第55話 リンしか要らねぇんだ
「結婚って……みーくん、考え足りな過ぎ。まだ若いんだから、もっと先のこと考えてよ。別のいい人だってこれから現れるかもしれないし」
「リンもまだ若ぇだろ。年はお互い様。他に相手が考えらんねぇから、早く唾付けとくに限るだろ?」
「それでもこんな急に……!」
「――心配すんな。いつでも連れ出してやれるように、準備しとくだけだ」
一体どこまで、私はみーくんに見透かされているんだろう。
安心させるように微笑んだ突拍子もない彼氏は、最大の難関をすり抜けるようにして私の人生へ滑り込む。
家族が重荷だった。いっそ1人で生きたいとさえ思った。
何もかもを忘れて、私はただ私らしく生きたいだけだった。
いつだって脳裏に蘇る。
『姉ちゃんは偉いね』という母親の言葉と、詩音の無邪気な微笑み。
父親の『何を考えているか分からない』という寂しい一言と、海から突き放された瞬間のこと。
きょうだいとは言えないくらい会話をしていない譲だって。
すべてが私の孤独を増幅させていた。
いい子でいようと、いい姉でいようとした仮面はボロボロになった。そのうち私は、緩やかな速度でみーくんの隣に並ぶようになった。
どれだけそれが嬉しかったか、みーくんはきっと知りもしない。
「……みーくん」
「なぁに?」
「早すぎる」
「まだ婚約ってカタチだけだからイイんじゃなぁい? すぐに結婚はどのみち許してもらえナイだろうしぃ」
「それでも、まだ10代でしょ」
「10代だからって、結婚を前提にお付き合いしちゃイケナイ決まり、ある?」
「ないけど、でも……」
「――リンしか要らねぇんだ。この先ずっと、一生な。今はまだ信じられなくても、数年したら分かるだろ」
真剣な眼差しは、逸らすことを許さない。
婚約だなんて、遥か遠い未来の話だと思っていた。
結婚なんてもっと先。
別れるつもりはなかったけれど、みーくんが心変わりすることを考えたら、婚約には頷けない。
恋人なら別れも覚悟できる。けれど、結婚を前提にした付き合いになったら話は違う。
第一、まだみーくんは学生だ。
子供ができたわけでもなく、結婚をしなければならない明確な理由は存在しない。
――唾を付けておく。
それがみーくんなりに歪めた言葉だと、気づかないほど馬鹿じゃない。
私のため。
私がみーくんと絶対的な繋がりを持って安心するために、みーくんはそう言ってくれている。
「リンと一緒に生きてぇ。それが俺の『望み』だ」
蕩けそうな砂糖菓子みたいな笑みを浮かべ、そう断言するみーくんに、いよいよ私は追い詰められる。
予防線を張ってばかりだった生き方が、みーくんに出逢って少し変わった。
そのままで、素をさらけ出して。
そうすると決めたくせに、いざとなったら尻込みする。
そんな自分に自嘲しながら、以前の私を思い出した。
このまま、いい顔をして猫を被ったままでいいのか。
このまま、いつまでもうじうじしたままでいるのか。
変わりたいって、思ったんじゃないの。
自分で自分を叱咤して、震えそうになる唇を開く。
『私』はどうしたい?
「みーくんと、ずっと一緒にいたい」
「リンのお望み通りに」
分かってたって顔しないでよ。
そんな嬉しそうに笑わないでよ。
みーくんが私の額にキスをした。
それだけで、じんわりほどけていく頑なな私の心は、やっぱりみーくんを欲していた。
「まずは婚約からな。挨拶、させてくれるだろ?」
久しぶりの深い霧の中で、息苦しくなっていた私の手を引き、霧の外へ連れ出してくれたのは、染めたばかりで艶やかな漆黒の髪をした、大切な大切な彼氏だった。
敵わない。
どうやっても、敵わない。
みーくんといると、私は私を忘れずに生きていける。
不思議なくらい、素直になれる。
連れ帰ったみーくんを見て、詩音は嬉しそうにまとわりついた。
みーくんはさりげなく詩音を避けながら、愛想が良すぎて寒気がするくらいに人畜無害な笑みを浮かべている。
廊下を歩いて居間に顔を出すと、お茶を運んでいた母親が気づき、近寄ってきた。
隣に並ぶみーくんを見て、にっこりと笑う私の母親。
「鈴子、どちら様?」
「……私の、彼氏。羽柴充さん」
20歳を過ぎて恋人を紹介するなんて経験は初めてで、ぎこちなくみーくんの名前を告げる。
みーくんはすかさず手にしていた紙袋を差し出し、背筋が寒くなるような王子様スマイルを繰り出した。
「――大変な時にお邪魔してすみません。鈴子さんとお付き合いさせていただいています、羽柴充です。これ、つまらないものですが……」
流暢に話すみーくんはまるで別人のようで、ぎょっとした私をスルーし、ここぞとばかりに母親へ笑いかけた。
「お付き合い……? ご丁寧にどうもありがとう。鈴子の母です。ごめんなさい、少し立て込んでるから慌ただしいけど……」
