ベアトリーチェ・ディ・メディチの肖像23
ーフィレンツェ 郊外ー
樹齢300年はあろうという大きな木のもとに腰掛け、まんじりともせずに倭文は夜明けを迎えた。ふと、目の前の焚き火の炎が小さくなっていることに気がついて痛む肩を押さえながら小枝をくべる。倭文の振動が伝わったのか、傍らのベアトリーチェが無意識に小さな吐息をついた。
倭文はハッと身を固くしてベアトリーチェを見つめた。しかし少年の姿をした姫君は何の不安もなさそうに、あどけない様子でスヤスヤと寝息を立てていた。
その白い額に軽く唇を触れて、倭文はそろりとブランケットから抜け出した。ほんのり紅く染まった東の空に明けの明星を見ながら彼は頬に初冬の冷気を感じた。
ベアトリーチェに自分のブランケットをかけてやった倭文は、昨夜近くに流れていた川から汲んであった水を火にかけると、その傍らに座り込む。炎を見つめる倭文の脳裏に昨夜のベアトリーチェとの会話が蘇ってきた。
☆
「あら倭文、どうしたの。そんな木の陰で…寒いでしょう?こちらへいらっしゃいな。冷えたらまた熱が出てしまうわ」
「い、いやー」
無邪気に火の傍らでブランケットを広げるベアトリーチェを前に倭文は尻込みしていた。
「どうして?ブランケットもほら、こうして暖めてよ。追っ手のことなら心配ないわ。火の近くの方が見やすいでしょう」
「いや、そうじゃなくて…」
倭文は面食らった様子でしかし慎重に言葉を選びながらベアトリーチェに向き直った。
「ーあのね、私達はこんな風にしてフィレンツェを出てきてしまったけれど…その…2人の仲はーどこかもっと落ち着いた所ーコンスタンチノープル辺りーにでも行くまでは清いままで…ね」
「え、なぁに?」
ベアトリーチェのまっすぐな瞳に見つめられて、倭文の蒼白い頬は思わず赤らんだ。
「だからーー」
しどろもどろの倭文に近寄ってきたベアトリーチェは、その肩に暖まったブランケットをかけながら覗き込んだ。
「乳母やもよくそう言っていたわ。未婚の娘が殿方と2人っきりでいるなんてって。汚れた娘はお嫁に行けませんよ、なんてーね、倭文、男の人ってそんなに汚いの?」
「え?」
今度は倭文がベアトリーチェを見つめる番だった。
「どうしてかしら?それはミケランジェロは絵の具や木炭で汚れていることもあるけれど、お父様やお兄様達やパラッツォの殿方は皆とてもお洒落なのに…でも、いいわ。私は倭文がお嫁にもらってくれるのだし、倭文はこんなに綺麗なのだもの。静かで優しくて…天使ガブリエルのようーー」
「ーーー」
ここまで聞いては倭文としても1つの結論に達するしかなかった。つまりベアトリーチェは何も知らないのである。男と女のことも、駆け落ち自体がどういうことを意味しているのかさえー。
倭文とて元来、色恋の方面にはかなり疎い方であったのだが。それでも各国を旅していれば宿場宿場でいろいろな女達と巡り合う。彼の異国風の顔立ちや、優美な物腰は宿場に集う娼婦のみでなく、物見遊山の貴婦人達をも引きつけた。その割には色恋の経験が少ないというのはひとえに性格の賜物であるに違いなかったのだが…。
しかし色恋渦巻く宮廷に育って、倭文以上にその方面に疎いベアトリーチェはまさに奇跡のようだった。春の光を集めた微妙な色合いの髪、薔薇の唇、 真珠の肌、そして何者をも包み込むこの慈愛に満ちた心。
おそらくこれを間近に見て自分のものにしたいという欲求に駆られぬ男などいないだろう。しかしベアトリーチェは ロレンツォ・イル・マニフィーコの愛娘だったがゆえに誰も近づける者はいなかったのだ。その父親の威光を恐れて。ただ1人、倭文を除いては。
「ーー ベアトリーチェ?」
物思いからふと放たれて倭文は再び少女に目をやった。
応えはない。今夜の疲れが出たのかベアトリーチェは倭文にもたれかかってぐっすりと眠っていた。
「まいったな…一体どういう育ち方をしたんだ?」
