第九章 闇夜の戦い
闇の森
闇は、味方になるはずだった。
森の入り口に立った時、ユナは目の前に何も見えなかった。月がない。星は木々の梢に遮られ、空すら見えない。ただ、前を行く者の背中の気配だけがあった。
カルラの鳥は、夕暮れとともに帰った。ここからは、鳥の目は届かない。
キランが先頭にいた。
足取りに迷いがない。枝を避け、根を踏まず、闇の底を歩くように、淀みなく進んでいく。あの山越えの時と同じだった。だが、今は後ろに二十人がいた。革鎧の擦れる音。土を踏む足の重み。誰かの喉が、小さく鳴った。
キランが、足を緩めた。
振り返らず、低い声が落ちてきた。
「歩くことは、祈りだ。わたしはここに来ることが定まっていたと、今にして感じる」
ユナは、唐突な言葉にとまどった。
「それは、道案内をしてくれただけなのに」
「師には、わたしに見えないものが見えていた。ユナが、私の体の中の糸が見えないように」
キランの声が、闇に溶けた。
それだけのやり取りだった。
ユナは、キランの背中を見つめた。見つめた、というより、感じた。闇の中では、目は役に立たない。足元の土の匂い。汗が冷えていく首筋。前を行く者の気配。枝を踏む小さな音。
背後に、セイリョウの気配がある。タクトの低い声が私兵たちに伝わっていく。「合図があったら目をつぶれ」。声は抑えられ、人の手から手へ、闇の中を這うように伝わった。
キランが、立ち止まった。
空気が変わった。
木々の隙間、遠くに、松明の光が点々と揺れている。見張りの灯り。
タクトが前へ出た。目を凝らし、闇の中に沈む建物の輪郭を、記憶と照らし合わせている。
「東だ。あの灯りの左手。囚人の施設は、あの奥にある」
低く、確信のある声だった。
二十人の足が、再び動き始めた。音を殺し、息を殺し。一歩、また一歩。
闇の底を、進んだ。
* * *
白い部屋
セイリョウが、前に出た。
拠点の外縁。見張りが二人、松明を手に、建物の角に立っている。
「目を閉じろ」
セイリョウの声が、低く鋭く落ちた。
ユナは、目をつぶった。
まぶたの裏が、白く燃えた。一瞬、熱を感じるほどの光が、闇を焼いた。
声が上がった。見張りの、うめくような叫び。
「行け」
タクトの指示が飛んだ。
目を開けた時、見張りは地面に膝をつき、両手で顔を覆っていた。松明は地面に転がり、炎がちろちろと揺れている。
私兵たちが駆け、見張りを縛り上げた。
タクトが、石壁に沿って進み、鉄の扉の前に立った。
扉は錠が降りていたが、私兵の一人が鉄梃を差し込み、力任せに引いた。金属が軋む音。錠が弾け、扉が開いた。
鉄の匂いが、流れ出した。
ユナは、足を踏み入れた。
石の廊下。低い天井。壁は白い漆喰で塗られ、松明の光が滲むように反射している。空気は冷たく、湿っている。
白い部屋。鉄の匂い。
星市の男が言った言葉。少年イルハが震えながら語った言葉。それが、今、ユナの目の前にあった。
扉が並んでいた。鉄の扉。小さな格子窓がついているものもあった。
タクトが、最初の扉を開けた。
中に、人がいた。
壁に背を預けるようにして座っている。目は開いているが、焦点が合っていない。こちらを見ているのか、何も見ていないのか、わからなかった。
ユナの足が、止まった。
糸繰り人形のようだった。
兄と同じだ、と思った。
あの朝、囲炉裏端で湯を口に運ぶ兄の姿。手は震えず、目も逸らさなかったが、何かが決定的に欠けていた、あの姿。
首筋に、傷があった。細い瘢痕が、何筋も走っている。針の跡だった。太い針を、何度も、何度も刺した跡。ここから薬を入れたのだ。ユナは、兄の首筋に見えた傷を思い出した。同じだった。
