第30話 りんさんには敵わない
世の中の男女がラブホテルですることと言えば、一つしか浮かばないのは私だけだろうか。
グラマラス美女はみーくんを連れ、待たせていたタクシーに乗り込んだ。
ドアが閉まる寸前に聞こえた行き先は、『カーニバル』というアホみたいなラブホテル名。
なぜ私が知っているかというと、そのラブホテルは私のマンションの近くにあるからだ。
光渦ではなく芝原に近いそのラブホは、ギラギラした電飾が目印になっている。
当然、みーくんは行く前に私を見た。けれど、私はにっこり笑って手を振ってあげた。
送り出すことに不満はない。
といっても、帰りの足はなくなったけれど。
表通りを歩きながら携帯電話を取り出し、番号を呼び出す。
頼るべきは便利なお友達。
光渦高校の近くの駅までは、歩けば30分くらい掛かる。早く帰ってバイトの準備をしたい私には、そのタイムロスは少しいただけない。
「あ、もしもし? タキ?」
「『バッカ! りんご! 今ちょうどいいところだったのに、このやろう!』」
「うわぁ……タイミング悪かった?」
「『ばか! 台無しじゃねーかよ!』」
「うん、ごめん。酒田さんにお願いがあるんだけど、番号教えて」
「『酒田ぁ? それ、みっつんいいって言ったか?』」
「言ってないけどいいよ。ちょっと困ってるんだよね」
お礼はもちろんするつもりだ。
というか、お金を払ってもいいくらい。ただし、タクシーよりは安くしてもらいたいので、そこは値切らせてもらうけれど。
「『困ってんのか?』」
「うん。早くしないとバイトに間に合わなくなる。今日はちょっと早いんだよね」
シフトが微妙に前後するのは、コンビニなら仕方ないことだ。
主婦は何かと子供の行事があるし、アルバイトの人数も十分とは言えない。その点、私はフリーターだから多少は融通が利く。
「『酒田に何の用事なんだよ』」
「マンションまで送ってもらえないかなって……。今は手持ちがないから、お礼はちょっとしかできないけど」
「『はぁ? 酒田にお礼なんかいらねーよ。今どこだ?』」
「trumpって分かる?」
「『……りんご、そこから動くなよ。裏路地なんか入るな、バカ』」
「あ、でも表通りに出てるから。シェリっていう雑貨屋があるところ」
「『分かった』」
ぶちっと切られた通話に首をひねり、とりあえず携帯電話を鞄にしまう。
タキは酒田さんに頼んでくれるだろうか。少し不安になったけれど、動くなと言われたからには、多分誰かが来てくれるはずだ。
暇つぶしに雑貨屋へ入り、かわいらしい森ガール風の店員さんに会釈する。
こうしてゆっくり小物を見るのは、久しぶりかもしれない。
小人が並ぶ列をまじまじと眺め、その一つを手に取った。
赤い帽子を被った陽気な小人はタキに似ていて、つい笑ってしまう。
「これ、いくらですか?」
値札が貼られていなかったので、即決はできないけれど一応聞いてみる。
「280円ですよ。人気のシリーズで、集めている方もいらっしゃいますね」
280円ならいいかもしれない。
酒田さんには、緑の帽子を被って薄ら笑いを浮かべているやつを買っておこう。
「これ、二つください」
「ありがとうございます! 二つで560円になります」
600円を出して支払いを済ませ、店の外へ出る。
ファンシーなベージュの袋を手にして、にまにましていた私の前に、磨き抜かれたジェイドが停まった。
赤くコーティングされた車体からエンジン音が消える。
黒いフルフェイスヘルメットを勢いよく脱ぎ、ジェイドの乗り手は私に笑った。
「へい、お待ち! こんの忙しい中来てやったんだから、感謝しろよー、りんご」
ふっと切れそうになった感情の糸が、しぶとく私の中で粘る。
にかっと笑ったタキが眩しい。
震えた心臓が、今にも涙腺を決壊させてしまいそうになった。
「りんご?」
じわじわと顔の中心が熱くなる。
こんなにも簡単に緩むものだと、今までまったく気づかなかった。
