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ベアトリーチェ・ディ・メディチの肖像21

真夜中のラルガ街(メディチ家の在所)は人通りもなく、不気味な静寂に満ちていた。パラッツォ・メディチの門を出て、その長く堅固な壁沿いを、ミケランジェロは小走りに駆けていた。時折、壁に映る自らの影を曲者と勘違いして手を振り回したり唸り声を上げて威嚇したりする様は、傍から見ている者があればさぞ楽しかったに違いないが、当の本人はこの上もなく真剣だった。

物騒な夜の都をうろつくー日頃のミケランジェロならばどんな用事があってもそんなことはしなかったろう。彼の崇拝する女神が望んだことでなければー。

「……嬢…さ、まーリーチェ嬢様はおいでですか…?」

やがて、パラッツォ・メディチからほど近いメディチ家の菩提寺、サン・ロレンツォ教会に着いたミケランジェロはその扉をそっと開いて闇に向かって目を凝らした。

「こっちよ、ミケランジェロー」

礼拝堂の祭壇に向き合っている長い椅子に腰掛けてベアトリーチェはこちらを見ていた。仄暗い蝋燭の灯りに照らされたベアトリーチェの横顔は、祭壇の上の聖母よりも美しいとミケランジェロは思った。

「一体どうなさったんです、リーチェ嬢様。こんな真夜中に、しかもサン・ロレンツォまでお呼び出しなんて…乳母も連れずによく出て来られましたね」

「乳母やは返したの。どうしても一人で夜通しお父様と倭文の回復をお祈りしたいからって。夜明けが近くなったら迎えに来るわ。賊だってまさかこんな所にメディチの娘がいるとは思わないでしょ?」

「ーそれで?嬢様」

ミケランジェロはベアトリーチェの座っている椅子の背に手を掛け、やたら陽気に話を促した。

冬の夜中の礼拝堂は吐く息が白くなるほど冷え切っている。寒さから来る震えと闇に対する恐れからのそれ、そして何よりミケランジェロにはベアトリーチェの思いつめた様子が怖かった。彼女の話をはぐらかしたいー心が自然と彼の口調を明るいものにしたのである。

「ーミケランジェロ、倭文が…行ってしまうのよ……知っていて?」

「え、ええ…はぁ。さっき殿様の所にジョヴァンニ様がご報告にいらしてましたから…倭文様に確かめたら本当だと言うしー」

だからミケランジェロは今日ばかりはベアトリーチェに会いたくなかったのだ。これを知ったベアトリーチェはどんなに嘆いていることだろう。一体どうやって慰めたらいいのかー。彼はベアトリーチェのセルリアンブルーの瞳から涙がこぼれてくるのを、今か今かとヒヤヒヤしながら見守っていたのだがー。

「…私、倭文と一緒に行くわ。黄金の国、ジパングへ!!」

「へっ!?」

ベアトリーチェが口を開いた瞬間、ミケランジェロは全身の震えがいっぺんに止まった。後年、法王にシスティーナ礼拝堂の広大な天井をすべて絵で埋め尽くせと言われた時でさえおそらく彼はこれほど驚かなかったに違いない。

「私決めたのよ、ミケランジェロ。生涯を共にする人は倭文なの。ヴェネツィアの、見たこともない許嫁なんかではなく…彼しか考えられないわ」

「リーチェ嬢様…あの、ご自分でおっしゃってること…わかってますか?」

恐る恐るミケランジェロはベアトリーチェを見た。ベアトリーチェは大きな瞳を輝かせて夢中で頷いた。

「ええ。だから私、フィレンツェを出て行くわ…大好きなお父様やミケランジェロ、あなたともお別れしてー」

「フィレンツェから一歩も出たことのないあなたが!?」

「誰だって初めての時はあるものでしょ」

「行ってしまうというのですか…この花の都を、病篤き父上を見捨てて?」

「ー私って恩知らずな娘だわ。こんなに大切に育ててくださったお父様を捨てて…地獄へ墜ちても当然だわね……」

ベアトリーチェはせつなげなため息をついた。

「フィレンツェは私の故郷で、とても美しくて大好きだけれど…でも倭文さえ一緒にいてくれたらどんな所へ行っても、私にはそこが最高の場所なのー倭文が行ってしまうと聞いて私、胸が張り裂けそうだった……1日、いえ数時間だって倭文の声を聞かず、顔を見ずにいたら私、死んでしまうわ!!どうすればいいのミケランジェロ。私ー」

