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透明  作者: 文月
第一部 出逢い編

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第38話 それを抱えてたから

 詩音は顔の半分を大きく腫らして帰ってきた。


 普段とは違うその顔に、背筋がぞっとしたのを覚えている。


 しばらくは自宅でゆっくり休むことが決まり、詩音は母親に手厚く看護された。


 いつも海と譲、詩音に忙しかった母親は、さらに輪をかけて私を見なくなった。


 きっと、心の中では思っていた。


『お前のせいだ』


 私が詩音と一緒に帰らなかったから。


 私が海に押し付けて、一人で帰ったから。


 自由気儘で奔放な海が、素直に詩音と帰るわけがなかった。


 自己中心的な海が詩音を連れて帰る保証なんて、どこにもなかったのに。


 だけど、母親も父親も私を責めなかった。


 何も言わなかった。


 ただ、詩音しか眼中になかった。


 海はきっと、持ち前の能天気さで『怒られなくてよかった』くらいにしか思っていなかった。


 小学生だから。子供だから。


 そうやって考えられる。


 なのに私は、嫌になるくらい早熟で、一方では子供らしさが欠けていた。


 そのせいで、詩音を自分が事故に遭わせたのだと気づいた。


 小学生らしからぬほど大きな罪悪感を抱えるようになった。


 もっと気持ちが子供だったら、そんなことを考えずに済んだと思う。


 だけど、母親に関してだけは別だった。


 考え方は早熟でも、感情だけは子供だった。


 だから、思った。


 私のお母さんを、これ以上取らないで。


 今日は何があった? って聞いて。


 どんなことをしたの? って興味を持って。


 お母さん。

 ねぇ、お母さん。


 私はお母さんの子だから、お母さんにたくさん話を聞いてほしい。


 詩音が事故に遭ったとき、あんなに後悔して泣いたのに。


 あんなに、ごめんって思ったのに。


 幼い感情に支配され、私はまた詩音を嫌いになった。


 早熟だったから、自分が事故を起こしたと罪悪感を抱えた。


 そのくせ、釣り合わない幼い心は、母親を取られた寂しさで染まった。


 ちぐはぐな考えと心が混ざり合い、私は醜い狂気を抱いた。


 それは、子供だからこその、恐ろしいくらい真っ直ぐな狂気。


「詩音が事故に遭って、その瞬間はすごく後悔したのに、一週間もしたら、そんな後悔より母親を取られたって恨みの方が強くなった」


 確かに、人間は忘れる生き物だと思う。


 だけど私は、実の妹を事故に遭わせておいて、すぐにそれを恨みに変えた。


 純粋なヒロインには、決してなれない。


 こんな話をしたら『お前は最低』だと、世間一般でも非難されると思う。


 だから千歳ちゃんに言った。


 みーくんと千歳ちゃんは相容れない。


 だってみーくんは――


「――それで、続きは?」


 私ときっと、似てるから。


 その事件だけなら、『お前って最低だな』程度で終わるかもしれない。


 人によっては『それは君のせいじゃない』なんて、慰めすら言うかもしれない。


 だけど、これは私の『狂気』の始まりに過ぎなかった。


 詩音が事故に遭ったあと、それから一年が過ぎても、私は詩音を好きにはなれていなかった。


 罪悪感に上塗りされてしまった嫌悪感。


 その根にあったのは『羨望』だったと思う。


 二回目の狂気は、ふいに訪れた。


「公園に一緒に行ってあげて」


 母親に言われ、駄々をこねる詩音を連れて公園へ向かった。


 詩音は身体を動かすことが好きだった。


 ジャングルジムに上る詩音が落ちないよう、私は後ろから支えるようについていった。


 一番上で、にっこりと笑って喜ぶ詩音。


「姉ちゃん、てっぺん!」

「……うん」


 抱き締めて、頭を撫でてあげたい。


 詩音によく上れたねって言いながら、笑ってあげたい。


 本当は、大袈裟なくらい褒めてあげたかった。


 だけど、それを邪魔するのは、母親を独占している詩音への嫌悪感と意地の一部。


 褒めたら負け。


 そんな意地で口を閉ざす。


 だけど、表情にはにじんでしまう。


 詩音すごい。上るの上手。


 そんな嬉しさが唇をゆっくり動かし、私はきっと笑っていた。


 それを見た詩音はさらに嬉しそうに笑って、得意げに片手を離す。


 危ないよ、と言おうとした瞬間。


 頭に浮かんだのは――


 ――落ちたら、どうなる?


