第25話 姉ちゃんの彼氏
「――リン?」
様子のおかしい私に、みーくんは目を見開いて肩を抱く。
指先は震え、血の気を失っていた。
「リンッ!」
耳を素通りしていく私の名前。
答えようにも喉がカラカラに乾いて声が出ない。
「あれが、そんな顔させてんのか?」
ディスプレイに映った愛らしい少女は、まるでひまわりのように笑っていた。
「リンにとってあれが邪魔な奴か? 会いたくないんだろ?」
確認するように、みーくんが私へ聞いた。
否定も肯定もできず、ただ固まったままの私に、ひどく低い声が届く。
「――潰す。待ってろ」
「っ……ちがっ……!」
「リン?」
「ちがう。私が、私が悪いから……」
「落ち着け」
立ち上がりかけたみーくんの腕を引いて止める。
何の害もないような女の子に、ためらいもなく『潰す』と言えるみーくんは、やっぱり冷酷でひどい。
だけど、いつもと違って、これは『止め』なくちゃいけなかった。
みーくんに『止めて』と言うことが、たとえ禁句だったとしても、これだけは黙ってはいられない。
だんだんと顔色が青くなる私を見て、みーくんは目を細め、背中をさすった。
「ごめん、ちょっと、行かなきゃ……」
放っておいてはいけない。
私が守らなくちゃいけない。
それだけが植え付けられたように私を急かす。
その場にみーくんを置いて、震える足を叱咤する。
迎えに行かなきゃ、危険だから。
そう言い聞かせて走り出した。
玄関のドアを開け放したまま、一番近くにあったスニーカーを履いてつんのめりながら走る。
部屋着なのに、すっぴんなのに、髪だってボサボサなのに、私は構わず先を急いだ。
エレベーターを待つ時間だって惜しい。
どうして来たのか、まったく分からない。
それでも、迎えに行く『義務』があった。
階段を駆け降り、息も絶え絶えでエントランスに出る。
その姿を見つけたあどけない女の子は、満面に笑みを広げた。
「姉ちゃん!」
お願い、見ないで。
私を映さないで。
その目で見られたら、私は自分を許せなくて吐きそうになってしまう。
どうして来たの、ねぇ、どうして。
「……詩音」
この世で一番大嫌いな、私の大事な妹。
私は無言で手を引いた。
詩音は気分よさそうに鼻歌を歌いながら、私にされるがままになっている。
エレベーターに乗って部屋に戻れば、玄関のドアを背にしてみーくんがひらひらと緩く手を振った。
「姉ちゃん!」
詩音はにっこりと笑って私の腕に抱き付いた。
目の前にいるみーくんをちらちらと気にしながら、それでも笑みを絶やさない。
「りんちゃん?」
困惑したような声音で、みーくんは私と詩音を見比べた。
ドアの前からみーくんを退かして、中に入る。
あとに続く詩音とみーくんには何も言わず、そのままキッチンへ入った。
はちみつ入りのホットミルクを作るために、ただ手を動かす。
不安そうな詩音は私にべったりとくっついて、作業の邪魔になっている。
それにも何も言わず、ホットミルクと自分のお茶、みーくんのコーヒーをトレイに乗せる。三人分の飲み物を手に、リビングへ戻った。
立ちすくむみーくんと泣き出しそうな詩音を見て、ため息を一つ吐く。それから、お茶を一口飲んだ。
気を緩めたら、ここで暴れたくなるくらい頭はひどく痛んでいた。
「何でここに来たの」
思ったよりもずいぶんと低い声が出た。
詩音は弾けたような愛らしい笑みを浮かべて頷いた。
「電車できました!」
「……ごめん、言い方を間違えた。どうやってここを知ったの?」
「お母さんと車でなんかいもきました!」
「それはいつ頃の話?」
「ちょっと前です!」
ハキハキと答える詩音に、みーくんが目を見開く。
驚いている理由は分かっているけれど、それを説明するよりも先に詩音を帰さなくちゃいけなかった。
「どうして来ようと思ったの?」
「姉ちゃんお誕生日です!」
「……そうだね。祝おうと思って来たの?」
「はい! お祝いをするので来ました!」
「ありがとう。お母さん呼ぶからちょっと待って。お祝いはまた今度」
淡々と詩音に告げる私は、冷たい姉にしか見えなかった。
寝室にある携帯を使うために立ち上がる。
「動かないで座ってて。この人にも話しかけないでね。ホットミルク……これは飲んでいいけど、こぼさないようにテーブルに近付いて。それから、私がいいって言うまではお口チャックしてね。おしゃべりはしない、いい?」
ゆっくりと言い聞かせるように詩音に説明して、念のためにみーくんにも告げておく。
「みーくん、詩音に話しかけないで。それから、みーくんもその場から動かないようにして」
何か言いたげな顔をしながらも、頷いてくれたみーくんにホッと安堵して寝室に向かう。
タキから連絡が来て落としたままだった携帯を拾い、母親へ電話をかけた。
「もしもし? 何で詩音がいるの。早く連れて帰って」
