表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
26/37

ベアトリーチェ・ディ・メディチの肖像26

ーーヴェネツィア領 ザーラーー

アドリア海に面したダルマツィア地方の港町ザーラは、謹厳なるヴェネツィア本国の支配によって活気のある町として栄えていた。ヴェネツィアからは船で約1週間の距離にあり、東方貿易には欠くことのできない拠点であった。

堅固な城壁で囲まれた町の中心では、今日も市が立っている。生き馬の目を抜くと噂される、ここより東方のコンスタンティノープルのバザールよりはいくぶん規模は小さいものの、さすがに東方貿易の拠点となっているだけあって、果物や海産物の他に香辛料や極上の絹織物などが所狭しと並べられていた。

行き交う人々もまた、その商品のごとく多種多様であった。ウワーンという蜂の羽音のような騒音に注意深く耳を傾けてみれば、トルコ語、ラテン語、フランス語、英語の会話が混ざり合っていることに気づく。冬だというのにひとたびこの市の中に入り込んでしまうと、汗だくにならずには出てこられないというほどの熱気が渦巻いている場所だった。

その中から1人、しなやかな足取りで抜け出した者があった。トルコ風のベールを被った若い女である。女は群衆の外にいた肌の浅黒い、醒めた眼をした男を見つけると、手にしたオレンジの実を彼に向かって投げつけた。

他を見ていた男は、頭上あわやというところでオレンジの実を受け止めた。オレンジが空を切るわずかな物音に気がついたのである。

「食えよ、サーリム。喉が渇いただろう?全くここはいつ来てもワイワイガヤガヤとうるさい所だぜ。どさくさに紛れて人の尻を撫で回すジーサンもいるし…」

「その雑踏が恋しくなってヴェネツィアを抜け出してきたのはあなたでしょう、ハヴィ様。それに…なかなかよくお似合いですよ、そのトルコ女の服。まさかヴェネツィアのドージェだとは誰一人夢にも思わないでしょうよ」

「やっぱりお前もそう思うだろ?いい男は何を着たってサマになるんだよな」

得意げな表情でオレンジにかぶりつくマルコを見て、サーリムはとどめの一撃を忘れなかった。

「ええ、まさかヴェネツィアのドージェにしてダルマツィア公爵ともあろう方が、公務を抜け出してザーラくんだりに出没するとはね」

「ーーー」

マルコが顔をしかめたのはオレンジの酸味のせいか、サーリムの皮肉のせいか。

「…お前いちいち突っかかるな。そんなにここが嫌なら、先にヴェネツィアに帰ってもいいんだぞ?俺は1人でゆっくりしていくから。せっかく久しぶりに2人っきりになれたっていうのに…」

ブツブツと呟くマルコの肩を抱き寄せて、サーリムは甘い笑いを浮かべた。

「私だって嬉しいですよ、ハヴィ様ー陸に上がってからは昔と違って2人でいられるのは寝台の中だけですからね。公務室じゃ人目もある…」

サーリムはオレンジの香りのするマルコの吐息に顔を近づけていった。が、しかし彼らの息はひとつに重なることにはならなかった。サーリムの背を直撃した物体によって、彼らの甘い時は中断されたのである。

「どうした、サーリム?」

マルコの、細身だが海上生活で鍛え上げられた筋肉質の腕に抱き取られながら、サーリムは自分を直撃したものの正体を見ようと後ろを振り返った。

果たして、そこにいたのは彼と同じ年頃の1人の男であった。具合でも悪いのか、蒼白な顔色で路上にうずくまっている。ふらついたところをサーリムにぶつかったらしい。

「大丈夫かー」

手を伸ばそうとしたサーリムの視界に、ふいに明るい色彩が飛び込んできた。

「ごめんなさいっ!!」

それは金髪の少年であった。11,2才ぐらいの華奢な子供である。少年はマルコとサーリムに向かってペコリと頭を下げるとうずくまっている男を心配そうに抱き起こした。

「…大丈夫?お医者様に行った方がいいね。何だか段々ひどくなってるみたいだもの…」

「平気だ。ちょっとこの熱気で立ちくらみがしただけだよ。薬だってまだあることだし、とにかく少しでも遠くまで行かないことにはーー」

見れば男は肩に傷を負っているらしい。彼は少年を安心させようと微笑んでみたが、額に滲んだ油汗によって、それは無駄に終わった。長い黒髪がもつれて、蒼白な男の頬に翳を作っている。