倭文は怪我をしていない方の手で髪を掻き上げながら呟いた。
「ー私だって男なんだ。まして駆け落ちしてきた君を相手にどこまで理性を保てるかなんて…これ、起きなさいベアトリーチェ、私の話をちゃんと聞いてるの?」
ウウンと小さく呟くベアトリーチェは、だが一向に目覚める気配がなかった。
『駆け落ちの意味も知らずにこんな苦しい旅についてきたの、ベアトリーチェ…ただ私とジパングを目指す為だけにーー』
最も倭文とてフィレンツェ宮廷の美姫と官能的な恋に陥るつもりはなかった。ベアトリーチェのその純粋さに惹かれたのだから。
「仕様のないお姫様だー」
苦く笑った倭文は傷の痛みを堪えながらベアトリーチェを抱きかかえて火の側に戻った。
『こんな君じゃこれ以上どうするわけにもいかない…ようやく2人になれたというのにね。だがとりあえず今はメディチの追っ手から逃げることの方が先決だ。もしもの事を考えると私達はこのままの方がいいのかもしれないよ、ベアトリーチェ』
もしもの事など考えたくもないというように倭文は強く頭を振ると、ブランケットを肩まで引き上げた。
『…寒いわ、乳母やー窓を開けてるの?小鳥がずいぶん騒がしいけれど…』
徐々に眠りの淵から意識を取り戻したベアトリーチェは、自分がどこにいるのかを思い出してバサッとブランケットを跳ね除けた。
「やぁおはようベアトリーチェ。昨夜はよく眠れた?」
パチパチと木のはぜる音がした方にベアトリーチェが顔を向けるとそこには朝日に照らされながら愛しい人が微笑んでいた。
「おはよう倭文。ええ、とてもよく眠れたの。私って案外図々しいのかもしれない。ごめんなさい、本当はあなたより先に起きて食事の支度をするつもりだったのに」
まだ半分夢の中を彷徨っているように目をこすりながら近づいてきたベアトリーチェを見て倭文はクスリと笑った。
「いいよ。そんなことは私の方が慣れているのだから。ほら、そこへお座り。これを入れたらすぐに食べられるからね」
ベアトリーチェは何もかも生まれて初めての体験だったので、青い大きな瞳を物珍しげにくるくると動かしていたが、中でも倭文のやっていることに興味を引かれたようでじっと彼に向かい合ってそれを覗き込んだ。
「それはー何?豆を焼いているの?とてもいい匂い」
「そう、これを挽いてねーこう」
倭文は素早く、小さな鍋から長細い筒に豆を移して取っ手のようなものを回した。途端に焼いた豆とはまた別の、香ばしい香りが漂う。
「あら、これコーヒーね。そうでしょう、倭文?」
「そうだよ。君はコーヒーを入れるのを見たのは初めて?」
ベアトリーチェは無邪気に頷いた。
「ええそうなの。パラッツォでは黒い液体になっているのしか見たことがなかったわ。これはきっと、いつも飲むのとは違う種類のものなのねーあら、どうして笑うの?倭文」
「いやーいいかい、ベアトリーチェ。よく見ていてごらん」
倭文は筒の中から粉を取り出してカップに入れると、音を立てて沸いていた熱湯を注いだ。
「まぁーコーヒーになったわ!」
「さぁどうぞ、お姫様」
差し出されたカップを受け取って口に持っていくベアトリーチェを、倭文は愛おしげに眺めた。
「美味しい」
「よかったーー 気に入ったかい?」
「ええとっても!そうだわ、倭文。今度は私が入れるわね。大丈夫、入れ方は今ので覚えたもの。怪我をしている倭文ばかりに食事の支度をさせられないわ」
君は鍋さえ持ったことがないのではと言いかけて倭文は口をつぐんだ。
「わかったーじゃもう一度、豆の選り分けから私と一緒にしよう。今のは説明をつけなかったからね。美味しく入れるにはちょっとしたコツがあるんだ」
ニコッと微笑むベアトリーチェを抱き寄せて、綿毛のような短い巻毛に頬を埋めながら倭文は思った。
『何を焦ることがあるだろう?まだ2人の旅は始まったばかりだ。力を合わせてこれからを乗り切らなくては』