「ー実際ーあなたを永遠に失ってしまうことになるとわかっていたら、倭文様に協力などしなかったのにね…しかし、女神が不幸なこの世など神の本意なるはずもなしーよろしい、お行きなさいリーチェ嬢様、倭文様と共に。お父上やジョヴァンニ様の目は私が何とか逸らせましょう」

激情を抑えきれずに泣き出したベアトリーチェの震える肩先に手を置いて、ミケランジェロは苦い笑いを浮かべた。



「でも、いつの間に倭文様とそんな話を?彼がそんな大胆な方だとは今の今まで知らなかったなぁ。このヨーロッパ一の名家中の名家、メディチ家の掌中の玉を奪っていこうとは…」

「ーー倭文は…知らないわ……」

ベアトリーチェは涙に濡れた睫毛をしばたかせながらも大胆に言い放った。

「えっ」

「倭文がそもそもフィレンツェを出ようと決心したのは私のせいなの。私を…そのう…危険な目に合わせまいとして。まだ歩くのでさえやっとだと言うのに…だからお願いミケランジェロ!どうか倭文には黙っていてね。旅立つその時まで。私がついていくなどと言ったらきっと、倭文はすぐにでも旅立ってしまう。黙って、私を…置いてーお願いよ。たとえ倭文がだめだと言っても追いかけていくわ」

「…ーー」

ミケランジェロは、一体どう反応したら良いのか困惑して日頃の軽口も叩けずにいた。

「本当にーどうして私はこんなにもあの人を愛してしまったのでしょう?不思議だわ…あの人がはるかな異国(とつくに)からの旅人だったからでも、パラッツォの誰よりも優美に振る舞ったからでもない。なぜ、この美しいフィレンツェを捨ててまでついて行きたいと思ったのかも…でもわかっていることもあるの。私は運命ーそう、運命に出会ってしまった。今、倭文と離れたら私の心は現身から離れ、この身はただの抜け殻になってしまうでしょうーエウリディケを失って野原を彷徨ったオルフェウスのように……」

「わかりました…わかりましたよ、リーチェ嬢様。私があなたに逆らえないということは百もご承知のはずでしょ。あなたと二度とお会いできなくなるというこの悲劇ーそう、まさにこの悲劇的な事実に直面させられて戸惑っているのに、あなたはそうやって脅しをかける。お願いですから、このミケランジェロを少しでも哀れと思うならどうかそんなことをおっしゃらないでください、嬢様」

「あら…脅しなんてー」

ミケランジェロは首を振り振りベアトリーチェの言葉を遮った。

「たとえあなたにその気はなくてもねーで、嬢様、この哀れなる下僕に何をお望みで?出奔の手引きはもちろん、そのための準備が要りますよね。馬や衣服や食料や…」

「いえ、あなたには倭文と私をここから連れ出してもらえば ……」

その口調に何か引っかかるものを感じてミケランジェロは椅子の背からそっと手を離した。

「嬢様ー何か私に隠してやしませんか…?」

「な、何を …?ミケランジェロに隠すことなんてー」

「いや、このパラッツォ・メディチと教会、いくつかの別荘だけが世界のすべてだったリーチェ嬢様のことだ、そんな計ったように旅支度ができるわけが…こんなに冷静に用意周到にできる人物と言ったら……」

日頃、軽口を叩いてばかりいるミケランジェロだが、時折相手の心を奇跡のように読み取ることがある。否定したものの痛い所を突かれて、ベアトリーチェはしどろもどろになった。

「ーー ミケランジェロ…じゃあ喋らないって約束をしてくれて?そうでなくてはお話できなくてよ。これにはーーひと1人の人生がかかってるの。もし、お父様のお耳にでも入ったらその人はフィレンツェでは生きていけなくなるわ。お願いよ」

すがりつくようなベアトリーチェの表情にミケランジェロはちょっと気分を害し、口を尖らせた。

「嫌だなぁ、嬢様。そんな顔なさらなくたってー今までこの私がうっかり口を滑らせるなんてこと……」

言いかけてミケランジェロはハッと口をつぐむ。

「ーあったでしょう?コンテッシーナお姉様のご主人のピエロ・リドルフィ様と倭文じゃ月とスッポンだとか、ジョヴァンニお兄様はピサの大学で同窓生のボルジア枢機卿の為にどうしても首席が取れないで歯噛みしているとか…もちろんあなたに悪気がないのはわかっているわ。あなたは倭文にこっそり会わせてもくれたしーでも」