「何でそんな顔してんだよ」
どんな顔だと言ってやりたい。
けれど、紛れもなく私は今、泣きそうになっていた。それを隠す高等技術は、今の私には使えそうにない。
「みっつんとなんかあったか?」
「何も。それより、ちゃんと手洗った?」
「ばっちりな! 何なら、このままどっか遊びに行ってもいいぜ?」
「いや、バイトあるから」
可愛くない言い方をしてみても、タキにはまったくダメージを与えられない。
っていうか、みーくんが怖いくせによくそんな冗談を言えたな。
感情の波を乗り越えて笑うと、タキの手のひらが私の頭に乗った。
「送ってやるから感謝しろよ? お礼は来月号のぱにぱに天国な」
「なにそれ」
「ばっか! ぱにぱに天国を知らないだと? グラビアばっか載ってる夢みたいな雑誌だぞ」
「いらない知識増やさないで」
ほらよ、と渡された白いヘルメットを受け取らず、タキが抱えていた黒いフルフェイスのほうを奪う。
何か言われる前にそれを被ると、タキは大袈裟なため息を吐いた。
「まったく……りんごはしょーがねーな」
黙ったまま後ろに跨がる。
ヘルメットを被ったタキが車体を起こし、エンジンを掛けた。
雑貨屋の袋を腕に通して、タキのお腹に腕を回す。
「出すぞー」
能天気にそう言ってアクセルを回したタキは、いつもどおりアホっぽくて少し安心した。
ジェイドは大きな音を響かせて走り出す。
風を切る感覚が心地よく、複雑に入り組んだ気持ちは徐々に薄れていった。
みーくんとあの女に嫉妬したんじゃない。
みーくんに置いてきぼりにされたことが、多分寂しかった。
それだけだ。
信号で停まったとき、タキが私に言った。
「りんご。次の休み、空けとけよ。気晴らしに行こうぜ!」
慰めようとしてくれたらしい。
そんなことをするタキが似合わなくて、おかしくなって笑った。
「……ありがとう」
そのお礼が届いたかどうかは分からない。
それでも、タキは頷いたような気がした。
途中で道を案内するつもりだったのに、タキは一度も私に聞かずマンションの前へ到着した。
案外記憶力がいいんだ、と驚く。
それは顔に出さず、お礼を言ってバイクを降りた。
フルフェイスヘルメットの中は微妙に蒸れていて、髪の毛がぐしゃぐしゃになっている。手櫛で簡単に直した。
「これ、酒田さんが来てくれるのかと思って、酒田さんのも買ったんだけど」
差し出した袋を受け取り、中を見たタキが噴き出す。
「緑のやつが酒田? きめぇ!」
「いやいや、可愛いし! 赤いやつがタキのだから」
「おう! サンキュー。みっつんと龍のはないのかよ」
「ない。っていうか、それお礼のつもりで買ったし」
「いくら?」
「一個280円」
「やっすいな! コーラもつけろ! もっと俺に貢げよなー」
「はいはい、分かったから。ありがとう。これでバイト間に合う」
「今日だけ、終わったらメールしろよ。それから、次の休みはみっつんなしで出掛けるからな」
はっきりと言い切ったタキに、眉を寄せる。
みーくんに黙っていたら、きっとタキはしばかれる。
「……怒られるよ?」
「いいんじゃねーの。みっつんも好き勝手やってたくらいだぜ?」
そう言われればそうだけど、みーくんにその言い訳が通用するとは思えない。
「私、みーくんに聞かれたら言うよ。殴られたくなかったら、やめたほうがいいんじゃない?」
「別にいい。死にはしねぇだろ」
あっけらかんと言うタキに迷いはなく、本気でそう思っているのが分かる。
出掛けることに罪悪感は覚えない。
多分、みーくんをちゃんと恋人として認識していないからだと思う。
地味に麻痺しかけている私の中では、タキとの約束は『浮気』には当てはまらなかった。
それよりも、ふつふつと浮かんだのは嬉しさだった。
タキがこうして誘ってくれる。それは、仲良くなれている証拠なんだと実感する。
「終わったら連絡するから。今日だけ」




