第60話 心配しないで幸せになれ!
最後だけは小声で言った酒田さんに、つい笑みが漏れた。
確かに、格好つけたがりなところはあると思う。
恭平みたいな、たちの悪い見栄じゃなくて。
酒田さんとじっくり話す機会なんて、そうそうなかった。
けれど、これからは増えてくるのかもしれない。
trumpを大地さんに渡した、いかにも危なそうな久住さん。
その久住さんが、森のカフェという喫茶店の店長になる。
それだけでも不思議なのに、みーくんとタキがそこで働く。
森のカフェにお客さんは来るんだろうかと、少し心配にもなる。
ともかく、進路が決まったのは喜ばしいことだった。
「……あれ? 酒田さんは? もしかして、一緒に?」
そういえば聞いていなかった。
問い掛けると、酒田さんはあっさり頷いた。
「はい。俺の場合は、給料が出るようになったってだけですけどね」
「へぇ……そうなんだ。槙原さんは?」
「自分は専門学校に!」
「……ちなみに、なんの?」
「メイクアップアーティストです!」
「ぶっ……!」
噴き出したのは、断じて私ではない人だ。
意外過ぎるその選択に、どう反応したらいいか分からない。
「何回聞いてもお前面白いな」
酒田さんは槙原さんの背中をバンバン叩きながら笑っていた。
けれど、すぐに気を取り直して私へ振り向く。
「――まぁ……カフェは久住さんが入るんで、やり方は変えるみたいです。うちの兄貴は経営者としてほとんど機能してないですからねー」
大地さんの周りからの評価が、ことごとく低いのは気のせいだろうか。
すでに座っていたタキと龍を視界に入れ、話をいったん区切る。
そのままリビングのシャギーマットの上へ座った。
「りんちゃん楽しそー」
みーくんの嫉妬らしき発言に、酒田さんは目を逸らす。
「みーくんはふざけるばっかりだから、酒田さんに聞いた方が早い」
恐らく『俺に聞け』と言いたいんだろう。
みーくんへ先に言い訳をしておく。
ローテーブルに並べられた昼食は、デミグラスソースの掛かったオムライス。
玉子が半熟のやつだった。
やたら生活能力が高いところは、みーくんの器用さと一人暮らし歴の長さが垣間見える。
「りんちゃんには昨日ちゃあんと話したでしょ」
「みーくん、はぐらかすのが得意だから細かい話は聞けてないよ」
「初任給から手取り18万円とかぁ?」
「……それ本当の話?」
思わず酒田さんに目を向ける。
あっさり頷かれ、肯定された。
そんなのはまったく聞いていない。
一般のお客さんがほとんど来ないカフェで、最初からその金額は破格過ぎる。
「お店潰れるんじゃないの?」
「金持ちの娯楽みてぇなもんだから、いいんじゃねぇの」
龍はあっけらかんと言う。
けれど、そういう問題じゃないような気もする。
「これから久住もやる気だしぃ?」
にやっと笑ったみーくんにため息を吐き、スプーンを手に取る。
羨ましい。
正直、羨ましい。
けれど、人生そんなものだという諦めもある。
恵まれる人は、とことん恵まれる。
物事が当たり前のようにいい方向へ進む人はいる。
私には、その幸運のスポットライトが当たっていないだけだ。
「りーんちゃん」
無意識に暗い顔をしていたのか、心配そうに名前を呼ばれた。
――比べたって仕方ない。
慌てて顔を上げる。
食事を始めようと手を合わせた、そのときだった。
「――だいじょーぶ」
ひらりと、目の前に白い紙が掲げられた。
つい最近目にした、それは――
正社員雇用契約書。
「りんごがいたら、みっつんがシャキッとするだろーなって大地に言ったら、雇えってよ。久住もそれに賛成な」
にかっと、太陽みたいにタキが笑う。
「りんごさんみたいにしっかりしてる人が必要だと思うんですよね。よろしくお願いします」
愛想のいい酒田さんの笑顔が輝く。
「就職祝いにしちゃ妙だが……りんごにはそれが似合ってんじゃねぇの」
龍がつまらなそうな顔をして皮肉る。
「エプロン姿見に行きます!」
眉毛が生え揃った槙原さんが、興奮しながらそう言った。
「おめでと、りんちゃん。これで晴れてコネ入社の仲間入りだねぇ?」
してやったり、とみーくんがにやりと笑い、それを差し出す。
いつからこんなことを企てていたのか、まったく知らなかった。
コネなのに。
しかも、みーくんのついでみたいなのに。
胸が震えて仕方ない。
目を閉じて深呼吸する。
……私らしく。
「――とりあえず、大地さんと話をしてから、受け取るかどうかはその後にする。久住さんとも話さないと」
「りんちゃんなら、ぜぇったいそー言うと思ったぁ」
自分を雇おうとしている相手を知らないまま話を進めるなんて、どう考えてもよくない。
浮かれて喜ぶのはまだ早い。
ちゃんと考えて、話を聞いてから決めないと。
湧き上がる嬉しさを抑えるように、気持ちを落ち着かせる。
「兄貴はいつでも大丈夫ですよ。店にはほとんど出てないんで」
「……え?」
「トレーダーって知りません?」
とんでもない人のところに就職を決めようとしているんじゃないか。
