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ベアトリーチェ・ディ・メディチの肖像22

数日間が夢のように過ぎ、明日はいよいよカレッジの別荘に向かって出発するという夜更けー。倭文はなかなか寝つかれず、扉が薄く開いたのを見て寝台の上に半身を起こした。

「誰だいーミケランジェロ?」

「起こしてしまいましたか、倭文様?」

「いいんだ。どうせ寝つけずにいたんだから」

ミケランジェロは倭文に勧められて寝台の傍らにある椅子に腰掛けた。

「ーーいよいよ明日…ですね」

「ああ。しかしこの身は身軽な旅人だ。慌てて荷造りをする必要もない。何も持たずに出ていくだけだよーこの町に来た時と同じようにね」

「……リーチェ嬢様は?」

倭文の視線がふと、ミケランジェロのそれと合った。ミケランジェロは一瞬、倭文の漆黒の瞳に影がよぎったのを見たような気がした。が、それはたちまち彼の明る過ぎる口調によって掻き消されてしまったのである。

「ベアトリーチェにもお世話になったからね、お礼と別れを言いたいんだけどーどうしたものかな?ここ2、3日姿を見せてくれなくて…急に出立を決めてしまったからー嫌われた…かな……」

つとめて何気なく振る舞おうとしていた倭文だったが、それだけに最後の一言はやたら不安げに哀しい響きを帯びた。

ミケランジェロはそんな倭文を見てクスリと笑うと、その肩を軽く叩いた。

「じゃあね倭文様、リーチェ嬢様と私からのとっておきのお餞別を見て元気出して下さいよ」

「餞別?」

「あっ、だけどね倭文様。言っときますがこれは返品ききませんよ、いいですね」

首をかしげた倭文の前でミケランジェロは神妙な面持ちで指を振った。

「 一体何をー」

言いかけて倭文は口をつぐんだ。ミケランジェロの後ろに人がいるのに気がついたのである。わずかな蝋燭が灯る暗がりだった上、頭を垂れて跪いている為に倭文にはその人物の顔はわからなかった。

「ー小姓…かい?」

「ええ、倭文様。そのお体じゃ動くのがやっとでしょ。旅をするのには身の回りのお手伝いをする者が必要ですよ。この小姓を1人お付けいたします」

そう言うとミケランジェロは何がおかしいのか、目を白黒させて笑いを飲み込んだ。

「しかしーー」

倭文の視線は戸惑ったように、ミケランジェロとその後ろの人物の間を、行きつ戻りつしていた。

「私はジパングに帰るのだからーもう二度と戻ってくることはないだろう。そんな旅にこの幼い者を連れてはいけないよ。この者の家族だって嘆き悲しむだろう。この者だってーー」

「…いえ、家族は捨てました。ジパングに行きたいのーあなたと共に」

暗がりから進み出た人物を見て、倭文は魂を抜かれたように動かなくなった。小姓だと思ったのはなんとベアトリーチェだったのである。少年に見間違えたのは春の日差しを集めたような、背の中ほどまでにかかる金髪が無くなっていた為であった。

彼女は透き通るように白く細いうなじの周りを、柔らかく覆っている金色の巻き毛に手をやって、はにかみの笑いを浮かべた。

「ーー おかしい…かしら?でも旅をするには男装していた方が危険が少ないのでしょ」

「ベアトリーチェー君は……」

その途端、ベアトリーチェは身軽な仕草で倭文の寝台に飛び乗って、その唇を素早く手で覆った。そして極上の微笑みを彼に向けたのである。

「あのね倭文、私1つ言い忘れていたわ……私をジパングまで連れて行って下さる?今まで私、行きたいというだけでお願いしたことがなかったわねー倭文、あなたの返事を聞かせてーー」

いきなり抱きすくめられてベアトリーチェの言葉は途切れた。

「倭文ーーー?」

「ーーー」

倭文はギュッと眉根を寄せ、ベアトリーチェの巻毛に白皙を埋めて身じろぎひとつしなかった。

「倭文、どうかして?気分が悪いのじゃなくてーー?」

ベアトリーチェは不安になって恋人の腕の中から出ようと試みたが、倭文は常にないような力強さで彼女を抱きしめて離さなかった。

「ーー本当に…?私と来ると言うのかい……ベアトリーチェ?」

「ええ」

倭文の声を聞くと、ベアトリーチェは安心したように再び身を任せた。

「砂漠じゃ絹張りの寝台はないー」

「倭文に寄り添って眠るわ」

「私では君を幸せにすることはできないよ。私には何もない…地位も、名誉も、財産も」

「あなたがいれば 私は幸せなの」

倭文は腕の力を緩めた。うつむいたベアトリーチェの、白い額と長い睫毛が目に入る。倭文の指が頬に軽く触れるとベアトリーチェはビクリと顔を上げた。白い貌の中で、風に揺れる花びらのようにかすかに唇が震えていた。

互いの視線があった瞬間、吸い寄せられるように2人は唇を重ねていた。



「ー嬢様、倭文様、こっちですよ、こっち……」

石の柱の陰から右へ左へと首を回していたミケランジェロは、誰もいないことを確かめるとひらひらと手を振ってベアトリーチェ達を招き寄せた。

倭文を支えたベアトリーチェは恋人に歩を合わせて、月光の差し込む回廊をそろそろと足を進めた。

「辛くない…倭文?」

時折、心配そうに倭文の蒼白い横顔を見上げてベアトリーチェが尋ねる。柔らかく微笑んで首を横に振る倭文もまた、すっかり旅人の服装になっていた。頭巾のついた厚手のマント、子鹿の皮で作った柔らかな靴。硬くなめした皮のチュニックの上にベルトをしめて、その間からは護身用の剣が1本吊り下がっていた。