「ー手負いの男っていうのも色っぽいもんだな?うーん、なかなか…」

「ハヴィ様っ!」

舌なめずりの音が聞こえてきそうな気がして、サーリムは背後を振り返った。そこには思った通り獲物を狙う獣のように、ベールの下から目を輝かせているマルコがいた。

男でも女でも、自分の気に入った相手を見つけたら最後、それが手に入るまで絶対に諦めない。マルコの無邪気な傲慢さをサーリムは愛しているのだった。もちろんマルコにとってサーリムは、数多いる愛人達とは比べ物にならないということを彼とてよく承知している。

しかし、やはり彼とて人の子。この移り気なマルコの性質には内心穏やかならぬものがあった。

「…マルコ様、相手はいずこの者とも知れぬのです、少しはお慎みになって下さい!」

胸ぐらを掴み上げない剣幕のサーリムを、マルコは片手を上げてとどめた。

「まぁそう目を吊り上げるなよ。まだ何もしてないだろうが。こういうのはなー」

言いかけたマルコの瞳が一瞬のうちに真摯な光を帯びた。不審に思ったサーリムが振り返るより早く、マルコは金髪の少年の襟を掴んでいた。

「坊主っ、お前そのクルスーー」

「何をするっ、無礼者っ!」

ピシリと乾いた音がして、マルコの頬が鳴った。驚いて駆け寄ったサーリムを片手でとどめ、マルコは面白そうに金髪の少年を眺めた。少年は素早く身を翻し、連れの傍らへと舞い戻った。

「ふふん…えらく警戒するじゃないか。どうやら可愛い顔に似合わず、脛に傷持つ身らしいぜ、この坊主は……何をしたのかは知らないが」

「……」

冗談めかしているものの、さすがにこの若さでドージェの称号を持つだけはある。マルコの炯眼に射竦められたように、少年は連れの肩を抱いたまま 口を引き結んで、ただ相手を睨むことしかできなかった。

「見りゃあお前は先を急ぐ旅らしい。どうだ、その男を俺に売らないか?そうすりゃお前も身軽になれるぞ」

「断るっ、触るな汚らわしい男色家!!」

てっきり女だと思っていた相手の低すぎる声に、少年の表情には驚きと嫌悪が混ざって浮かんだ。クルスは敬虔なキリスト教徒である証。その教えでは同性愛は異端であるとされている。

「別に珍しくもないだろう、そんなことは」

だが東方貿易が盛んなヴェネツィアでは、女性のいない海上生活が日常で当時男色は珍しい風習ではなかった。相手の言葉を鼻で笑ったマルコ。2人の間に険悪な空気が流れたその時ー遠くから張りのある女の声が飛び込んできた。

「倭文ーッどこに行っちまったのよう!船が出ちまうわよう。おい、チビーッ」

「アーンミヤだ…行きましょう、倭文」

マルコ達に背を向けた少年の腕を、男が引き止めた。訝しげな少年に頷くと、男はマルコ達の方へと向き直る。

「ーどうかお戯れはこの辺で…そちらの方にぶつかったことは、どうぞお許し下さい。私どもは少々急ぎますので失礼させていただきます」

男は白鳥のように優美に頭を下げた。その傍らの、彼を支えた少年はセルリアンブルーの瞳でマルコ達を睨みつけながら去っていった。

彼らを見送りながら、マルコはサーリムの肩に手をかけた。口許に不敵な笑みが漂っている。

「サーリム、見たか?あの金髪の小僧…まだガキで発育不良気味だが、ありゃ女だ。隠しちゃいたが、パッレ(球)の紋のついたクルスを架けてたぜ」

「ーパッレと言えばメディチの紋章。連れの男は変装しているものの、明らかに東洋系ですし…やはりベアトリーチェ姫と見るのが妥当でしょうね」

頷くサーリムもまた妖しく微笑む。

「メディチの娘が男を連れて逃げ出したか。思ったよりは見所がありそうだな…見ろよサーリム、あの生意気そうな目つきーありゃもう少し太らせてあと2、3年も育てばさぞかしいい女になるぜ。それにしてもーー」