次の部屋。また、次の部屋。
焦点の合わない目。動かない体。言葉を失った口。
兄と同じ傷を持つ人々が、そこにいた。
タクトが指揮を執り、私兵たちが囚人の腕を取った。立てる者は立たせ、立てない者は背負った。
廊下の奥、西側へ続く通路の壁に、旗が一枚掛けられていた。紺色の布地に、銀糸で紋が縫い取られている。
ユナは、その紋を見た。
見覚えがあった。黒漆の鞘の鐺に打たれた、あの紋様と、同じだった。
ヒイノ国の紋。兄の荷袋から取り出した鞘と、ここが、繋がっている。
通路の脇に、棚があった。石の台の上に、白く濁った石が三つ、転がっていた。光を失った夜光石。星市の男が並べていたあの石と、同じ色をしていた。
拳を握った。爪が掌に食い込んでいる。
まだだ。まだ、ここにいる人たちを、出さなくてはならない。
ユナは、囚人の一人の腕を取り、廊下を戻った。
* * *
発覚
それは、唐突だった。
角笛が鳴った。
短く、高く、二度。続いて、叫び声。松明が次々と灯り、闇が崩れた。
「見つかった!北へ!森へ入れ!」
タクトの声が、石壁に跳ね返った。
囚人を連れた私兵が先行し、建物の陰を縫って走り出した。足の動かない者を背負い、引きずり、それでも前へ。
松明を手にした兵が、建物の間から現れた。一人、二人、五人。さらに増える。
ユナは、弓を構えた。
矢を番える。暗闘の中で、松明が的になった。
放った。
松明が弾かれ、地面に落ちた。炎が散り、闇が戻った。兵たちの混乱する声がこだまする。
もう一本。番え、引く、放つ。松明が消えた。混乱はより一層大きくなった。
「松明を射抜け」
カルラの声が、耳の奥で響いた。
セイリョウの術が再び炸裂した。目をつぶる。白い光が闇を裂く。敵の叫び声。
目を開けた時、タクトが長剣で敵兵を押し返していた。キランが、囚人を担いだ私兵に方角を指し示し、「北だ、そこを真っすぐ」と低い声を投げた。
数が多い。多すぎた。
建物の向こうから、さらに兵が現れる。松明の列が広がっていく。
乱戦の中、ユナの視界の端に、影が映った。
細い目。長身。痩せた体。
石橋ですれ違ったと聞いた男。峠道で気配を感じたあの夜の影が、重なった。
縄使いの男が、そこにいた。
追う余裕はなかった。
「森だ!撤退!」
タクトの声が、最後の命令を飛ばした。
セイリョウが殿に立ち、閃光弾とは異なる術だろうか、敵を留めている。キランがユナの腕を引き、「走れ」と言った。
走った。
建物の間を抜け、柵を越え、木々の中へ。松明の灯りが背後に遠ざかるのを感じながら、ユナは弓を背に回し、全力で走った。
* * *
撤退戦
森に入った途端、闇が深くなった。
ユナは走った。枝が顔を打つ。根につまずく。構わない。後ろに、音がある。
タクトの声が、遠くなった。
セイリョウの気配が、消えた。
私兵たちの足音が、ばらばらに散っていく。方角がわからない。木々は同じにしか見えず、闇は均質で、どこを向いても同じだった。
声が遠ざかり、やがて、消えた。
荷袋も、影も、すべてなくなった――あの朝と、同じだった。
ユナの足が、止まりかけた。
闇の中で、低い声がした。
「こっちだ」
キランだった。
闇の中にいても、方角を見失わない者。地の底にいても、わかる。その足が、ユナのそばにあった。
「キラン」
「黙って走れ」
キランの手が、ユナの腕を掴み、方角を示した。北。北へ。追手から離れる方角へ。
背後に、足音。枝を踏む音。松明の光が、木々の間を縫って揺れている。追手が、森に入ってきていた。