開口一番、責めるように言った私に、母親は電話の向こうで笑った。
「『お祝いしたいって言うから……気が済むまで付き合ってあげられない?』」
「無理だから。お願いだから早く連れて帰って!」
「『3時まで予定があるから、その後に迎えに行くわ』」
「だから無理だって!」
「『悪いけど、お願いね』」
「お母さん!」
勝手に話を切り上げられて、無情にも通話は終わった。
いつもいつも詩音ばかり。詩音さえよければそれでいい。
私の都合なんて考えもしない母親に、怒りと悲しみが胸を巣食う。
こんなことになるなら、みーくんを早く帰せばよかった。
後悔ばかりが押し寄せて、目尻がじんわり熱くなる。
泣いてる場合なんかじゃない。
くじけそうになる気持ちを奮い立たせ、携帯片手にリビングへ戻る。
「姉ちゃん! みーくんは、だれですか!」
詩音に聞かれて気づく。
そういえば、私が詩音の前で『みーくん』と呼んでしまっていた。
にこにこしながらこちらを見る詩音とは対照的に、みーくんは難しい顔で考え込んでいた。
「みーくん」
「なぁに?」
「悪いけど、今日は帰って」
平静を装って言うと、みーくんは何も言わず頷いた。
みーくんが立ち上がると、詩音も慌てて立ち上がる。
「みーくんですか! なにが好きですか? 詩音は姉ちゃんの牛乳が好きです!」
「え?」
「詩音!」
詩音に腕を掴まれたみーくんは、ぽかんとした顔で詩音を見る。
焦って名前を呼んだ私には、詩音は見向きもしない。
「詩音は姉ちゃんの妹です! 18歳になりました! 今日はお祝いにきました!」
矢継ぎ早に話す詩音は、楽しそうに顔をほころばせていた。
――見ないで。
どうしていいのか分からないみーくんが、私へ視線を向けてくる。
その間も詩音はみーくんを離さない。
「詩音のお友だちはやっちゃんとゆきちゃんです。姉ちゃんはニンジンさんが嫌いなのでいつも残します!」
――見ないで。
話題に統一性がなく、言いたいことだけを口にする。
相手のことを考えられないその姿は、とても能天気で無邪気だ。
「姉ちゃんは詩音を詩音と呼びます! 詩音のいっている学校は花待ようご学校です」
――お願い、もうそれ以上は。
「詩音の得意なおべんきょうは算数の足し算です。姉ちゃんは国語が得意です! 18歳になったので、引き算もできるようになりました!」
――詩音。
詩音がしゃべるたび、思考が虚ろになっていく自分に気づいた。
18歳で足し算と引き算。
通っている学校は隣街の養護学校。
たったそれだけで、違和感ははっきりと浮かび上がる。
身長は162cmで、私よりも高い。化粧一つしていない顔立ちは、私より可愛い。
私よりはるかに明るい性格は、幼い頃から変わらない。
――自閉症。
詩音が私の枷になる。
とても上機嫌にみーくんへ話す詩音は、『無意識』の悪魔だ。
何も理解していないから、怒れない。
こうして私が唇を噛んだって、何にもならない。
知られたくはなかった。
詩音の存在から離れるために隣街に引っ越したのに、こんなにあっけなく私のよりどころを笑顔で奪う。
今までずっとそうだった。
彼氏ができても、必ず詩音が間に入る。
ただ『私の彼氏』だから気になっているだけで、詩音はその人と話すことに『好意や理由』を持ったりしない。
意識して姉の彼氏を奪うような、計算高い妹だったなら、きっと私は怒れたのに。
無意識な詩音は、可愛い顔で私の嫉妬を煽っていく。
何度も詩音のせいで別れを迎えた。
私との時間を邪魔され、ろくに話すらできなくなる。しゃべり出したら止まらず、出掛けようとすればついてくる。
そんなことが、別れの理由になった。
母親はそんな詩音に穏やかに笑って、『姉ちゃんが好きなのね』と言い放った。
私は詩音には勝てない。
それこそ一生、勝ち目はない。
おしゃべりな詩音は、みーくんにずっと話し掛けていた。
室内に詩音の声だけが響いて、ひたすらみーくんは黙ったまま。
反応が怖くて顔を上げられない私は、俯いたまま目を瞑った。
――もう、終わる。
楽しい時間は終わったんだ。
刻み込むようにして、自分にそれを言い聞かせた。
「――それで、なぁに?」
ひんやりしたみーくんの声に、びくりと肩が跳ねた。
何を言われるんだろうと身構える。
けれど、みーくんは思いもよらないことを言った。
「キミには悪いけどさぁ、俺だってりんちゃんの彼氏なわけ。りんちゃんは麦茶が好きで、寝てる時はたまに半目でさぁ――」
「ちょっと待った! 何の話!?」
「えー? りんちゃんのこと、どっちが詳しく知ってるかってハナシじゃなーいの?」
「どこでそういう話に……」
「姉ちゃんはアイスティーが好きです! チョコレートも好きです! 詩音は姉ちゃんのクッキーが好きです!」
「詩音!? なに対抗してんの!?」
目をきらきらさせながらみーくんに食ってかかる詩音は、嬉しそうに笑顔の花を咲かせた。




