第53話 拒否権はない
「『りんごなら会ったことあるから、それだけだ』」
「ごめん、まったく分からない。どういうことかもう少し詳しく」
「『こすめって何だ』」
「……は?」
こすめ? コスメ?
コスメチックのコスメ?
ハテナがたくさん浮かび上がるも、龍がどういうつもりで言ったのか考えてみる。
彼女……か、もしくは母の日……は違うか。
となれば。
「ナギサちゃんから言われた?」
「『うるせぇ』」
「うるさいってなに。もしかしてなんか照れてる?」
至極真面目に聞いたのだけれど、龍はからかわれたと思ったらしい。
ぶつりと切れてしまった携帯電話を見て、ほんの少しにやりとする。
可愛いやつめ。シスコンめ。
とりあえずメールを作成して送ってみるけれど、ナギサちゃんにはまだ早いと思う。
『子供用のコスメもあるけど、ナギサちゃんはまだ肌が綺麗だし、下手にコスメとか使わない方がいいと思う。一応、対象年齢は調べてみるね』
送信してからウェブを開き、子供用コスメについてさくさくっと調べを進める。
最低でも3歳からで、物によっては小学校低学年からのものもあるらしい。
ナギサちゃんは小学生……にしては、まだ小さいような。
何歳か聞いてはいないけれど、多分まだ保育園か幼稚園の年長さんくらいじゃないだろうか。
子供用コスメの情報にへぇ、と一人で感心しながらあんパンにかぶりつき、注意事項なんかを読み漁る。
メールを送信して間を置かず、ディスプレイは着信画面へ切り替わる。
表示された名前は、やっぱり龍だった。
「はいはい。なんか、最低3歳からで小学校低学年からのものもあるって。やっぱりおすすめはできないかなー」
「『……肌荒れするんじゃねぇのか』」
「可能性は十分にあると思う。コスメが欲しいって?」
「『口紅使いやがった』」
「あー……伊津子さんの?」
なるほど、なるほど。
半分以下になった菓子パンをひとまず置いて、ナギサちゃんを思い浮かべる。
ちょっぴり勝ち気で、おませな小さいお姫様。
化粧品に憧れているというのは、すぐに想像できた。
口紅を使って怒られたのかなぁ……となんとなく想像して、龍におねだりした姿もついでに浮かぶ。
おねだりしそうだなー、可愛いなー。
「『身体に悪ぃやつしかねぇのか』」
「いや、ちょっと待って」
そういえば詩音が欲しがったことがある。
あのときは確か――
「色つきの薬用リップがいいかも」
そうだ。
母親は、薬用リップでほんのりピンクに色づく程度のものを買って渡していたような気がする。
「『どこに売ってる』」
「ドラッグストアにあると思う。見た目が可愛いやつもあるんじゃないかな……多分だけど」
「『肌荒れすんじゃねぇだろうな』」
「ナギサちゃんって結構肌弱い?」
「『……』」
「知らないの? 伊津子さんに聞いた方がいいんじゃない?」
「『りんごしかいないわけじゃねぇ』」
「うん、伊津子さんと相談しなよ」
「『……悪ぃな』」
「いーえ。まぁ、あんまり役には立ってないけど」
話を終えて切れた携帯を見つめながら、私は仏頂面の龍の顔を思い出していた。
普段は皮肉屋で意地悪。眼差しも冷たく、ぶっきらぼう。
だけど、身内に関しては……というより、ナギサちゃんに関してはとても甘く感じる。
海とは大違いだ。
けれど、妬ましくは思わなかった。
その違和感は、恐らく自分が満たされているからだと容易に想像できる。
相変わらず自分中心な私の考え方は、あざとくて汚い。
だけど、本心から思う。
龍とナギサちゃんがいつまでも仲良く、お互いを好きなままでいてくれたらいいのに、と。
自分は拗らせてしまったけれど、二人にはこれからも仲のいい兄妹でいてほしい。
珍しくみーくんが迎えに行けそうにないからと、酒田さんを差し向けた今日。
今日こそはと意気込んで買った酒田さんへの慰労の品は、最近出たばかりのスナック菓子とおつまみ各種。
それから飲み物も三本つけてコンビニを出ると、酒田さんはバンから降りて立っていた。
煙草を吸いながら私に気づき、会釈する。
特に何事もなく、マンションへと帰り着いた。
酒田さんは私からの贈り物、もといお詫びの品に苦笑いしつつも喜んでくれた。
帰り際には、意味深な発言を残していく。
「大丈夫です、揉め事じゃないんで。決まったらめでたいですね」
それが何のことか分からなかったけれど、聞き返しても多分酒田さんは答えない。
だから、そんな言い方で私に伝えたんだと思う。
相変わらず分かりにくい高校生たちに、呆れ半分、心配半分で頷き、私は大人しく引き下がった。
帰宅してからまずシャワーを浴び、部屋着のTシャツと短パンに着替える。
リビングでサラダを食べていたとき、マナーモードを解除した私の携帯がけたたましく鳴り、着信を知らせた。
「……違った」
手に取ってディスプレイを見れば、みーくんからだと思った着信は実家からのものだった。
また海からか、それとも母親からなのか。
前者だったときのことを考えて、その電話には出なかった。
