第34話 それでも、綺麗だと思うか
眠たくなると体温が上がるのは昔から。
手のひらは異様に熱くなって、眠たいのだということはすぐに気づかれた。
母親はそんな私に寝てもいいのよ、と優しく笑う。
あれは、早く寝てくれという意味だったのかもしれない。
手のかかる兄妹が他にふたりもいたから。
愛情がまったくなかったとは言えないけれど、愛されていたと自信を持って言えるほど私は鈍感でもなかったし、厚顔でもなかった。
家を出てひとりで暮らす今、こうして振り返ってみると母親のすべてがわざとらしく見えた。
昔より今の方が自分がひねくれていると気づかされる。
置きっぱなしにしていた詩音の絵は隠すように本棚の隙間に入れられていた。
きっと、目に触れないようにみーくんがしまったんだと思う。
ひとり暮らしを始めてから買ったベッドは、高級感なんてまったく感じられないごく普通のパイプベッド。
けれど、このベッドは安らぎの場所だった。
誰に買ってもらったわけでもなく、寝具一式を自分のお金で買ったからだ。
固くも柔らかくもないマットレスに身体を預けて、静かに目を瞑る。
そんな私の隣には現在、当たり前のようにみーくんが転がっていて、密着とは言えない微妙な距離で私の顔をじっと見ている。
だから自然とその視線に耐えきれず、私は目を開けることになる。
しばらく見つめ合ってはみたけれど、逸らされない視線に妙に恥ずかしくなった。
このままじゃ眠れない。
みーくんに背中を向けて再び目を瞑るけれど、後頭部に視線を感じてどうしても気が散ってしまう。
眠ることに集中できない。
仕方なく気怠いながらも口を開いて言葉を発した。
「みーくん、なに?」
「んー……? 飽きないなぁって思って」
「今は飽きて。見られてるとなんか寝れないから」
「じゃあ、楽しいハナシでもする?」
「多分、みーくんにとって楽しい話は私にとっては楽しくない」
みーくんが楽しいハナシをする、というと、ロクな話をしない気がする。
前回も恭平達の話だったし、私からすれば楽しいと言い難いものばかり。
冷たく突き放すように答えて、今度こそ眠ることに集中する。
だけど、眠ろうとすればするほどに眠気は覚めていくばかりで。
「まずはぁ、抱き締めるよねぇ。それから全身にキスして――」
いきなり話を始めたみーくんに、特に反応を示さず黙って聞く。
「愛してるって、なぁんかいも言ってあげる」
何の話? と言いたくなったけれど、このまま無視していたら寝られるかもしれないと口を噤む。
「大概はそれで、気分がノッてくるんだよねぇ」
「……」
それは、唐突な話。
「ちょーっと指先で擽ったら、その気になるしねぇ」
――女の子を、抱く話?
一体どこが楽しい話なのか、私にはさっぱり分からない。
っていうか、そんな話を聞きたくない。
「ピアス触るのが好きって子が多いんだよねぇ。だから大人気ぃ」
そういえば私もみーくんのピアスを触ることがある。
つい触れたくなるのはみんな共通らしい。
もぞりと動いた私の背中に、みーくんが人差し指を当てた。
「りんちゃん」
「……」
「キタナイって、思ったぁ?」
懺悔するみたいに人差し指はすっと背中を滑り、ふいに気づく。
もしかしたら、みーくんは私が触らないからこんな話をしたのかもしれない。
別に汚いなんてそんなこと、私は思っていないのに。
経験豊富なみーくんとそういう関係になるのは嫌だと思ったけれど、汚いとか触れたくないとかそんな理由じゃない。
自分が初体験だから経験がある相手を前にして恥をかきたくないだけだ。
なんとなく手順も曖昧で、つい敬遠してしまう。
「みーくんは、それを私に聞いてどうするの?」
「……どうしたいんだろうねぇ」
「私が汚いって言ったらどう思う?」
「泣いちゃうかもねぇ」
「みーくん」
「なぁに?」
「みーくんは、綺麗だと思う」
物理的な意味じゃなくて、精神的な意味でだけど。
私よりずっとみーくんは輝いて見える。
自分らしく生きられるって羨ましい。
上っ面だけ良くしても、きっと綺麗だなんて思わない。
もぞもぞと動いて身体を反転する。
みーくんと向かい合って、そっと身体を近くに寄せる。
首筋に額を当てて距離をゼロにした私に、みーくんの腕が回された。
「――いつも、本気で言ってる」
「え?」
「相手した女をそのときは本気で愛してる。リンのことだって頭から抜けてんだよ」
淡い思いは一瞬にして塗り潰される。
――思ったよりも、現実は残酷だ。
「――それでも、綺麗だと思うか?」
私のことを消し去って別の誰かを一心不乱に愛するみーくん。
本気で愛されて一夜の夢を見る女の子。
そんなの、きっと忘れられるわけがない。
間違いなくみーくんはその人だけを、腕に抱き込んだ女の子だけを一時でも本気で愛してるんだから。
私はみーくんの問いに答えられなかった。
それはつまり、そんなみーくんが嫌だと一瞬でも思ったからで。
私もそんな風に、今までの女の子と同じように愛される?
