第八章 カルラの邸宅
都の外れ
都サトが見えてから、半日。
三人は街道を歩き続けた。道幅はさらに広がり、荷馬車の列が途切れない。石畳が敷かれ、轍の音が規則正しく響いている。行き交う人の数も、ケルゲンやワダンとは比較にならなかった。
ユナは、都の外壁を見上げた。
高い。灰色の石を積み上げた壁が、見渡す限り続いている。壁の上に見張り台が点々とあり、旗が風に揺れていた。門の前には列ができ、門番が一人ずつ荷を改めている。
「大きい……」
「ティルマ王国の中心だ。人口は十万を超える」
セイリョウが、短く答えた。
だが、三人は門に向かわなかった。
セイリョウが、街道を外れた。壁に沿って東へ進み、農地の間の細い道に入る。荷馬車も旅人もいない。畦道に似た、草の生えた小径だった。
「街には入らないの」
ユナが聞いた。
「用があるのは、街の中じゃない」
セイリョウは、振り返らずに答えた。足取りに迷いがない。この道を知っている歩き方だった。
キランが、ユナの隣に並んだ。
「やれやれ、案内はいらんな」
伸びをしながらの穏やかな声だったが、少し面白がっているようだ。
* * *
道は、緩やかに丘を登り始めた。
周囲の景色が変わる。農地が果樹園に変わり、果樹園が草原に変わり、やがて、古い石壁が見えてきた。苔が生え、ところどころ崩れかけているが、手入れされた跡がある。壁の向こうに、大きな木の梢が覗いていた。
遠くで鳥の声が、増えた。
一羽ではない。何羽も、何十羽も。種類の異なる鳴き声が重なり合い、丘の上が、鳥の住処になっているようだった。
石壁に沿って歩くと、門が現れた。木製の門。古いが頑丈で、鉄の留め金が光っている。門柱の上に、石造りの鳥の像が一つ、こちらを見下ろしていた。
門をくぐって庭を通った。いつの間にか木にとまっていた鳥が一声、鳴いた。
セイリョウが、邸宅の戸を叩いた。
三度。間を置いて、二度。決まった叩き方だった。
しばらくの沈黙。
戸が、内側から開いた。
女が、立っていた。
三十代半ば。髪を高く結い上げ、濃い紅の衣を纏っている。背は高い。肩幅もある。顔立ちは鋭く、眉が濃く、口元に力がある。美しさよりも、鮮烈さが先に来る顔だった。
その肩に、灰色の鳥が一羽、止まっている。
女は、セイリョウを見た。
目が、細くなった。
「遅かったじゃないか、セイリョウ。何年、放っておくつもりだった」
声は低く、よく通った。責めているようで、責めていない。待っていた、とは言わない。だが、待っていたことが、声の底に滲んでいた。
セイリョウは、僅かに息をついた。
「こちらの都合もある」
「おやおや。まぁ、いいさ」
女は、セイリョウの後ろに立つ二人に目を向けた。ユナを見て、キランを見て、もう一度ユナを見た。
「入りなさい、みんな」
戸を入った先は、また庭だった。小さいが外に比べて一層華やかだ。
ユナは、この中庭を見回した。こんな場所がある。都のすぐ近くに、こんな穏やかな場所が。
中庭の奥の玄関先で、女が振り返った。
「カルラ・イェスリだ。この家の主として、弟弟子の友人たちよ、歓迎する」
笑った。目尻に皺が寄り、鋭い顔が柔らかくなった。ユナには、カルラの周りだけが明るくなったように見えた。
「まずは茶を出そう。ずいぶんと長く歩いた様子だ」
ついておいで、と言わんばかりに大きく首を縦に振ると、中へ入った。
* * *
居間は、石壁と木の梁で組まれた広い部屋だった。暖炉に火が入り、壁には鳥の絵が何枚も掛けられている。カルラが描いたものだとは、この時のユナにはまだわからなかった。
茶が出された。温かく、薬草の香りがする。
ユナとキランが名乗った後、セイリョウが荷の中から、布に包んだ小さなものを取り出した。
赤い首飾り。
ワダンの夜の星市で買ったものだった。夜光石の赤い光は、昼の室内では淡く、だが確かに、脈を打つように明滅している。
「これを。ワダンの夜の星市で手に入れた」
セイリョウが、カルラに差し出した。セイリョウの耳がわずかに赤いのを、ユナは見た。
カルラは、受け取り、掌の上で赤い光を見つめた。
「きれいだね。大事にしよう」
そこに感情の抑揚は感じられなかったが、首飾りを衣の内側にしまう指先は、とても丁寧だった。
* * *
鳥の庭
翌朝。
ユナは、鳥の声で目が覚めた。
昨夜は、そのまま歓待を受けて、これまでの旅の話をして、そして泥のように眠りについたのだった。
客間の窓から光が差し込んでいる。窓の外に、小鳥が三羽、並んで止まっていた。褐色の羽に、白い腹。
ユナは、着替えて庭に出た。