走った。
キランが先を行き、ユナが続く。足元が見えない。根を踏み、石に当たり、枝を払い、それでも走る。息が上がる。喉が焼ける。足が重い。
だが、キランの気配は消えない。闇の中で、唯一の道標だった。
どれほど走ったか、わからなかった。
背後の足音が、少し遠くなったのを感じた頃、キランの歩みが、鈍った。
速度が、落ちた。
ユナは、最初、気づかなかった。キランが、深手を負っていることに。
* * *
祈りの果て
追手の気配が、まだあった。
ユナは、立ち止まり、背の弓を取った。矢筒に手を伸ばす。残りは少ない。
闇の中で、音だけが頼りだった。枝を踏む足音。こちらに近づいてくる。
番えた。引いた。音の方角に向けて、放った。
短い叫びが、闇の奥で上がった。
もう一本。つがえ、引く。息を止め、耳を澄ませる。足音が、左に寄った。そちらへ向け、放った。
矢が何かに当たる音。
もう一本。
ユナの意識は、弓と敵だけに注がれていた。手は動き、目は闇を探り、耳は音を追った。
何かが、横で起きていた。
うめき、大きく息を吸い込む気配。だが、ユナの耳には届いていなかった。弦の振動と、自分の心拍だけが、頭蓋の中を満たしていた。
追手の足音が、散った。遠ざかっていく。しばらくは、来ない。
ユナは、息を吐き、横を見た。
キランの歩調が、変わっていた。
いや、歩いていなかった。木に片手をつき、もう片方の手は、脇腹を押さえている。
「キラン」
返事がなかった。
ユナは、気配を探して駆け寄った。キランの腕を取った。
手のひらに、温かいものが触れた。粘り気のある、温かさ。
血だ。
「キラン、そんな」
ユナは、キランの腕を自分の肩に回し、支えようとした。
重い。キランの体が、重い。足を踏み出そうとしても、膝が折れかけている。だが、ユナは構わずに引きずるようにして、太い木の幹の陰に入った。
「ここに――」
足が、止まった。
キランの足が、止まった。
歩くことが祈りだった人の、足が。
膝が、地面についた。
手が、地面に触れた。
倒れたように見えなかった。足が止まり、膝が折れ、手が地面についた。ゆっくりと、祈りの姿勢のように。
ユナは、キランの前にしゃがんだ。
「キラン」
声が、震えた。
キランの目が、ユナを見た。
闇の中だった。何も見えないはずだった。だが、ユナには、キランの目が見えた。
言葉はなかった。
キランの目がは、僅かに、頷いた。
それだけだった。
ユナの声が出なかった。手が、動かなかった。耳の奥で、何かが遠くなった。
それきり、キランは、動かなくなった。
手が地面に触れたまま。膝が地面についたまま。
ユナも、動かなかった。
追手の足音が遠ざかったのか、それとも、ユナには聞こえなくなったのか。
音はなかった。
時間が、消えた。
* * *
どれほどの時が過ぎたのか、わからなかった。
ユナは動けないでいた。キランのそばに。闇の中に。
手が、自分の背負い袋の中に触れた。無意識だった。指先が、硬い、小さなものに当たった。
木彫りの護符。
イルハが渡してくれた、あの護符だった。
ユナの指が、それを握った。
形が、違っている。
真ん中から、割れていた。二つに分かれた破片が、掌の中で、がたりと噛み合わない。いつ割れたのか、わからなかった。背負い袋の中で、いつの間にか。
ユナは、割れた二つの欠片を、両手で包んだ。指の先に、ほんの一筋、ぬくもりが触れた。
空が、白み始めた。
東の空。木々の隙間から、鈍い光が差した。晴れではない。曇りでもない。夜と朝の境にだけある、鈍色の光。