「嬢様ーリーチェ嬢様。すみません…でも今度こそは、倭文様の御為です」

面目なさそうに頭を掻いたミケランジェロを見てベアトリーチェは薄っすらと笑った。

「倭文の為なのは確かなのだけど、私が案じているのはマリーアお姉様のこと」

「マリーア…様ですか?」

「ええー」

ベアトリーチェは得意げに口元をほころばせた。

「私が倭文についていく決心ができたのも、マリーアお姉様が勧めて下さったからなのよ。女は愛する人といるのが一番幸福なのだからってー馬や鞍や衣服や金子、何から何まで揃えてくださったの。ね、マリーアお姉様っていい方でしょう、ミケランジェロ?」

「でっでも、マリーア様は倭文様を別荘に移すことをジョヴァンニ様に進言なさったのでしょう、真っ先に!?」

「私もあの時はお恨みしたけれど、あれはジョヴァンニお兄様の目を眩ます為のお芝居だったのですってーー嬉しいわ、マリーアお姉様はジョヴァンニお兄様にしか心を開いて下さらないと思っていたのにそのお兄様をお騙しになってまで私の味方をして下さったのだと後からわかって」

「ーーー」

『それがー気になるんですよ、嬢様。あのマリーア様がジョヴァンニ様を裏切るなんてことが果たしてあるんだか…あの方には神も悪魔もあったもんじゃない。ジョヴァンニ様のみーそうジョヴァンニ様だけしかないんだ。あの人は異母弟の為ならどんなことだって厭わないだろうさ。あれは姉弟の情なんかじゃない…そう、まるで……』

「ミケランジェロ、どうかして?」

暗い、禁忌の領域に思いを馳せていたミケランジェロは、訝しげな色を浮かべたベアトリーチェの瞳と合ってハッと我に返った。

「えっ?い、いやぁ…」

「お姉様は最初、自ら私達をパラッツォの外に送り出して下さるとおっしゃったのだけれどそれは私がお断りしたのよ。こんなにしていただいただけでも申し訳なく思っているのに、もし見張りにでも見つかったらマリーアお姉様は今まで以上にお父様に疎んじられてしまうでしょう。おお、そんなことになったら私…」

「ーメディチの黒魔女と伊達にあだ名されているわけではありますまい。あの方が見張りに見つかるような、そんなヘマをなさるもんですか。色々と怪しげな術の用意がおありでしょうよ。奥の手が、ね」

「ミケランジェロったら!!」

ミケランジェロの毒舌に目を丸くしたベアトリーチェはしかし、ふと眉を曇らせた。

「でも、手伝ってもらえば私達がいなくなった後、あなたはきっとお父様やお兄様に咎められてしまうわね…そんな時はこう言って。メディチの娘に逆らうなど恐ろしくてとてもできなかった…逆らったらお父様にあることないことを言って小姓の仕事もプラトン・アカデミアへの出入りも差し止めになるようにするって脅されたってね。そうすればお兄様はともかく、お父様にはお気に入りのあなたですもの。さしたるお咎めはないはずだわ…ごめんなさいね、ミケランジェロ。でもこうするしかないのーマリーアお姉様の立場をこれ以上悪くするわけにもいかないし…」

「リーチェ嬢様、そんなこと本気でおっしゃってるんですかープリマヴェーラ(春の女神)の名が泣きますよ」

「構わないわ。誰に何を言われようとー神は真実をご存じなのですもの」

ミケランジェロは呆れたように天を仰ぎ、小さく十字を切った。

「ー恋は偉大なり、だ。アーメン…でも嬢様、あなたはそれでいいかもしれませんがね…」

「ダメ、かしら?」

「大いに不満ですね」

がっくりと音がしそうなほどうなだれたベアトリーチェはしかし、すぐに頷いた。

「わかったわーこんなことを頼んで…もしかするとあなたにだって類が及ぶかもしれないのですものね。私ったら自分のことしか考えなくて…ごめんなさい。別の方法を考えるわー」

「まぁ話は最後までお聞きのほどをリーチェ嬢様ーそりゃ倭文様に比べれば私などは番犬にも及ばないでしょうがね。これでも私はあなたをお守りする騎士のつもりなんですから一応…その私が、どうして崇拝する女神をけなすことなどできます?たとえ本当に脅されたとしてもねー」

ここでミケランジェロは軽くウインクして見せた。

「私は誇りを持って言いますとも…たとえ殿様に向かっても。私は崇拝する方の幸せを願って出奔のお手伝いをしたのです、とね」

「おお… ミケランジェロ!!」

ベアトリーチェは感激のあまり、ミケランジェロの首に抱きついた。赤毛の崇拝者は少々戸惑いながらもその手を、少女の細い肩の上に置いて言い聞かせるように呟いた。

「…よく2人でお屋敷から抜け出したのがようやく役に立つ時が来ましたね……幸せに、リーチェ嬢様ー幸せになれるといいですねぇ…」

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