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透明  作者: 文月
第一部 出逢い編

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第61話 俺の手綱をあげる

 

 その知り合いは、私が張った境界線を越えずに、必要以上に触れてこなかった。

 部屋を貸してくれるときに最低限の事情を聞いただけで、決して知り合いの方から連絡をしてこなかった。


 どれだけ感謝してもしきれない。


「『……鈴子の未来はこれからもっと明るくなる。彼氏に泣かされたらいつでも言うんだよ? 殴り込みに行ってやる!』」


 ――頼れなくてごめん。全部を話せなくてごめん。


 みーくんと出逢って、変わって。


 ゆっくりと思い返したら……私は頼ることを怖がっていたのだと、そう気づかされた。


「一緒に住むことになったから、そのうち会ってくれる?」

「『うん、いつでも』」

「ありがとう」

「『千載一遇、忘れちゃダメだよ』」

「……うん」


 胸に響く、千載一遇という言葉。


 顔を上げれば、いつだって出逢いは転がっているのに、見ようとしていなかったのは私の方だ。


「『じゃ、またね。鈴子』」

「うん、またね。――鈴子」


 同じ名前、同じ年、同じ時間に同じ電車で出逢った知り合い。


 もしも彼女がいなかったら、私は今も実家から抜け出せずにいたかもしれない。


 俯いて、我慢して、いい子をやっていたかもしれない。


 ――困ったらいつでも言って。鈴子が鈴子の力になるから!