マルコはクルリとサーリムの正面に廻り込んだ。

「お前の話じゃ、フィレンツェのジョヴァンニ・メディチにあの男を殺らせるはずだったろ?なのに実際男を狙ったのはヴェネツィア人の刺客だったって話じゃないか。そいつも失敗して殺されちまったっていうし、サン・マルコの立場は微妙なところだよな。どうしたんだよ、サーリム。お前らしくもない。男は生きてるし、ジョヴァンニ・メディチに一泡吹かせてやるつもりがヤキが回ったか?」

「いえ、ジョヴァンニ・メディチにそんな策を練れる頭があるはずもない…彼の側にはおそらく誰か策士がいるのに違いありません。それもかなり頭の切れるーヴェネツィアの策を逆手に取るような…」

「そんな話は初耳だかなーしかし、それならどうしてあの女がここにいるんだ?そんな策士ならどんな手を使っても、大事なコマを逃がすなんてヘマをしっこないだろうが…」

「刺客がヴェネツィア人だったとしても、それが サン・マルコの密偵かどうかまでは分からない…弱みを握るのには証拠不十分ですからね。ドージェからの命令書でも持っていたのならともかく…我々が男を見つけて殺すのを狙って、泳がせてるんじゃありませんか?仮にもロレンツォ・メディチの客として迎えられている男だ。傷つければそれを口実に彼らは有利にーー」

「じゃ、やっぱり ここは知らんふりを決め込むべきだな。我が愛するサン・マルコに災難が降りかかるといけないだろ」

楽天的なマルコを尻目に、サーリムは顎をつまんでますます考え込む様子であった。

「囮なのか、それともベアトリーチェ姫とあの男の頭が策士を上回っていたのか、あるいはー策士が故意にあの2人の命を縮めようとしているのかも…」

「はは、こりゃ面白い!ジョヴァンニを操るのに失敗したと思ったら、瓢箪から駒だ。俺達が指をくわえて黙っててもメディチ一族で自滅するんじゃないか?そのうちに」

「とはいえハヴィ様…捕らえないでいいのですか?許嫁が他の男を連れて、目の前を通り過ぎていくのに…」

意地の悪い笑みを浮かべたサーリムに、マルコは何気なく肩をすくめてみせた。

「別に好きで一緒になるわけじゃないからな。ま、婚礼までの残されたわずかな日々を最愛の者と目一杯生きるってのもいいんじゃないかーいざや諸人喜びの時は今ぞ明日来るものの定かならねば、だ」

「何ですか、それは?」

「知らないのか、サーリム。ロレンツォ・マニフィーコの作った詩だ。今、流行ってるんだぞ。さすがロレンツォの娘だな、親父の詩を実行してやがる。な、サーリム、俺達もヴェネツィアを抜け出してきたんだ。残された日々を愛に生きようぜ!」

「何言ってんですか。私と切れる気など、さらさらないくせに」

サーリムの言葉にマルコはペロッと舌を出したのみ。

「ーフィレンツェからの密偵がベアトリーチェ失踪の報を知らせてきて数日だろ。まだ捕まってないってことは結構いい線いってるようだが、男の方が手負いだし、もうそろそろ限界じゃないか。コンスタンティノープルまで行ければ御の字ってとこかな」

「フィレンツから来る追っ手に手がかりを匂わせてやりましょうか?」

「そうだな、ただしさりげなくだぞ。サン・マルコはあくまでもこの件に関して関知しない。フィレンツェの力が必要な今、破談になったってこっちは1デュカーティの得にもならん。それに何より、あの女が俺の前に現れた時、痛ぶってやる楽しみがなくなるじゃないかーあの女、どんな顔して嫁いでくるのか楽しみだ。絶望だらけの結婚にようやく一筋の光明が見えたな」

「ーワル、ですねぇ。あなたも…」

そういったサーリムの瞳もまた、マルコと似た輝きに妖しくかぎろっていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