ユナの目に、木々の輪郭が浮かび上がった。
キランの姿が見えた。動かない。手は地面に触れたまま。膝は地面についたまま。
鈍色の空が、その背後にあった。
一羽の鳥が、鳴いた。
短い音。
ユナは、最初、それが何かわからなかった。音として聞こえたが、意味が結ばない。耳の奥で、何かが遠くなったままだった。
もう一羽、鳴いた。
また一羽。
森の上を、鳥たちが飛び始めた。影が、白みかけた空を横切った。
声が増えた。
やや長く、上がり調子の音。繰り返される。
カルラの庭で、同じ声を聞いた。
「集まれ」。
仲間を呼ぶ声。
ユナの耳が、それを捉えた。あの時は、違いがわかるような気がしただけだった。今は、違った。体が、聞いていた。頭ではなく、耳が、首筋が、背中が、その音を受け止めていた。
続いて、鋭い上昇音が三度。
「戦え」
カルラの鳥ではなかった。
カルラが長い年月をかけて訓練した鳥たちではない。野の鳥だった。森に棲む、名もない鳥たちが、自らの声で鳴いている。
「集まれ」と。「戦え」と。
ユナは、護符を握りしめたまま、顔を上げた。
鈍色の空に、鳥の影が飛んでいた。一羽、また一羽。声が重なり、途切れ、また始まる。高い声、低い声、短い声、長い声。
ユナの口が、開いた。
最初は、小さかった。
「集まれ」
鳥の声を真似たのではなかった。人の言葉だった。鳥が鳥に呼びかける声を、ユナは人の言葉に置き換えた。
「集まれ」
もう一度。今度は、大きく。
「集まれ!」
さらに大きく、叫んだ。そして、立ち上がった。
弓を取った。矢筒を探った。一本。背負い袋の底に落ちていた一本が、指に触れた。
弦に番えた。
「戦え!」
叫んだ。
「集まれ!戦え!」
もう一度、叫んだ。
その声が、鈍色の空の下で、森を貫き、こだまする。
木という木から、鳥や獣が吠え出した。
その時、追手が......木の陰から姿を現した兵の影が、ユナの叫び声に振り返った。
ユナは、叫びながら突進し、矢を放った。
矢は、闇を抜け、兵の肩に吸い込まれた。男が崩れ落ちた。
弓を構えたまま、ユナは耳を澄ませた。
森中が騒ぐ中に、整然とした音が来た。
馬蹄の音だった。
遠くから、地面を震わせて。重く、速く、大量の蹄が、土を叩いている。
角笛が鳴った。一度ではない。何本もの角笛が、応え合うように吹かれていた。
人の声。命令を飛ばす声。隊列を整える声。
ユナの目には見えなかった。森の中にいて、木々の向こうの音を聞いているだけだった。だが、音は大河のように押し寄せ、森を包み、拠点を覆った。
カルラが動かした軍だった。
カルラの嘆願と、ガイ・トウジンの都での騒乱計画の密告が、王を動かしたのだ。だが、ユナには、鳥の声が呼び、自分の声が呼び、それに応えて大地が動いたように、感じられた。
馬蹄の音が、拠点を包囲していく。角笛が止み、代わりに兵の怒号と剣戟の音が響いた。敵の兵が追い散らされていく音が、森の中にまで届いた。
やがて、別の声が聞こえた。
散り散りになっていた仲間の声だった。
タクトの声が、遠くから上がった。指示を出す声。生きている声だった。
セイリョウの声が、それに応えた。
私兵たちの声が、一つ、また一つ、森の中から立ち上った。
生きている。
ユナは、弓を下ろした。矢は尽きていた。
足元に、キランがいた。祈りの姿勢のまま、もう動かない。手と頭が、地面に触れたままだ。
ユナはキランを抱き、そのままそこにいた。
鈍色の空に、鳥たちが舞っていた。
朝の光が、少しずつ、森の中に降りてきていた。
* * *