反射的に、みーくんをガン見した。
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みーくんがお風呂に入っている時間を狙い、携帯電話を手に取った。
アドレス帳から相手を呼び出し、電話を掛ける。
コールが切れるまで待った。
「もしもし?」
「……久しぶり」
「久しぶりー」
「ちょっと聞きたいことがあるんだけど……今平気?」
「全然平気」
電話の向こうの相手は、気持ちよく返事をしてくれた。
さっきまでずっと考えていたことを反芻しながら、口にする。
「お兄さんみたいな人って、もしかして珍しくないの?」
このマンションを借りるとき、力になってくれた知り合い。
お兄さんがここの持ち主だから、と笑って言った。
1LDKで、そこそこ立地もいい部屋なのに家賃はかなり安い。
感謝してもしきれないと思った私に、知り合いは見返りを求めなかった。
出会いは千載一遇。
大切にしたいからと、親身になって私の話を聞いてくれた。
昼間、酒田さんは、家は裕福だけれど大地さんは別口で稼いでいると説明してくれた。
――個人投資家。
私には想像がつかないくらい、未知の人。
だけど、知り合いの口からその職業を聞いたことがあった。
『株で儲けてる無職だよ、あんなの』
知り合いは軽々しくそう言った。
でも、株って大変なんじゃないだろうか。
そこら辺は分からない。
元手があれば誰でも始められるのだと言っていた。
「いきなりだね」
「うん。なんか、知り合いのお兄さんがやってるらしくて……」
「へぇー、うちと同じじゃん」
「そんなにたくさんいるものなの?」
「流行ってるからじゃない? ま、成功する人なんて一握りだけど」
「……最近になって、慌ただしく色々なことがあって」
「あ! 本題はそっちだ?」
明るい声で笑う知り合いに、ふっと口元が緩んだ。
いきなり急展開を迎え、私の気持ちが追いついていない。
話を聞いてほしかったのもある。
それだけじゃなく、半年に一回くらいは近況報告の連絡をするようにと言った知り合いへの報告も兼ねていた。
「彼氏が、できた」
「どんなやつ?」
「年下でまだ学生。一年ダブってる」
「イケメン?」
「……まぁ、多分。イケメンだとは思う」
留年したことに、知り合いは何も言わない。
学歴で人を判断しない人だからだ。
大学へ行けなかった私も、そういうところを気にしない知り合いには当初から好感を持っていた。
「やるじゃん。それで?」
「彼氏の就職が決まって、なんでか私の就職先も同じところになるかもしれない」
「うんうん」
「今の彼氏に会ってから、なんか色々変わったんだ」
「変わった?」
「いい子でいなきゃと思わなくなった」
「もしかして……不安?」
「……うん、ちょっとだけ。こんなに楽しくていいのかって。今までのこと考えたら、何かありそうで怖い」
家族のこと。
仕事のこと。
自分の考え方や、不器用な生き方のこと。
今までずっと抱えていた荷物が、みーくんと出逢ってから少しずつ軽くなった。
劇的に変わった環境が怖くて、不安になってしまう。
知り合いは唸るような声を発した。
数秒してから、言葉を紡ぐ。
「鈴子はコンプレックスが多過ぎると思う。何かにつけて考え込むじゃん?」
「うん」
「こうやって考えてみて。幸せが遅れてやって来た」
「何そのポジティブな考え方」
思わず笑ってしまう。
天真爛漫な知り合いらしい考えで、可愛い。
「詩音ちゃんのこととか、鈴子とたくさん話したけどさ」
「うん」
「もし自分が鈴子だったら、今の鈴子みたいになれないと思う。……生活環境もあっただろうけど、もっとグレてたんじゃないかなー」
「――でも、私も結構グレてるような気がするけど」
「鈴子なんかまだまだ。普通はさぁ、もっともっと卑屈になって、家族とすでに縁切ってるかも」
「今の私の状況も、そんな感じじゃない?」
「いや、鈴子は向き合うつもりでいるから違うね。……いつかは向き合うって心構えしてるから、凄いと思う」
しみじみ言われると照れ臭い。
だけど、家族との血の繋がりは切れない。
いつか必ず向き合わなくちゃいけないのは、誰しも同じことだと思う。
凄いと言われるほど、褒められたことじゃない。
でも、知り合いはそれを褒めてくれる。
「ご褒美だって、考えよう。今まで鈴子が胸に抱えてきた心配とか不安とか妬みとか、もういいよって神様が言ってるんじゃない?」
「いきなり神様出てきたね」
「都合がいいときだけ出てくる神様ね。鈴子はよく頑張った! 今の幸せはご褒美。だから……」
――心配しないで幸せになれ!
胸につかえていた不安が、溶けていくような気がした。
誰かに聞いてもらうことで、こんなにも気持ちが軽くなる。
意固地になって話さなかったことは、たくさんある。
それでも知り合いは、いつも笑い掛けてくれた。
詩音が障害を持っているとしか話さなかったあの日から。
ずっと変わらず、距離を保ちながら。




