第58話 一緒に住んでも、いい
「ねぇ、鈴子」
「……うん」
「授業参観、間に合わなくてごめんね」
小学生のときの話だ。
海と詩音の間に生まれた私は、いつも授業参観の時間がかぶっていた。
問題を起こさないか冷や冷やした海と、成長を見るのが嬉しい詩音。
普通に過ごす私。
ある意味、私の授業は見なくても大丈夫だという安心があったのかもしれない。
「……大丈夫。もう、いいから。前のことだし」
「水族館も行きたかったよね……」
詩音が嫌だとごねて、行けなかった水族館。
今でも鮮明に覚えている。
「鈴子に甘えて、いつも無理させてたの。思い返してみたら……お母さん、情けなくなった」
「いいから。もう終わったことだし」
これ以上、掘り返さないでほしかった。
「寂しかったよね……」
何で、今さら。
「もう言わないでっ……!」
大声を出したせいで、詩音はぱっちりと目を覚ましてしまった。
ああ、失敗した。
さっきまでは落ち着いて話せたのに、みーくんがいなくなったらすぐこれだ。
和解なんて冗談じゃない。
昔のことを全部許せるわけがない。
見せたくなかったのに、言いたくなかったのに。
どうして終わらせてくれないんだろう。
「蒸し返さなくていい。もう終わった話はいいから。聞きたくない」
「鈴子……」
「謝ってもらっても、戻ってこない。取り戻せるものじゃないから」
「それが鈴子の本当の気持ち?」
「言いたくないから黙ってたのに、前の話を持ってこないで……」
悲しそうに歪んだ母親の顔を見たくなかった。
だけど、目を逸らせなかった。
もっと言え、と言わんばかりに母親は私を見つめている。
何で聞きたがるんだろう。何で知りたがるんだろう。
いい子が好きなんじゃなかったの?
溢れ出る感情は、決して明るいものばかりじゃない。
「泣かせたら、いけません。……姉ちゃん泣かせたらいけません!」
身体を起こした詩音は、母親の腕を引っ張りながらそう言った。
真摯な眼差しが、私を責めるように向かってくる。
詩音は私を守りたいだけなんだと分かっている。それなのに、その目が強く私を責めているように感じた。
「――私のせいだって、思ったよね。お母さん、詩音の事故は私のせいだと思ったでしょ?」
「……まったく思わなかったって言ったら、嘘になる」
「実際そうだよ。私のせい。私が……詩音を見てなかったから、連れて帰らなかったからそうなった」
「それは……」
「分かってる。海も悪い。事故を起こした人も悪い。だけど、私は……」
言い淀んだ。
この先はきっと、言ってはいけない。
だけど母親は、堪えるように待っている。
泣きそうな顔をした詩音も視界に入る。
ずっと根深い問題だから、簡単に解決なんてできやしない。
「……詩音も海も、大嫌い。ずっと大嫌いだった」
母親は静かに俯いた。
これが、やっぱり『本物』だ。
この反応こそが本物だった。
携帯だけを持って部屋を出る。
立ち上がった詩音の腕を、母親は引いて座らせた。
「みーくんとのこと、認めてくれてありがとう」
もうそれだけしか言葉が出てこない。
一人で廊下を歩き、玄関へ向かうと、暗がりの中で人影が動いた。
「だから何なんだよ。お前、鈴子のなに? 彼氏?」
「……あー……離してもらえます?」
声色で、誰がそこにいるのか分かった。
海とみーくん。
みーくんは海に腕を掴まれていた。
「……みーくん」
頼りないか細い声で呼んだのに、みーくんはしっかりと拾ってくれる。
振り返って私を見た瞳はゆらりと揺れ、次の瞬間、小さく笑った。
「りんちゃん、帰ろっか」
何も聞かない。何も言わない。
ただ告げられたのは、私にとって最善と思われる判断だけだ。
声が聞こえて待っていたのかもしれない。ただ散歩でもしようとしていたのかもしれない。
もしかしたら、海に連れてこられたのかもしれない。
だけど、ここにいる理由なんてどうでもよかった。
「うん、帰る……」
それからの行動は早かった。
みーくんを掴んでいた海の手をくるりとひねり、形勢を変える。
空いた片手で、みーくんは私に車の鍵を差し出した。
「リン、先に乗ってろ。荷物取って来てやる」
「……分かった」
玄関で靴を履き、部屋着のTシャツとズボンのまま外に出る。
本当は明日帰る予定だった。
けれど、今はここにいたくない。
母親は罪悪感があって、私に懺悔した。
私はそれを受け入れられなかった。
ただ、それだけのことだ。
――いつか。
時間が解決する日が来るんだろうか。
酒田さんのバンに乗り込み、シートにもたれて目を閉じる。
みーくんに甘えっぱなしだ。
荷物を取りに行って、みーくんは何を言うんだろう。
一番気に掛かるのは、私が傷つけられたことに対して、どんな行動を起こすかだ。
何もしませんように。
危害は加えませんように。
不安が胸に渦巻いた。
しばらくして戻ってきたみーくんは、しっかり私の荷物を持っていた。
その後ろには母親がいる。
まさか連れてくるとは思わなかった。
戸惑う私に、母親はくしゃりと泣き笑いを見せた。
「羽柴くん、娘をよろしくお願いします」
「大切にします。大事な人ですから」
これは誰だ……何者だ……。
甘ったるい笑みで頷いたみーくんは、荷物を後部座席に置いて運転席へ乗り込んだ。
母親は私に何も言わず、私もまた口を開けなかった。
遠ざかる母親の姿が見えなくなった頃、みーくんは黒い部屋着の前開きチャックを少し下げた。
「りんちゃん見すぎー」
「ちょっとしか見てない!」
「えー、見てたってばぁ。じーっと」
「じーっとは見てません」
「……手は出してナイよ」
「……うん」
母親のことだと、すぐに気づく。
外傷はまったくなかったし、至って普通の佇まいだった。
「ちょーっと苛めただけぇ」
「苛めた?」
「りんちゃんにしばらく連絡しないでくれってこととぉ、同棲の許可も無理矢理もらっちゃったー」
数秒間、停止。
なんで?
