方まで辿り着くまでに時間がかかり、途中で追っ手に追いつかれる恐れがあった。ましてメディチ家ほどの富豪ならば各宿場に間諜を放って待ち伏せすることも可能である。
かつてロレンツォの弟ーー顔を見たことこそなかったがベアトリーチェにとっては叔父にあたるジュリアーノ・メディチが、政敵パッツィ家によって葬り去られた時、その下手人はロレンツォの報復を恐れてコンスタンティノープルまで逃げたという。しかし、ロレンツォの怒りは深く、彼はそこで下手人達を血祭りにあげたのだった。つまり、メディチの力は遠くコンスタンティノープルにまで及ぶことも決して不可能な話ではなかったのである。
おまけに、オスマン・トルコの先代の皇帝マホメット2世は、個人的にロレンツォ・マニフィーコに入れ込んでいた為、トルコ領内には未だ親メディチ派の重臣も多く残っていた。コンスタンティノープルを通るのは仕方がないとしても、倭文とベアトリーチェにしてみればオスマン・トルコ領というのもまた、できるならば避けて通りたい地だったのである。
そういうわけで 彼らは旅自体に多少の危険はつきまとうものの時間的にも早く、追っ手の心配も少ない海路を選んでベアトリーチェの許嫁の目と鼻の先をかすめるようにしてヴェネツィアからある隊商の船に乗り込んだのだった。
その幾つめかの停泊地であるこのザーラで、当の許嫁に出くわしてしまったことをベアトリーチェは無論、倭文とても知るよしはなかったが。
彼らが乗り込んだ商船の船長はペッキーノというヴェネツィア人の老人だった。非常に酒好きの性質で、ミケランジェロが見たらまるでバッカスのような、とでも言いそうなほどいつでも酔っ払っていた。
それでも船乗り兼商人の腕はかなりのものらしく、ヴェネツィアの若い商人達には尊敬の念を持って接していられるようだった。頑固さと無邪気さが入り混ざった、不思議な魅力のある老人だった。
「ーちょっと、アーンミヤ…倭文は怪我してるんだよ。離れてよ。痛がってるじゃないか」
セルリアンブルーの瞳で上目遣いに睨みながら、ベアトリーチェはアーンミヤを倭文から引き離そうと彼女の袖を引っ張った。
「うるさいよッ、チビ助。大体あんたが怪我人の倭文を連れ出したりするからいけないんだろー倭文ぅ、大丈夫かい。こんなに真っ青になっちゃってぇ…うるさいったらまったく気が効かないんだから。シッシッ」
手をヒラヒラさせアーンミヤはベアトリーチェを追い払おうとした。しかしベアトリーチェとて負けてはいなかった。
「まったく、トルコのスルタンの趣味を疑っちゃう。いくら顔が綺麗だからって、ハレムには3000人もの美女がいるのでしょ?だったらもうちょっと性格のいい美女を選べば…キャッ」
ベアトリーチェの日焼けした頬は突然伸びてきた手によってつままれた。
「うじゃうじゃとまったくうるさいガキだよ。人の恋路を邪魔する根性悪はそっちだろっ!いい加減、お兄ちゃん離れをおしよ。でないと海ん中に放り投げるか、エンリコに売っ払っちまうよ!あいつ、どうやらあんたに気があるらしいから。協力しろって言われてんだ…あんたみたいな生意気なガキのどこがいいんだか、ったくーー」
「ーそれは本当ですか、アーンミヤ・ヌール?」
アーンミヤが振り返ると倭文が青白い顔をしながらもまっすぐな眼差しを向けていた。
「弟はーロレンツォは男ですが…」
長い間の船旅で、もしやベアトリーチェが女だと分かってしまったのではないか。倭文は一瞬、頭の芯が凍りつくような衝撃に見舞われた。
「そーよ、当たり前じゃない。エンリコは男が好きなんだもん。正確に言うと 男の子…かな?」
「えーー?」
「別にそんなの珍しくないでしょ。トルコ宮廷じゃそんな話、それこそ腐るほど転がってたわよ。スルタンだってさ、あたしのようないい女を侍らせておきながら、もう片方の手で小姓を追いかけ回してたし。それであたし、あったまきて退屈なハレムを飛び出したんだ。エンリコはあれでコンスタンティノープルに行けば宮廷にも出入りする商人だって言うし、多分あそこで覚えたんだよ、この悪癖をさ」
「ああ……」
ベアトリーチェが女だと知れたわけではなかったと、倭文は幾分ホッとした表情になったが、その手はしっかりと傍らのベアトリーチェを抱き寄せていた。それを素早く見つけたアーンミヤの目が見る間に吊り上がって、彼女は2人の間に乱暴に割り込んだ。
「だから…さっ、倭文!チビ助のことはエンリコにでも任せて船に帰ろう!でないとあのペッキーノって爺さん、あたし達を置いたまま出発しちまいそうだもの。さっきも酒を飲んでヘベレケになってたしーヒッ」
アーンミヤ は突然目の前に立ちはだかった、 黒い小山に突き当たって悲鳴をあげた。呆気にとられたアーンミヤの傍らから、倭文は宙に浮かんで小山に引き寄せられていった。
「ペッキーノ船長ヘベレケなし。ワシ、迎え来た」
「ダン、来てくれたの!!」
アーンミヤと話していた時は大人びた女の表情をしていたベアトリーチェだったが(男と思い込んでいるアーンミヤには生来の生意気小僧としか映らないが)小山のようなムーア人を認めると、フィレンツェにいた頃のように無邪気な笑みで駆け寄ってきた。
「ロレンツォ、キラキラきれい」
ダンと呼ばれたムーア人はヴェネツィアン・ブロンド(赤みがかった金髪)は見慣れているが、ベアトリーチェのような黄金色の、淡い色彩の金髪を見たのは初めてだったらしい。ベアトリーチェと会ってからというもの、その髪を見つめてはうっとりと宝石を眺めるように崇拝の眼差しを向けるのだった。
「ダン、私は大丈夫。歩けるから降ろしておくれ」
倭文はダンの腕の中から(宙に浮かんだように見えたのはダンに抱え上げられたせいだった)彼を見上げて頷いた。しかしダンはニッコリと白い歯を見せて首を横に振る。
「いい、いい。シズ、ダン運ぶ。シズ、フラフラ」
「せっかくだから運んでもらえば?もう限界なのでしょ、その顔色だもの…」
小首をかしげて心配そうに口を開いたベアトリーチェを見て、倭文は観念したように頷いた。
「わかったよ、君がそう言うのならーすまないダン、じゃ船までお願いするよ」
「あーあい、あい」
倭文を抱えたダンは、象のようにユッサユッサと歩き始めた。その後を象に戯れる小鳥のようにベアトリーチェがついていく。
「ち、ちょっとお待ちよ!倭文を迎えに来たのはあたしなんだから!!」
「…うるさいなぁ。アーンミヤも一緒に来ればいいじゃない。どうせ同じ船なんだから。とにかく金切り声は出さないで。倭文の傷に響いちゃう。ね、倭文ー?」
「はは…そうだ…ねー」
「倭文ッ!?」
少年の声にしては高すぎるベアトリーチェのそれがダンとアーンミヤの注意を引いた。果たしてその先にあったのはーーダンの腕の中でぐったりと気を失っている、倭文の横顔であった。