驚くほどに沸き上がった嫌悪感は、私の身体を硬直させた。
無言を貫いた私をみーくんは咎めず優しく見過ごしてくれた。
そのまま眠ってしまったけれど、起きたときにはもう隣に居なかった。
起床したのは午後四時で、空がほんのり薄暗くなった頃。
リビングの壁にかけてある鍵を使ってみーくんは部屋を出たんだと思う。
途中で帰るときは鍵を閉めてポストに入れておいて欲しいとあらかじめ説明していたから、多分そうしてくれた。
起き抜けの頭でポストを見たら、寂しく鍵が置き去りにされていた。
玄関でしゃがんで踞る。
抱えた膝に頭を乗せて、何も答えられなかった自分に自己嫌悪した。
一夜限りの女の子を本気で愛して抱いていたみーくんに、それでも気にしないよ、大丈夫だよ、などと言えるほど私は寛容な性格をしていない。
他の子を優しく抱きしめて、蕩けるようなキスをして、こわれものに触れるように大事に包み込んで。
一夜のコトとは言え本気で愛している。
それこそ以前のままの関係だったなら気にしなかったのに、今はみーくんに惹かれ始めている。
だから、不覚にも傷付いて何も言えなかった。
スローペースで動き始めた私の気持ちは、一番大事な最初の一歩で先を塞がれてしまう。
今日は芝原に報復するのだと言っていた。
きっとみーくんは言った通り、恭平と達哉の相手をするんだろう。
もしかしたらもう終わっているかもしれない。
のそのそと立ち上がり、玄関からリビングへと戻る足取りはひどく重たかった。
「電話、しようかな……」
だけど、電話して何になる?
みーくんが今までそうやって抱いてきた事実は変わらないし、私が彼女たちと同じように抱かれるかもしれないという不安もきっと消えない。
無性に誰かに頼りたくなったけれど、頭に浮かんだのは当人のみーくんだった。
地味に痛み始めたこめかみをほぐしてソファーに凭れる。
まさか、今になってあんなカミングアウトをされるとは思ってもみなかった。
どうしてみーくんは隠さずに私に言ったんだろう。
ぼんやり考えて痛む頭を働かせる。
――それでも、綺麗だよ。
――それでも、気にしないよ。
そう言ったら、きっとみーくんは私に幻滅したと思う。
いい子は嫌いなはずだから。
ある意味何も言わなかったのは正しかったのかもしれない。
だけど、それとは違う答えをみーくんは求めていたんじゃないのかと違和感がわずかに残ったままだ。
お腹が空いたけれど、何も作る気になれない。
ゼリーのストックはもう随分と前に切らしていた。
みーくんが一緒に食べてくれていたから、栄養補助食品なんて必要なくなっていたのだと今さらながらに気がついて思わず自嘲した。
突然ひとりになると孤独を感じる。
起きてみーくんがいないのは初めてだ。
結局ひとりで考えていても何も変わらない。
とりあえずはバイトの準備を始めようと、いつもより数倍遅いペースで動き始めた。
昨日はあんなに多かったのに、今日はそこまで多くない。
相棒の松山さんは休みで店長とふたりで業務をこなす。
雑談を交えながら深夜一時を迎えて、レジの下に置いてある雑貨の整理をしていた私に人影が差しかかった。
「いらっしゃいま……せ」
顔を上げて客の顔を見た私は表情を強張らせて固まった。
デジャビュ、これは前にも経験したことがある。
「見ーつけた。『りんちゃん』だね?」
口元を緩めて笑ったその人は、見た目は勿論雰囲気だって危険に思える。
前回の経験があるせいでそこまで驚きはしないけれど、こうして狂気を孕んだ瞳で舐めるように見られることに慣れてはいない。
「怖がらないで、何もしないよ」
レジに出されたのはミネラルウォーターの1本で、ゼブラ柄の中折れハットを被ったその人は鍔を押し上げてウインクした。
手早く会計を済ませて最低限目を合わせないようにしていたのに、シールを貼ったミネラルウォーターを差し出したらその手を上から握られた。
ごとん、と思わず落としてしまったミネラルウォーターは転がって、その人は反対の手で見事にキャッチした。
「りんちゃんは恥ずかしがり屋さんかな。照れなくてもいいよ。僕はそんなりんちゃんも可愛いと思うから……」
えーと、りん、ちゃん?
――これは。
関わってはだめな部類の人間だ。
みーくんを見たときも思ったけれど、こっちはそういう意味じゃない。
話が通じないタイプの人間だ。
美人、と称されても可笑しくないその男は流し目をして自分の世界に酔っている。
「あの、」
「どうしたの? そんなに怯えた顔をして……僕はりんちゃんを害したりしないよ」
「いや、そうじゃなくて、」
「つないだこの手がやっぱり恥ずかしいのかな?だけど離してしまったらきっと話を聞いてくれないよね」