何でいきなり同棲することになってるの?
同棲、という言葉を反芻して、噛み砕いてから口に出す。
「……同棲?」
「そう。まぁ、だいぶオブラートに包んだけどねぇ。おっけーだから、明日から一緒住もっかぁ」
「ちょっと待った! いきなりは無理!」
「ジョーダンだけどねぇ」
「…………」
こやつ、どうしてくれようか。
焦ったり慌てたりした自分が恥ずかしい。
ちょっと期待してしまった自分も恥ずかしい。
「りんちゃんがイイなら、俺はいつでもおっけー」
能天気でだらしなく見せかけて、実は手回しが良くて懐が深い。
包容力で言えば、出会った人の中でも随一を誇る。
与えられてばかりだけど、みーくんはそう思わせないように気を回す。
だから私も、わざとそれに乗っかってあげる。
いつも一緒にいるよ。傍から離れるつもりはないよ。
遠回しにそう言ってくれるみーくんへ、私だって与えたい。
「……いいよ」
前言撤回。
早いとは思うけれど、それでもいいと断言する。
いつでも隣に並ぼうとしてくれるみーくんに、私ができることがあるなら。
「え?」
融通が利かなくて、変なところが真面目な私。
結婚には踏み切れず、同棲にも足踏みする。
そんな常識に囚われた硬い考えを捨てることで、みーくんが喜ぶなら。
「一緒に住んでも、いい」
たまには予防線を張らずに、飛び込んでみるのも悪くない。
先を見ずに決断する賭けをしてみるのも、……悪くない。
信号で止まったタイミングで、みーくんが私へ顔を寄せた。
我慢が利かなくなった子供みたいに、嬉しさを隠せない顔をしている。
「その調子で、結婚……」
「それはまだ無理」
「……」
「まだ付き合って一年も経ってないのに結婚は無理。第一、卒業すらしてないし」
「……でも、一応就職決めてきた」
「コネで決まっただけでしょ。就職が決まったからじゃなくて、就職『してから』考える」
「俺……一人だから家族が欲しい。寂しくてたまんねぇし……」
「その手には引っ掛かりません。私だって同じように思ってるよ」
「んー……手厳しいなぁ、りんちゃん」
けらけらと笑うみーくんに厳しい視線は送るけれど、本当はきっと分かってる。
何だかんだ言いながら、このまま結婚してみーくんと生きるんだって、心のどこかで予感してる。
ただ、流されっぱなしは私の性に合わない。
できるだけ堅実に。
軽過ぎるみーくんとは違って、私は石頭でいようと思う。
たまに羽目を外す程度で、お互い譲歩しながら。
「りんちゃん、来週からにしよっか」
「……今日、土曜日なんですけど」
「俺の家引き上げて、とりあえずはりんちゃんとこに住んでイイ?」
「別にいいけど……狭いよ?」
「俺が間借りするってことでー。新しく二人で住めるとこ探しとく」
「同棲するのに間借りってなに。別に家賃安いからいいよ」
「だーめ。って言うか、むしろ今月から俺がぜぇんぶ払うから。払いたいって奴に払わせとけばいーの」
「……それも男のプライド?」
「ってことで、納得してくれるぅ?」
「納得しない。折半で!」
ハンドルを切る動作が、いつもに増して色っぽく見える。
時々フロントガラス越しに目が合うと、三日月を描く口元にどうしても視線を奪われる。
どきどきするのに穏やかな、二人の時間が幸せだった。
いつか、家族と距離が縮まる。
いつか、みーくんと結婚する。
いつかの話は不確定でも、それが現実になりそうな気がする。
みーくんとなら、これから先どうにでもなっていけそうで。
元通りになることはなくても、新しいものは築ける。
そんな未来を楽しみにして。
「みーくん、……ありがとう」
「なぁんのハナシ?」
「何でもない」
最初の出逢いは予期せぬハプニングから生まれた。
それでも、こうなったことに感謝してる。




