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透明  作者: 文月
第一部 出逢い編

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第51話 りんごは悪くねぇ

 

 ……情けない。


 小さい女の子を見ただけで、こんなふうに胸が締め付けられるなんて。


 過去を変えることなんてできるわけがないのに。


 今まで詩音にしたことを、今後一切やらないとも断言できないくせに。


「……りんちゃん」


 背後からみーくんの声が聞こえても、私はナギサちゃんから目を離せなかった。


 優しくして、笑い掛けて、一緒に遊んであげるべきだった。


 ナギサちゃんを前にして、今さら過ぎることを思った。


「どうしてなくの? いたいの?」


 ナギサちゃんは不思議そうに首を傾げて、私を見つめる。


 透き通った純粋な瞳は詩音と同じで、恐ろしい。


 見ないで、と心の中で叫んでいた過去が私の顔を歪ませた。


 頬を伝う涙を、一体どんな感情で流しているのか自分でも分からなかった。


 ただ、ナギサちゃんを見て胸が痛くなったことしか分からない。


「痛い……かな。でも、大丈夫」

「いたいのとんでいった?」

「……うん、飛んでいったよ」

「おねえちゃんだれ?」

「柏木鈴子。ナギサちゃん……だよね?」

「うん! おねえちゃん、リュウちゃんのかのじょ? だめだよ! リュウちゃんはナギサのカレシなの」


 頬を膨らませて不機嫌そうに言ったナギサちゃんが可愛くて、思わず笑ってしまった。


 まじまじと幼い女の子を見る機会なんてなくて、つい詩音を思い出してしまった。


 けれど、よく見るとちっとも似ていなかった。


「――初めまして、だね」

「はじめまして! ねぇねぇ、さかたぁ! 今日はユリこない? すずこだけ?」


 いきなり呼び捨てされたことに面食らいながらも、酒田さんがたじたじになっていることの方に気を取られる。


「おう、ナギサ! 今日はりんごだけだ! 仲良くしろよ?」

「すずこはタキのかのじょなの?」

「違うぜ。みっつんの彼女な!」

「まぁ! みつるがうわきしたの!」


 目を見開いたナギサちゃんが微笑ましくて、抱き締めたい衝動に駆られる。


 だけど、そう思っているのは私だけらしい。


 龍もタキもみーくんも、酒田さんと同じように苦笑いしているだけだった。


「渚、龍が帰ってきたの?」


 玄関から顔を出した女性は、龍の母親らしき人だった。


 目が合うと、にっこり笑みを向けられる。


 慌てて会釈して挨拶した私の手をみーくんが握り、先頭を切って玄関へ向かう龍の後ろについていく。


 買ってきたお菓子やジュースは、酒田さんが持ってくれていた。


「みつるはうわきしょうなの。ナギサのこんやくしゃだから……すずことナギサはライバル!」


 ふふんと、なぜか誇らしげにそう言ったナギサちゃんは、反対側のみーくんの手を握って一緒に玄関をくぐる。


「おはようございます。これ、りんごさ……えーと、鈴子さんからです」

「まぁ! わざわざありがとう。ごめんなさいね、気を遣わせちゃったのかしら……」


 酒田さんがコンビニ袋を玄関に置いたタイミングで、龍のお母さんらしき女性に私は頭を下げた。


「こちらこそ、朝からすみません……」


 なんて礼儀知らずだと言われてもおかしくない状況に、恐る恐る謝罪する。


「いいのいいの! 初めまして。龍の母の伊津子です。龍が無理やり連れてきたんじゃないかしら?」

「あ、いえ……違います。初めまして、柏木鈴子です」

「俺のカノジョねー」

「あら、充の? 連れてきたの初めてじゃなーい!」


 龍とは違って、だいぶ朗らかなお母さんらしい。


 ほっとして顔を上げると、龍によく似た切れ長の瞳が私を見つめていた。


「失礼だけど……学生さん?」

「いえ、フリーターです。コンビニでアルバイトをしています」

「あらあら。手土産なんて初めて頂いたものだから、学生さんじゃないのかしらと思って。充は……大変でしょう? もし酷いことされたら、すぐに警察を呼んでいいのよ」


 みーくん、どんな犯罪者……!


