第36話 俺の原点
「……みーくん、クラシック好きなの?」
「んー……俺は聞かないけどぉ、なぁんか槙原がクラシック好きなんだよねぇ。別のCDもあるよ?」
槙原さんの人となりがさらに分からなくなってきたけれど、まぁ趣味は人それぞれだし、気にしないことにした。
みーくんが出してくれたジッパーで開けるタイプのケースは思ったより重く、中にびっしりCDが入っているのだと予想できた。
案の定、中はいっぱいだった。ジャンルもばらばらで、種類はさまざまだ。
アニメ、ロック、ポップス、オルゴール、演歌。雑多に詰め込まれた中から、比較的無難なポップスを選ぶ。
「これにする。入れてもいい?」
「どーぞー」
ハンドルを握るみーくんはいつもより格好よく見えて、その雰囲気にどきりとする。
こんな一瞬の間にも、私は嫌でも自覚させられる。
みーくんのことが気になっている。好きになりかけているのだと。
恋に落ちた、なんて劇的な表現はまったく当てはまらない。ゆっくりとしたものだけれど、確実に私は恋愛の方へ転がっているのだと思わされる。
流れ始めたポップスは、明るくもあり可愛らしくもあった。
女性歌手が歌っている、甘酸っぱい恋の歌。
それをおざなりに聞きながら、盗み見るようにみーくんを横目で見つめる。
「なぁに? なんかついてる?」
「……気づくの早いね」
「そりゃあ愛しのりんちゃんから向けられた視線だしぃ? 俺が気づかないわけないじゃーん」
「……それより、どこ行くの?」
「んー……どこだと思う? ヒントはねぇ、俺の原点」
「生まれたところ?」
「ちょーっと違うかなぁ。でも、近いかな」
「みーくんはヒントが分かりにくい」
ふてくされて聞くのを諦めた私に、みーくんが楽しそうに笑いかけた。
意地悪極まりないその笑みにため息を吐いて、俯く。
思い出してみれば、みーくんはあまり自分から自分のことを話さない。私も聞いたりしなかった。
結局のところ、私がみーくんを知らないのは、半分くらい語りたがらない本人のせいでもあるかもしれない。
そんなふうに責任転嫁しながら、指先を見つめた。
黙っていても居心地が悪くないというのは、とても楽だ。
無理にその場を盛り上げなくても、運転手の顔色をうかがわなくてもいい。その環境が私に安堵をくれた。
車が停まるまでの間、私たちはほとんど喋らなかった。
「ここ、誰の家?」
車が停まったのは、屋敷と呼んでもおかしくないほど大きな家の前だった。
みーくんは屋敷を囲うブロック塀の近くでハンドルから手を離し、シートにもたれてひと呼吸つく。
それから、静かに口を開いた。
「俺の父親の家、だって。会ったことはないけどねぇ」
ぽつんとこぼされた言葉の意味を、頭の中で咀嚼する。
会ったことがない父親の家。
「――母親は2年前に死んでる」
真面目な顔でフロントガラスを見つめながら、みーくんはゆっくりと話し始めた。
だけど、私の方を一切見ない。
「母親は浮気相手だったんだろうな。直接聞いたことはねぇけど」
「……浮気相手?」
「そう。だから、父親の方は俺を認知してない。事実上は父親でも、戸籍じゃ父親はいないことになってる」
婚外子。
生い立ちの片鱗は、私が尋ねるより先に目の前へ散らばった。
「金だけは毎月振り込まれてる。だから、別に苦労はしてねぇ。その男、母親の葬式にも来なかったしな」
みーくんは『打ち明ける』というより、『説明する』ように私へ語る。
もう過ぎ去ったものだとでも言いたげな口調は、強がりなのかどうかすら悟らせない。
疑問に、疑念。
どうして私に話そうと思ったのか。どうして今、話したのか。
相手が普通の彼氏だったなら、きっとこんなふうには考えなかったんだと思う。
だけど、相手はみーくんだ。
「なんで、いきなり……?」
深みにはまると抜け出せない。
そう臆病になっている私に、みーくんは何も隠さず話そうとする。それが不可解なほど、私の動揺を煽った。
「――俺が、リンに『信じろ』なんて言っても無駄だろ? これからやらないってのも、口だけじゃ何とでも言える」
「それはそうかもしれないけど」
「だったら、先手を打つしかねぇだろ」
合わされた視線が、私を射抜く。
安全圏に潜んでいた心はどくどくと脈を打ち、否応なしに引きずり出される。
目を逸らすな。耳を塞ぐな。
――話を聞け。
そう訴えかけてくるみーくんから逃げられなくなったのは、その瞳に一瞬でも願いが映ったからだろうか。
「母親は、父親に似た俺から愛を欲しがった。本当に俺が父親と似てんのかどうかは実際のところ分からない」
淡々と語られる話には感情が宿っていなかった。
経歴を語るような素っ気ない言い種で、みーくんは私に言い聞かせる。
「俺は母親を『母親』だとしか思えなかった」
1枚のパズルが徐々に埋まるたびに私の内心は冷えていく。
浮気相手だったというみーくんの母親。
顔も知らない事実上の父親。
その父親に似たみーくん。
母親とみーくんの間にある、ほんの少しのずれた違和感。
導きだされた答えのいくつかはどれも最悪なものばかりで、私はそれに目眩がした。
無感情に紡ぐ言葉の糸は、真っ黒で完成に近づかない。
出来上がるのはただの黒い塊だ。
母親を母親としてしか見られなかった。
それは懺悔のように聞こえる。
ならば母親はみーくんを。
――皮肉な組み合わせに、反吐が出る。
どちらも求めていたものは同じだった。
愛情。
だけど、私とみーくんが欲しかったのは、
「――母親は俺を、男として見てたよ」
親から授けられる家族愛だったのに。
「母親に抱けとせがまれても、俺は抱けなかった」
「みーくん」
「愛してやれなかった。あんなに頼まれたのに、無理だった」
「みーくん」
「無理矢理にでも抱いてやればよかったって後悔するときもある」
「もういい。もう分かった」
手のひらを出してみーくんの口を覆う。
言いたいことは、理解した。
抱いてくれとせがんだその母親がみーくんに傷を残したということも分かった。
拒否しないのは、断らないのは、そんな母親を思い出すから?