 千載一遇。その言葉を大事に抱えていこうと思う。


「りーんちゃん」


 ほんの少しだけ開いていた寝室のドアの向こうから、みーくんがひょっこりと顔を出した。


「みーくん」

「なぁに?」


 みーくんは打てば響く人だな、と少しずれたことを考えながら、鈴子と話した内容を振り返った。


「みーくんが最初のきっかけになってくれたような気がする」


 きっかけはいくらでもあったはずだ。


 だけど、私がさまざまなことに気づけた最初のきっかけは、確実にみーくんとの出逢いだったと思う。


「んー……? どしたの、急に」


 ベッドに腰掛けていた私の横に座り、まだ少し濡れている髪を、みーくんはタオルで拭いた。


 そのタオルをしれっと横取りして、みーくんの黒くなった髪を丁寧に挟む。


 軽く叩くようにして、水分を取っていった。


「……幸せになって、いいんだよね」

「とーぜんでしょ。りんちゃんを幸せにするために俺がいるんだしぃ?」

「即答だね」

「そりゃ即答するでしょー」


 振り返ったみーくんに、ゆっくりと肩を押されて身体を組み敷かれる。


 私を見下ろすその顔が、いやに綺麗で艶っぽい。


「――りんちゃんに俺の手綱をあげる」


 しっとり濡れた前髪を鬱陶しそうに掻き上げながら、みーくんはにやりとニヒルに笑った。


「『止めて』も『して』も、りんちゃんだけに言わせてあげる。俺の全部をりんちゃんに渡す」


 今まで言わなかったその言葉を、使うことが許可される。


 それがどんな意味を成すのか今はまだ分からないけど、この瞬間になって確かにみーくんは私の『意思』を聞くと決めた。


 先回りして行動するんじゃなくて、偽善を嫌い自由にやりたい放題するんじゃなくて、私の抱く『私の意思』をちゃんと聞くと宣言した。


「りんちゃんのありのままを貰うから、俺の自由を代わりにあげる」


 言外にほのめかされた意味を考える。


 つまりは勝手に喧嘩をしたり暴れたりを止めるということなのか、それとも今よりもっと束縛してほしいということなのか。


 相変わらずはっきりとは言わないけれど、みーくんが起こす面倒を嫌っている龍がもしここに居れば、きっと。


 ――よくやった、と言うんだろう。


「家族になるのも時間の問題だろ?」


 誰がこんな脅しみたいなプロポーズを望んだんだろう。


 素直に結婚するのが楽しみだね、なんて言えないの。


「俺の手綱一回でも握ったら、もう捨てらんねぇから。返品は無理な」

「……それ、押し付けただけでしょ」

「渡してしまったもんは仕方ねぇだろ。リンの人生には一生俺がついていく」

「返品できないから?」

「ああ」

「……押し売りセールス」

「得意分野」


 両のまぶたがじんわり温かさに浸る。


 結果的に、みーくんに強奪された私の人生はこの先どうなるのか分からないけど。


 強引に見えて的確に私の希望を叶える所は上手いというか、ズルいというか。


 まだまだ考えなきゃいけないことはたくさんあって、小さな問題は山積みだ。


 でも今は、


「仕方ないから、みーくんの手綱、私が握ってあげてもいいよ」


 与えられる愛を大人しく享受《きょうじゅ》したいと思う。


 頬を濡らした水分が、私の目からこぼれた涙かみーくんの髪から落ちた雫か、どっちのものか分からないけれど。


 それがまっさらに透き通ったものだってことは、言われなくてもちゃんと分かった。


 ━────── •●• ──────━


 早春。

 そろそろ、穏やかな春風が吹く季節がやって来る。


 コンビニのアルバイトを辞め、森のカフェでの研修を一足先に終えた私は、久住さんと共にカウンターで珈琲を飲んでいた。


「なんだ、随分早いな」

「ですね」


 互いに顔を見合わせて笑いながら、壁に掛けられた時計を見る。


 どんな人なのかと戦々恐々としていた大地さんとの対面は、見事に予想を裏切られ、何事もなく普通に終わった。


 どことなくインテリな雰囲気をまといながら、それでも不思議と子供っぽい大地さん。


 みーくんや久住さんの見た目に感化され過ぎていたせいか、大地さんの出で立ちには正直、拍子抜けした。


 奥さんの妊娠を機に帰国を決め、現在はtrumpを自分好みに変えているところらしい。


 なぜtrumpなのかと尋ねたら、単純にバーの経営に手を出してみたかったとのこと。


 最初から作るより、知名度があった方がやりやすいらしい。


 経営に関しては私にまったく知識がなく、いまいち話も分からない。


 けれど、『成金ってのは突拍子がない』と久住さんは呆れて言った。


「良かったんですか、行かなくて」

「どうせ、追い返されるのがオチだ」

「……分かりませんよ、意外と」

「スーツは用意しておいたんだがな」


 苦い表情で眉間にしわを寄せ、久住さんは手にしていたカップをソーサーへ置いた。


 森のカフェが衰退して潰れないよう、経営者が交代する際、大地さんはいたずらな笑みを浮かべて久住さんにノルマを課した。


 それをこなすため、頭を悩ませて私と久住さんが企画案をひねり出したのは、2か月も前のことになる。


 現時点で、お客さんは1日に数十人。


 以前より格段に増えた。


 ただ、溜まり場としての役割は――酒田さんが卒業するのを機に、終わりを告げる。


「あ、来た」

「……なんで分かった?」

「なんとなくですよ」

「羽柴探知機でも付いてんのか?」

「付けられたの間違いじゃないですか」


 うんざりしたように言いながら、椅子から立ち上がって用意していた花を手にする。


 入店の鐘が鳴る前にドアへ近づき、迎え入れる準備を整えた。


 ガラスの向こうに見える、トーテムポール並みの長身男子と、野球部さながらの短い坊主頭の男子。


 その両端を歩く、へらりと愛想笑いをする覗き魔男子と、真面目そうに見えて弾けている骨折男子。


 そしてなぜか四人の真ん中で、だるそうに欠伸をしながら歩く、じゃらじゃらとピアスをつけた蛇みたいな目つきの――


 私の彼氏。


 制服を着るのは今日で最後のくせに、全員が着崩していた。


 なんの感慨も持ち合わせていないらしい。


 龍にじゃれて怒られるタキ。


 槙原さんの鞄を蹴り飛ばして笑うみーくん。


 ちゃんと前を向いて歩いていた酒田さんが私に気づき、みーくんの肩を軽く叩く。


 10メートルほど先から、みーくんは私と視線を合わせた。


 ふっと相好《そうごう》を崩して笑う。


 タキがみーくんに何かを言い、その瞬間、みーくんが走り出した。


 後に続いたタキは何かを叫びながら走っているけれど、残りの三人はゆっくりとしたペースを崩さない。


 からん、と軽快な音がした。


「――卒業おめでとう、みーくん」

「卒業祝いにちゅーしてくれる?」

「……後でね」


 渡した一輪の花を受け取り、軽口を叩くみーくんに苦笑いする。


 その後ろから入ってきたタキは、ぜぇぜぇと息を荒らしながら汗を拭い、にっかり笑った。


「俺、コーラな!」

「……卒業おめでとう、タキ」

「久住ぃ、コーラ出せ!」


 受け取った花に見向きもしないタキは、着ていた学ランを投げ捨てた。


 間を置かずに龍も入ってきて、同じように花を渡す。


「龍、卒業おめでとう」

「そんな大しておめでたくねぇ」

「……」


 どいつもこいつも、こんなのばっかり。


 素直なやつはいないのか。


 内心ふつふつと湧き上がる感情を抑えながら、酒田さんと槙原さんへ花を渡す。


「酒田さんと槙原さんも、卒業おめでとうございます」

「ありがとうございます」

「鈴子さん……!」


 感動している槙原さんは、ちょっとずれた人だと眉毛全剃り事件で知った。


 だから、深くはツッコミを入れないことにする。


「みっつんと競争しようとしたらフライングだぜ? ひどくね?」


 なぁ、とタキが話しかける先は私ではなく久住さん。


 ここ数か月で、少しずつ関係は良くなっている。


「悟と充は来週からな。鈴子、コイツらの制服出しとけ」

「分かりました」

「人のカノジョを顎で使うって……久住ぃ、お前何様?」

「鈴子は従業員だろう」


 これも最近になって、よく見る光景だ。


 久住さんから指示され、みーくんが横槍を入れて挑発する。


 言葉だけ聞けば、久住さんが私を使うことに不満を抱いているように聞こえる。


 けれど、みーくんはにやにやしていた。


 久住さんに絡みたいがために、何かといちゃもんをつけているだけ。


 その真意はおそらく、久住さんの忍耐力を試しているといったところで。


 なんだかんだ言って、久住さんは好かれている。


 ポジションで言えば、兄貴分。


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