 唖然とした私に、伊津子さんは笑顔を浮かべていた。


 複雑な心境でみーくんを見ても、いつものように薄ら笑いをしているだけで、これといって表情は変わっていない。


「伊津子さん、ちょー小悪魔だからぁ、いっつも俺のコトからかうんだよねぇ」


 そういう問題じゃないような気もするけれど、とりあえず突っ込まないでおこう。


「どうぞ、鈴子さん。上がって」

「あ、はい。お邪魔します」


 さっさと私を置いて上がった龍とタキは、振り返ってこっちを見ていた。


 タキに至っては、私と伊津子さんのやり取りをにやにやしながら聞いている。


「いっちゃん、りんごはツンデレって種族なんだぜ!」

「まぁ!」

「いや、あの、違います! そんな種族じゃないです……」

「あら、そうだったら……また嘘ついたわね」


 すかさず否定した私に伊津子さんは驚き、タキを睨む。


 あっけらかんとしたタキは、いつものやり取りなのか、まったく悪びれていない態度で伊津子さんに笑った。


「リュウちゃん、きょうはなにする?」

「……朝メシ食ったのか、ナギサ」

「たべた! おままごとがいい! ナギサはつまよ!」

「妻ってお前な……俺が夫になんのか」

「そう!」


 みーくんから手を離し、龍に抱き上げられたナギサちゃんは、とてつもなく優しい顔をする兄におままごとを提案していた。


 なんだこの甘ったるい空気……。


 ついていけていない私に、伊津子さんはお茶目に目を細めて台所を指さした。


「鈴子さん。朝ご飯まだかしら? よかったら龍達と一緒にどうぞ」


 タキもみーくんも当たり前のようにテーブルにつき、伊津子さんからご飯をよそったお茶碗を受け取っていた。


 朝食の準備はすでに済んでいる。


 新しく私のお茶碗とお箸を出すだけで、改めて手間が掛かる様子はなく、恐縮していた私は少しだけほっとした。


 ナギサちゃんはおままごとの準備をすると言って二階へ上がった。


 食卓には龍とタキ、私とみーくん、それから酒田さんの五人が座っている。


 手伝いを申し出ても、伊津子さんは気にしなくていいと微笑んでくれた。


 さすがに厚かまし過ぎると内心ひやひやしていた私に気づいた龍は、「余計なこと気にすんじゃねぇ」と言った。


 けれど、実際に迷惑を掛けている相手は龍じゃなく伊津子さんだ。


 それでも伊津子さんは鼻歌混じりにキッチンへ立ち、その表情から迷惑という感情は読み取れなかった。


 並べられたおかずは、玉子焼きとサラダ、味噌汁に佃煮、塩鮭に明太子と豊富でびっくりした。


「充」

「はぁーい」


 キッチンにいる伊津子さんからみーくんが呼ばれ、みーくんは席を立つ。


 それを待っていたかのように、龍は私を見て口を開いた。


「悪くねぇ」

「……なにが?」

「りんごは悪くねぇ」


 本当に高校生かと疑いたくなるような低い声には、お父さんみたいな威厳がある。


 龍は理解していない私に、続けざまに言った。


「美崎」

「……あ、うん」


 言われて何のことか思い出した私に、ため息がこぼされる。


 美崎が言った『みーくんがお前のせいで変わった』という言葉は、私にショックを与えるには至らなかった。


 けれど、龍は心配してくれていたらしい。


 大体、変わったのは女関係だけで中身は変わっていないのに、美崎は何を思って変わったと受け取ったのだろう。


「おーい、何の話してんだよ」


 タキの不思議そうな顔を一瞥して、龍は短く答えた。


「……美崎がりんごに仕掛けてやがった」

「はっ!? ヤバいんじゃねーの?」


 聞いた途端に目を見開いたタキと酒田さんに、意味が分からず首を傾げる。


「みっつんに言ったか?」


 その一言で、なんとなく悟る。


 そういえばまだ言っていない。


 特に何も起こらず事なきを得たのだから、改めて言うほどでもないような気がしていた。


 だけど、タキがこういう反応をするということは、言った方がいいのかもしれない。


「りんごにとってそれが『大したこと』じゃねぇなら、別に言わなくていいだろ」


 龍からクールに切り返されて、そんなものかと思う。


 けれど、タキは納得していなさそうに眉を寄せるだけだった。


 さて、その真意は何だろう。


 ぼんやり考えながら、龍が言った意味を反芻する。


 私が大したことだと思っていないなら、言わなくても構わない。


 つまり、自分の意思で判断すればいいということだ。


 けれど、タキはそれに納得していない。


「私が言ったら、みーくんってどうすると思う?」


 単純に考えるなら、うぬぼれではなく、みーくんは美崎を害するだろう。


「美崎潰すだろーな」


 あっさりと言ったタキに、私も浅く頷く。


 そうなるだろうな、と思うのは、今までのみーくんを見ていれば簡単に分かる。


「龍は、私が大したことだと思ってないなら、余計なこと話して新しい火種を作るなって思ってる?」


 ぴくり、と龍の眉が動いた。


 多分、龍はみーくんに無駄な喧嘩をさせたくないんだと思う。


 片付いたばかりの都波の問題を蒸し返す真似は、今するには危な過ぎる。


 美崎を追撃したことで、下手をしたら警察にも勘づかれる。


 私だって、みーくんに喧嘩をさせたいとは思っていない。


 みーくんの無鉄砲さは、いつか身を滅ぼすだろうとも思う。


「私が『気にも留めてない』ことを、みーくんはどうこうしないと思う」

「違ぇ」

「え?」

「ミツルがヤりてぇと思ったら、りんご関係無しにヤんだろーが」

「俺も自分の女が手ぇ出されたら、黙ってらんねーと思うぜ」

「同意です」


 タキと酒田さんまでもが龍に同意して、何度か頷く。


 つまり、私が気にしていなくても、みーくんは気にする、と。


 簡単に言えば、そうなるのが面倒だから黙っておけ。


 龍は暗にそう言っているらしい。


「っていうか、龍見てたんだ」

「最初からな」

「……」


 早く助けてくれたらいいのに。


 なんて思ってもみるけれど、まぁそれは気にしないでおこう。


 みーくんは彼氏だけれど、龍は友達だ。


 彼氏でも彼女を見捨てる奴はいるんだし。


「でも、都波は負けたんだし、美崎には私もう会わないよね?」

「関係ねーだろ。自分の女がヤられたら、ヤり返しに行くもんだろ?」


 あっけらかんとタキはそう言う。


 けれど、その高校生の『当たり前』は私の当たり前じゃない。


 酒田さんも頷いている辺り、男の子にとってはそれが普通なのかもしれない。


 だけど、片が付いたばかりなのに掘り返すような真似はしないだろう。


 現に龍は、それを危惧している。



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