 木の葉が揺れた。


 ざわりと風が吹き、私は自分の考えにぞっとする。


「姉ちゃ……」


 一瞬のことだった。


 詩音の身体が傾き、私の視界から消えた。


「い、や、イヤ、いやああぁぁッ!」


 怖くなった。


 急激に、自分が恐ろしくなった。


 落ちたらどうなるんだろうなんて考えて、私は詩音が手を離したことをすぐには咎《とが》めなかった。


 そんな想像を一瞬でもしてしまった自分が、たまらなく怖かった。


 詩音が落ちたあと、私は真っ青になりながらまた思う。


『ごめんなさい、ごめんなさい』


 後悔したのはこれが二回目。


 そして、それもまた別の感情に上塗りされていく。


 感情の起伏が激しい子供そのもので、後悔してはまた恨んだ。


 成長を喜んでは、劣等感と孤独を抱いた。


 ドン引きなんてレベルじゃない。


 私は確かに、詩音が危険になる可能性を見過ごしていた。


 そうなることを想像しながら、実際にそうなれば後悔した。


 大好きで、守りたくて、抱き締めたかった。


 なのに、寂しさと意地はその上をいく。


 たった一人の妹を、愛しながら憎んでいた。


 思いは紙一重で、急に切り替わる。


 これを誰が許せるだろう。


 ハンディキャップを抱いた妹に、私はなんてことをしたんだろう。


 ――消えてしまえばいいのに、とさえ思った。


 それも、一度じゃない。


 怖くなって逃げたのは、きっと自分に対してだ。


 詩音から離れたかったんじゃない。


 本当は――


 ――狂気を抱く自分から離れたかった。


 だから、家族と離れることを選んだ。


 詩音だけじゃない。


 きょうだいがもし危険な目に遭おうとしても、私はきっと見過ごしてしまう。


 そうなってしまえばいいのにと思いながら、実際にそうなったら後悔する。


 だけど、後悔したからといって、次の危険を防ぐ気になれるとは限らない。


 私に秘められた、常識を越えた感情こそが問題だ。


 みーくんは私を見抜いていた。


 汚い、薄汚れた私に気づいた。


「普通だから、孤独だった。なのに、笑えるよね。きょうだいの中で私が一番普通じゃなかったなんて、誰も気づいてない」


 見せなかった、見せられなかった一面は、きょうだいの誰より恐ろしい。


 我慢して自分を押し込めた結果、抱いたのは醜い感情。


 誰よりも欲に忠実な、とても卑しい人間だ。


 誰だってきっと仮面をつけている。


 だけど、その裏側にあるものまで、いつも綺麗なわけじゃない。


 私が恐ろしいと思うのは、自分では何もしないまま、誰にも咎められない場所で感情だけが膨らみ続けることだった。


 私は直接何かをするわけじゃない。


 何かが起きたら後悔する。


 そして、時が経てば忘れてしまう。


 当たり前の感情だからこそ、それがとても恐ろしい。


 忘れないように。


 せめて、自分が醜いということを忘れないように。


 私は詩音にしたことを刻み込んだ。


 反省しているから忘れないんじゃない。


 お前はこういう人間なんだと、何度でも自覚するために忘れないんだ。


「……みーくん。引き返すなら、今がチャンスだと思う。これは私の素直な気持ち。この話に、嘘はないし取り繕いもない」


 これが『私』なんだと思う。


 後悔したのも本当で、見過ごしたのも本当だ。


 恨み、悩み、喜び、忘れ。


 すべてが私の本物だ。


 大嫌いだけど大好きで、ぐちゃぐちゃに入り交じったそれに嘘はない。


 だから、私は――


 ――ジョーカー(愚か者)なんだよ。


 長々と話していたせいで、すでに昼前になっていた。


 こんな女、手に負えなくても仕方ない。


 とても愚かで救いようのない女だと、自分でも思うくらいだ。


 いい子にならなくてもいいと言ったみーくんは、こんな人間臭い女を受け入れられるんだろうか。


 指先を見つめて口を閉ざす。


 こんなに正直に話すのは、初めてだった。


「んー……もしあのとき大きな事故になってたら、どうしてた?」

「……分からない」


 詩音が無事だったのは、本当に偶然だったと思う。


 事故のときも、ジャングルジムのときも。


 それでも、その後も私は何度か詩音の危険を見過ごしている。


 子供だったから、なんて理由だけでは片づけられない。


「まぁ、ある意味一番タチが悪いよねぇ。自分で手を出したわけじゃないしぃ?」


 もしかしたら詩音が危ない目に遭うかもしれない。


 そう分かっていながら、何もしなかった自分。


 『そうなったら』と確かに思った自分。


「……うん」


 その考えが、生き方が、とても愚かなものだと分かっているのに変われない。


「だから、俺に会ったんだろ?」


 どんなことを言われても、自分は自分だと開き直ったふりをした。


 本当は怖くて仕方がないくせに、強がったまま自分のことを語った。


 みーくんが発した言葉に、反応が遅れる。


 ――今、私になんて言った?


 顔に出してしまった私を見て、くつくつと笑うマイペースな彼氏。


 聞き逃したというより、耳を素通りした言葉をもう一度聞こうと問い掛ける。


「ごめん、もう一回言って」

「――だから、俺に会ったんだろ?」


 純粋に、穏やかで優しいだけの、含みのない笑顔。


 みーくんはそれを向けて、首を傾けた。


「『それ』を抱えてたから、リンは俺に出逢ったんだろ」

「……どういう意味?」

「リンが持ってるその感情を俺がもらうって言っただろ。そのとき、俺はリンの話をまだ聞いてなかったし、知らなかった」

「うん」


 みーくんが私に『それ』を言ったのは、この話をするずっと前だ。


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