ベアトリーチェの方も大体これと同じような服装だったが、緩やかなドレスしか着たことのない彼女には、皮のチュニックの胸を締め付ける圧迫感が、そのまま旅路への不安に繋がっているようだった。

ともあれマリーアの準備した衣装によって、彼らはすっかり青年と少年の2人連れの旅人となったようだった。

「……気味が悪いほど人がいませんや、嬢様。たまに見張りの者がいてもことごとく眠りこけちまってるし…危ないなぁ」

ミケランジェロは自分が出奔の手助けをしていることも忘れて憤慨したように呟いた。

「マリーアお姉様が見張りのことは何とかするとおっしゃっていたけど…このことかしら?」

「まさかーー」

肩をすくめたミケランジェロの後を、抱き合った倭文とベアトリーチェが無言でついていった。やがて中庭を抜けた彼らはラルガ通りに面したパラッツォ・メディチの表門にたどり着いた。ミケランジェロは中庭の正面に置かれた裸身の男性像の陰から繋いであった馬とロバを見つけ出し、ベアトリーチェの目の前に引いてきた。

「リーチェ嬢様。そこの像の陰に繋いでありましたよ。これに乗って行けってことなんじゃないですかーでも乗ることができます?」

心配げに尋ねたミケランジェロから手綱を受け取りながら、ベアトリーチェはロバの鼻先を撫でた。

「…たぶん、ね。私、よく踊りの先生からは筋がいいって褒められるもの。舞踏と武芸は通じるものがあるのでしょ?」

「いや、でもねリーチェ嬢様ーー」

「ベアトリーチェは私の前に乗せるよ」

「倭文様が?」

ミケランジェロはなおも仰天して倭文の蒼白い顔を見つめた。

「そんなの無茶ですよ!倭文様はようやく起き上がるのがやっとってほどの怪我人なんだから。自分1人でだって馬に乗るなんてのは本当なら無理なんですからねっ」

「1人で乗るのが難儀だから、彼女に支えてもらうんだよ、ミケランジェロ。私1人じゃどこで転がり落ちるか知れたものじゃない。しかしメディチ家の掌中の玉を盗む決心を決めた今となっては一刻も早く、一里でも遠くへ逃げなければ。馬にはかわいそうだが見ればかなりの名馬だ。きっと持ちこたえてくれるだろう。ベアトリーチェはかなり軽いし、そのうち1人でもロバに乗れるようになるだろうから…だからいいねベアトリーチェ、今は私と一緒に乗りなさい」

今にも気を失ってしまいそうな見かけとは裏腹に、倭文の声は力強く響いた。ふらつきながらも自力で馬の背に乗った彼はベアトリーチェに手を差し伸べた。

「さ……」

「ええ、倭文」

少し戸惑った様子を見せたものの、ベアトリーチェは倭文と目が合うと決心したようにミケランジェロの助けを受けながら倭文の手を取って馬上の人となった。



「じゃあ荷物はみんなロバの背にくくりつけておきましたから。時々ロバが離れてないかどうか確かめて下さいよ。倭文様、ご無理はくれぐれもなさいませんように。我が女神をよろしくお願い申し上げますよ」

「ああわかっているよ、ミケランジェロ。色々に力になってくれてありがとう。偉大な芸術家とこれから生まれる素晴らしい作品に神の恵みがありますように」

「グラッツェ」

ミケランジェロはおどけたように深々と頭を下げ、膝を折り曲げてお辞儀した。

「ーーミケランジェロ、元気でね…お父様にごめんなさいと伝えてね。私の分もお父様を看病して差し上げてちょうだい。お願いよ」

馬のいななきと石畳を蹴る蹄の音が、いやが応にも出発の感を際立たせた。そこへふいに聞こえたベアトリーチェの、涙ぐんだような声にこの感受性鋭き、天才芸術家の心が平静でいられるわけがあろうか?

「…嬢…様ーー」

ミケランジェロは呟く。頭を下げたままで。が、馬上の恋人達にその声は届かなかったのか、彼の視界を馬の足が横切っていった。

「リーチェ嬢様っ!! 待って下さい!」

カツンと蹄が音を立てて止まった。

「もう一度…もう1回だけお顔を見せて下さい、リーチェ嬢様!!私はとうとう嬢様の肖像画を完成できなかったーだからー」

何とかして少しでも長くベアトリーチェを引き止めようとしているミケランジェロの心を見透かすように、ベアトリーチェは微笑みながら振り返った。

「願わくば、あなたのベアトリーチェが今の私と同じ表情でありますように」

「もちろんですとも、嬢様ー」

ミケランジェロの目が切なく光った。

「このリーチェ嬢様は、私がこれまでに見た中で一番お美しいですから…綺麗ですよ、本当に。生き生きとしてーこの宮廷では誰一人としてあなたのそんな美しさを引き出せるものはいなかった…」

恋人の腕の中で幸せそうに微笑むベアトリーチェに、その呟きはもう届かない。遠ざかる彼らの後ろ姿が涙に滲んでぼやけて見えた。

「ーでもね、リーチェ嬢様。私はあなたが大好きでした…人が大気を、鳥が空を、魚が水を必要としているように」

しばらくの間立ち尽くしていたミケランジェロだったが、やがて2人がラルガ 街の向こう、サン・マルコ修道院の彼方へ消えてしまうと、そばかすだらけの頬を拭い、手のひらを押し付けて鼻をすすった。

「でも、まあいいか…嬢様は幸せなんだし。この私を頼って下さったんだから」

ほんの少し得意になったミケランジェロはヒュッと口笛を鳴らし、それがあまりにも辺りに響いたので、慌てふためいてパラッツォの中に駆け込んだのだった。

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