カルラが、いた。
庭の中央、大きな樫の木の下に立っている。片手を差し出し、指先に、一羽の小鳥を止まらせていた。鳥は、カルラの指の上で、小さく首を傾げている。
カルラが、口笛を吹いた。短く、高い音。
鳥が、飛び立った。
すぐに、別の鳥が飛んできて、カルラの肩に止まった。カルラは、その鳥に小声で何か囁き、鳥は、二度鳴いて、再び飛び去った。
ユナは、その光景を、しばらく見つめていた。
カルラが、振り返った。
「早いね。セイリョウとキランは、まだ寝てるよ」
「鳥の声で、起きた」
「そうだろうね。ここは朝がうるさい」
カルラは、笑いながら、庭の石段に腰を下ろした。ユナに、隣に座れ、と手で示す。
ユナは、夕方もうるさかったのだが、と思いつつも口に出さず、座った。
庭は、鳥の声に満ちていた。高い声、低い声、短い声、長い声。重なり合い、途切れ、また始まる。こうやって近くで一斉に鳴かれると、ユナには、ただの騒がしさにしか聞こえなかった。
「ユナ、鳥の鳴き声、気にしたことはあるかい」
カルラが、聞いた。
「鳴き声……。きれいだと思ったことは、ある。怖い時も、たまに」
「きれい、怖い。ふむ、まぁ、それも間違いじゃない。だが、鳥はねぇ、人と同じさ。話しているんだ」
カルラが、指を立てた。庭の隅にいた茶色い小鳥が、急に甲高い声を上げた。短く、鋭い、繰り返しの音。
「今のは、『危ない』だ。猫が、あの塀の向こうにいる」
ユナは、塀の方を見た。何も見えない。だが、数秒後、灰色の猫が塀の上に姿を現した。
「鳥の声には、意味がある。人間の言葉のように複雑じゃないが、基本の音がある。『危ない』。これが一番多い。次に、『集まれ』。仲間を呼ぶ声だ。そして、『逃げろ』」
カルラは、それぞれの音を、口で真似て見せた。
「危ない」は、短く鋭い連続音。
「集まれ」は、やや長く、上がり調子の音。
「逃げろ」は、低く、強い一声。
「聞き分けるには、時間がかかる。才能もいるんだろう。毎朝、庭に座って、ただ聞いた。三年、かかった。三年聞いて、やっと、『危ない』がわかった。真似るにはもっとかかった」
ユナは、耳を澄ませた。
庭に、鳥の声が満ちている。さっきまで騒がしさにしか聞こえなかった音の中に、確かに、異なるリズムがあった。繰り返す音。呼びかける音。単発の強い音。
「あの木の上の鳥。今、何か言っている」
ユナは、樫の木の高い枝を指差した。
カルラが、見上げた。
枝の上で、灰色の鳥が、短い音を繰り返している。同じ高さ、同じ間隔。だが、さっきの「危ない」とは、微妙にリズムが違う。
「『安全』だ。仲間に知らせている」
カルラが、ユナを見た。目が、僅かに広がっていた。
「あんた、今、聞き分けたのか」
「わからない。ただ、さっきの猫の時の声と、違う気がした」
カルラは、しばらく黙っていた。
「なるほど、これは教えがいがありそうだ」
ユナは、何と答えていいかわからなかった。教わったから、聞き分けられた、としか思わなかった。
だが、カルラの目は、もう笑っていなかった。真剣だった。
「後で、もう少し教える。今は、朝食にしよう」
カルラが立ち上がった。肩に、いつの間にか、また灰色の鳥が止まっていた。
* * *
狐の真実
朝食の後。
カルラは、三人を居間に集めた。セイリョウ、キラン、ユナ。暖炉は小さな熾火のみ、窓も閉められていた。
カルラの声が、変わった。
朝の庭にいた時の快活さが消え、低く、平らな声になった。抑揚のない、事実だけを並べるための声だった。
「本題に入る。あんたたちがここに来た理由は、知っている。セイリョウから、鳥を通じて、断片的に聞いていた」
セイリョウが頷いた。
「紺毛狐の異変。各地での人さらい。首の傷。白い部屋。ガイ・トウジンの影」
カルラが、一つずつ指を折った。
「順番に話す。長くなる。黙って聞いてくれ」
ユナは、背筋を伸ばした。
* * *
「まず、紺毛狐だ」
カルラは、立ち上がり、壁に掛けられた地図の前に移動した。古い地図だ。ティルマ王国の全域が描かれ、各地に印が打たれている。
「紺毛狐は、特別な種じゃない。野狐と同じ種だ。毛の中に紺色の筋が出やすい個体がいる。それを人間が選んで集めて、代々掛け合わせた。紺の筋が濃くなるように、太くなるように。それだけのことだ」
ユナは、驚いた。村では、紺毛狐は神聖な生き物とされていた。祠に祀られ、守り神として敬われていた。
「神聖な狐ではないの」
「神聖だと信じている人はいる。だが、種としては、ただの狐だ。人間が勝手に意味をつけた。それ自体は、悪いことじゃない。信仰は人の自由だ」