数分後、今度はメールを受信する。
『お祖母ちゃんがたった今、亡くなりました。通夜は今夜、葬儀は明日です。喪服は持ってる?』
――ああ、死んだんだ。
そうとしか思わなかった。
だけど、頭とは反対に胸の内には切なさが湧き上がる。
私の名前を呼ばなかった祖母は、結局最後まで名前を呼んではくれなかった。
実家に私が帰らなかったんだから、呼ぶ呼ばないもないだろうに。
私のことを、
『海ちゃん』『詩音ちゃん』
と呼ぶ、呆けてはいなかった意地悪な祖母。
肉体的な嫌がらせをされたわけではない。
ただ、認めてもらえなかっただけだ。
海みたいに明るくなくて、詩音みたいに愛想が良くなかったから。
いつも何かに苦しみ、いつも下を向いていた私が気に入らなかった、母の母。
「喪服……どこになおしたっけ」
重たい腰を上げて寝室へ向かう。
クローゼットの中には、黒いフォーマルスーツがクリーニングの袋を被ったまま下げられていた。
『喪服はあります。今から帰る』
この返事こそ、私が取り繕っていることを証明しているようなものだった。
母親のメールには、『帰ってこられる?』という質問がなかった。
拒否権はない。
早く帰らなければ。
手伝いをしなければ。
母親の存在が、私の胸を締め付ける。
会いたくない。
親戚にも、家族にも。
なのに私の身体はしっかりと動いて、帰省するための荷造りを始めていた。
ねぇ、みーくん。
もし今日、みーくんが傍にいてくれたら。
私はきっと帰らなかったと思う。
こんなときに都合よく現れるヒーローなんて、やっぱりこの世には存在しない。
『祖母が亡くなったから実家に行ってくるね。明後日には戻ってくる』
もしかしたら電話をしてくれるんじゃないか。
わずかに抱いた期待は、1時間を過ぎた辺りで消え失せた。
返信は、来ない。
多分、今は忙しいんだ。
酒田さんが迎えに来てくれたことで薄々気づいてはいたけれど、やっぱりみーくんに何かが起こっている。
そんなときに、タイミング悪く私はみーくんの傍にはいられない。
揉め事じゃないとは聞いたけれど、心配はやっぱりしてしまう。
マンションを出て駅に向かう途中で、眠気覚ましに珈琲を買った。
無糖の苦さを舌で感じながら、出てきた欠伸を噛み殺す。
気が重い。帰りたくない。
駄々をこねる子供みたいに、心の中の私が首を横に振る。
それなのに私の指は切符を購入するボタンを押していて、そんな自分に笑いが出た。
「えっと……次は」
表示された時刻表を見て、次の電車の乗り場と時間を把握する。
この改札を越えたら、私は前の鈴子に逆戻りだ。
そんな予感をひしひしと感じながら、切符を通して改札を抜けた。
電車に揺られ、一度だけ乗り換えて、はや1時間。
帰ってきた地元は、前と変わらず息苦しく感じる。
「……ただいま」
駅まで迎えに来てくれた父親の車に乗り込み、言葉少なに挨拶する。
前髪が以前より薄くなっている父親に気まずさを感じているのは、私だけじゃない。
父親もまた、久しぶりに会う私に気まずそうに苦笑した。
どう接していいのか分からない。
多分、父親はそう思っている。
高校生になってから、父親はふと私にこぼした。
『お前が何を考えているか分からない』
悲しそうに言った父親に、私はにっこりと笑って答えた。
『何も考えてないよ。心配しないで』
模範解答だったと思う。
それから父親は私と距離を置きながらも、表面上では優しく笑うようになった。
海みたいにはならないでほしい。
その思いは、馬鹿な私でも悟れるくらいあからさまだった。
非行にも走らない。
真面目過ぎても心配される。
わがままを言わなかったら心配になるけれど、何か言われたら面倒くさい。
詩音みたいにわがままを言わなくて、海みたいに問題児にもならない。
それが私の立ち位置で、両親にとって一番楽な模範的な子供だった。
「ちゃんと、食べてるか?」
『最近食べるようになったよ。ご飯食べないと彼氏が困った顔するから、ちゃんと食べるようにしてる』
本当のことは言えない。
心配を掛けないように、安心してもらえるように。
言葉を選びながら答える。
「……うん。食べてるよ」
「……そうか。詩音がそっちに行ったと母さんから聞いた。大丈夫だったか?」
『もう来させないで。私は深夜の時間帯にバイト入ってるから、昼間はあんまり家にいないし、疲れるから』
違う。
心配してるのは私じゃなくて、一人で来た詩音の方。
私が詩音を嫌いだと、父親はきっと気づいていない。
「来たよ。大丈夫、何もなかった」
「……なら、いいが」
沈黙した車内は、深海のように息苦しい。
言葉を選んでいたら、どうしても会話が少なくなってくる。
父親もきっと、考えながら話している。
なんて寂しい親子なんだろう。
笑顔で会話することが難しいなんて、とてもわびしく、痛々しい。
「海も帰ってきてるぞ」
どくん、と心臓が高鳴った。
嬉しさとか、ときめきなんかじゃない。
冷や汗と気持ち悪さが湧き上がる、嫌悪からの高鳴りだった。