一夜限りでも抱いた女を本気で愛す。
それはみーくんの中にある後悔の現れ。
抱けばよかった、愛してやればよかったとそう思うから、今、懺悔する。
私がホテルの前で言った言葉に、みーくんはきっと許されたような気になった。
――だから。
みーくんは過去を憂いていない。
「……それで、私に何がいいたいの?」
過去は多分、直接関係ない。
その瞳が言っている。
これは、同情を誘うための話じゃない。
トラウマがどうとでも言う話じゃない。
乗り越えた、その先に見たものの話。
目的がある、と影を潜めている狂気が謳う。
「――俺に必要なのはリンだろ?」
無機物のように語った過去は、既にみーくんから離れている。
母親を抱けなかったと後悔しているように見せかけて、私を捕らえる籠を作った。
思い知らされたのは、みーくんの覚悟。
「――受け止めろ。俺は『最後』にリンを選んだ。それを捨てたりしねぇだろ?」
根底から覆される、常識という名の見解。
抱えたトラウマを克服できないなんて誰が決めた?
そのトラウマを利用する人間がいないなんて誰が言った?
私が持て余した愛をもらってあげると言ったから、みーくんは女を拒否する『理由』ができた。
千歳ちゃんのときと同じように、面倒くさくなった相手を追い払う『理由』に私を使う。
彼女ができたからお前を彼女にはしない。
みーくんは千歳ちゃんにそれを示した。
誘ってくる女に母親を重ねて、みーくんは断ることができなかった。……断った後に後悔するのが嫌だったのかもしれない。
だけど、そこに私は介入した。
何も知らなかったとは言えみーくんから吐き出されるはずの『愛』を奪った。
その責任を取って自分を引き受けろ、ミツルは私に言っている。
多分、意味は履き違えていない。
辿ってみれば、ふいにそれは芽を出した。
大事にすると、裏切らないと言ったあの言葉にきっと嘘はなかった。
だけど、そこに恋愛の意味は含まれていなかった。
浮気は私にとって裏切りにはならない。
それはきっとみーくんを『好き』だと自覚していなかったからだ。
今、みーくんは私に求めている。
希望と偽った命令か、懇願と見せかけた脅迫か。
「私がそれを受け入れると思った?」
「んー……『可哀想』って同情を誘うより、先回りして捕まえた方が早くなぁい?」
「……そんな回りくどくしなくても、『別れるつもりはない』って直接言ったらどうなの」
「言っても離れないって保証はナイしぃ? 直接叩き込む方が効果あるでしょー」
「それでも私がみーくんと別れるって言ったら、どうするの」
「そうできないよーにするだけ」
過去の話を私にしたのは、『別れ』を防ぐためだったんだと思う。
他の女を本気で愛して抱いたことに嫌悪した私が別れると言い出せないように、みーくんは先手を打って来た。
ある意味それは脅迫にも近いけれど、その手段を取ったみーくんにやっぱり安心したりもする。
『過去にトラウマがあるから、そうやって抱いていたのは仕方がないことだ。だから今までのことは許して欲しい。もう2度と他の女は抱いたりしないから』
そうやって同情をかって『そうだったんだ、可哀想だね』と話を持っていくよりも、『過去のトラウマに影響されて、女を抱くときはいつも本気だった。だけどお前はそれは止めさせた。俺が吐き出していた愛を奪った。だから今後はお前ひとりでその愛を受け止めろ』こう言われた方が確かに逃げられない。
懇願から、脅迫へ。
みーくんらしいやり方は変に同情を誘うよりもよっぽど私の中に響いた。
それと同時に、答えはもっと単純でよかったのだと気づいた。
――それでも、綺麗だと思うか?
――思わない。そんな人は嫌だから、もうしてほしくない。
多分、それがみーくんの求めていた答えだったんだと思う。