「――まだ当人同士の間ですが……結婚を前提にお付き合いさせていただいています。……今日は、僕も参列させてもらえませんか」
ちょっと待て。どこで覚えた、その台詞。
ついツッコミたくなるのを我慢して、驚いた顔の母親に気まずさを感じる。
非常識だと言われたって仕方ない突然の訪問に、みーくんは当たり前のように深々と頭を下げた。
「結婚を前提に? ……それは、あとでまた詳しく聞かせてもらいます。今は忙しいから……羽柴くんと言ったわね?」
「はい」
ためらいがちに、それでもはっきりと母親はみーくんに答えた。
「まだ鈴子の『恋人』だから、親族としては当然扱えないわ。でも、母を……鈴子の祖母を弔いたいと言ってくれてありがとう。葬儀は10時からだから、それまで居間で寛いでいて。――鈴子、少し来なさい」
そう言い残して背中を向けた母親に返事をしてから、みーくんを振り返る。
「だいじょーぶ、心配なぁい。何かあったら、りんちゃん担いで逃げてあげる」
そうじゃない。
心配なのは、母親から何か言われることじゃない。みーくんが私の家族をどう思うかだった。
母親は間違っていないし、みーくんは確かに性急だ。
だけど、嫌われたくないと思う情けないこの女心は、戸惑いを隠せず不安に揺れる。
「行っておいで」
ネクタイをきっちり締めたみーくんは別人のようで、やっぱり変わらない。
大丈夫。
みーくんがいれば大丈夫。
引き締めた私の表情を見て、みーくんは小さく笑みを漏らした。
午前8時半。
親族が葬儀場へ向かうのは9時半で、あと1時間しかない。それなのに母親は正座して、私を見つめていた。
2階の和室で向き合うなんて初めての経験で、緊張する。
気後れしているのは、やっぱり母親にいい子として見られたいから。
『鈴子』としてここで生きてきた年数が重くのしかかって、息苦しい。
「……いつからお付き合いしてるの?」
先に口を開いたのは母親だった。
答えるべく、私も顔を上げる。
「まだ……半年も経ってない」
「鈴子、それで結婚するつもり?」
「結婚はまだしないよ。婚約するだけ」
「羽柴くんは、いくつなの?」
「19歳」
「……そう」
ため息を吐いて俯く姿は、久しぶりに目にした光景だった。
現実的に考えても、10代で婚約なんて早すぎる。
それは分かっているつもりだった。
だけど、この反応を前にして、改めてそれが暴挙だと思い知らされる。
「羽柴くんの親御さんは、婚約についてどう言ってるの?」
「……ご両親はいないから。み、……羽柴くんは事実上の天涯孤独」
「そう。大学生じゃ……働いてるの?」
天涯孤独と聞いて、恐らく大学に行く費用のことを気にしたんだと思う。
母親が困惑したように続きを尋ねた。
「……まだ学生。留年して、高校3年だから」
「鈴子……」
「お母さんが言いたいことは、分かる。私も早すぎると思ってる」
「まさか、子供が……」
「できてないよ」
ほっと安堵の表情を浮かべた母親に、苦し紛れに笑みを見せて安心させる。
どう説明したらいいのか分からない。
「羽柴くんが鈴子と婚約したいって言ったの?」
「……最初に言ってくれたのは羽柴くんだけど、私もそうしたいって思った」
「ねぇ、鈴子。羽柴くんはまだ10代なのよね。これからどうなるかなんて分からないでしょう? もう少し考えて……」
「――家族が、」
「鈴子?」
「家族が、欲しかったの」
上手く説明なんてできない。
だって、言いたいことはずっと我慢してきたから。
本音なんて言わないようにしてきたから、どんなふうに伝えたらいいかなんて分からない。
だけど、今を逃したらきっと次もまた同じになる。
素直な気持ちなんて言えないままに、私は黙っていい子になるだけ。
みーくんがちゃんといてくれる。
近くで待っていてくれるから。
大丈夫。
燻っていた思いは、ちゃんと浮かんでくる。
「みーくんといると、ちゃんと泣ける。ちゃんと笑って、心から嬉しいと思えるの。婚約しても駄目になるかもしれない。結婚なんてしないかもしれない」
だけど、今は。
離れるつもりがお互いにないから。
ちゃんとした意味で繋がりたいから。
「お母さんとお父さんに認めてもらって、みーくんと将来を考えて付き合いたい」
順番を飛ばしてきたことを、母親はよく思わないと思う。
形式を守っていない挨拶に、礼儀がなっていないともきっと思ってる。
だけど、みーくんが来てくれたのは、実家に帰った私の様子がおかしいと気づいたからだ。
私を見透かすみーくんは、いつだって私を中心に考えてくれる。
会いたくて、逃げ出したくてたまらない私に、急いで会いに来てくれた。
それがたとえ礼儀を欠いた訪問だったとしても、私の心はしっかり守られている。