カルラは、地図の上の印を、指で辿った。
「問題は、ここからだ。各地で紺毛狐が狂暴化している。畑を荒らし、家畜を襲い、人に噛みつく。山から里に降りて暴れる。辺境の村でも、都の近郊でも、同じことが起きている」
「旅の途中でも見た。村が襲われていた」
キランが言った。
「だろうね。わたしの鳥たちも、同じ報告をしてくる。東でも西でも、南でも」
カルラの指が、地図の上を滑った。印が打たれた場所は、十以上あった。
「民は、『狐の祟り』だと言っている。祠を壊した罰だ、山の神が怒っているのだ、と。だが、嘘だ」
声が、さらに低くなった。
「狐は囮だ」
沈黙が落ちた。
「狐に罪を着せて、本当の原因から目を逸らさせている者がいる。狐が暴れているのは、暴れざるを得ないからだ。山に薬が撒かれている。水源に混ぜられている。それを飲んだ狐が、正気を失う。そうさせている人間がいるんだ」
ユナは、拳を握った。村の祠が荒らされた夜のことを思い出した。井戸の水が濁ったことを。
「なぜ、そんなことを」
「理由は単純だ。恐怖。人々が狐を恐れ、祟りだと信じ、互いに疑い合えば、本当の問題には目が向かない。狐が暴れている間、別のことがひっそりと進む」
カルラが、ユナを見た。
「人さらいだ」
* * *
「ガイ・トウジン」
カルラが、その名を口にした時、部屋の空気が変わった。
セイリョウの目が鋭くなった。キランの腕が、微かに組み直された。
「正体を知る者はほとんどいない。わたしは、長いことかけて調べた。鳥を飛ばし、人を訪ね、古い記録を掘り返した」
カルラは、壁際の棚から、革表紙の帳面を取り出した。開くと、細かい文字と図が、びっしりと書き込まれていた。
「ガイ・トウジン。本名は不明。四十代半ばの男。ティルマ王族の補佐官だ。表向きは改革派の官僚で、辺境の開発と鉱山の整備を担当している。王宮の中では、有能な実務家として通っている」
ユナは、その言葉を一つずつ、頭に刻んだ。
「表向きは、だ」
カルラが、帳面のページをめくった。
「裏では、政敵の排除を請け負っている。方法は二つ。呪術と薬だ」
セイリョウが、僅かに身を乗り出した。
「呪術……?どの系統だ」
「あんたと同じ系統だよ、セイリョウ。王室祭祀の術。つまりわたしたちの師匠の兄弟弟子か、そのあたり。破門されたようだ。術を人を害するために使った」
セイリョウの顔から、表情が消えた。
カルラは、続けた。
「術だけでは、人を操れない。時間をかけて王族に術を施して、効き目が薄かったんだろう。かたわら、薬を作った。辺境の村から若い人間をさらい、山中の施設に連れ込んで試す。何度も。何年も。薬で記憶を奪い、感情を削り、従順な駒に仕立て上げる。戦士の素質がありそうなものを選んでいるようだ。薬が強いから、生半可では死んでしまう。」
ユナの体が、強張った。
白い部屋。鉄の匂い。焦点の合わない目。感情の消えた顔。
全てが、繋がった。
ユナは、膝の上で拳を握りしめていた。爪が掌に食い込んでいる。痛みは、遠かった。
「兄は」
声が、震えた。
「……あんたの兄も、被害者だろう。セイリョウから聞いている」
ユナは、唇を噛んだ。
「駒を作って、何をするつもりなの」
ユナの問いに、カルラの目が鋭くなった。
「この国、この都だよ。サトの中で騒乱を起こし、混乱に乗じて王や将軍をさらう。術と薬で操って、官僚も軍も動かす。あとは思いのままさ。それがガイの最終目的だ」
セイリョウの表情が、凍った。
「王を……」
「従順な駒を使い、複数の場所で同時に火を放ち、暴動を煽る。衛兵が混乱している隙に、国の中枢を狙う。わたしの鳥が、その準備の動きを捉えた。もう、時間がないんだ」
カルラの声に、初めて焦りが滲んだ。
ユナの体が、強張った。息が、浅くなっていた。
「兄は、戻れるの」
カルラは、すぐには答えなかった。
窓の外で、鳥が鳴いた。短い声。だが、カルラはそちらを見なかった。
「わからない。正直に言う。薬の効果がどこまで戻るか、わたしにもわからない。戻った者もいる。戻らなかった者もいる」
ユナの肩が、震えた。
「だが」
カルラが、声を強めた。
「あんたの兄は、自分の足で村に帰った、そうだろう。薬に完全に支配された者は、帰ろうとしない。帰る場所すら忘れる。あんたの兄は、帰った。つまり、まだ何かが残っている。消えていない」
ユナは、顔を上げた。
カルラの目が、真っすぐにユナを見ていた。嘘を言う目ではなかった。希望を与えるために言っているのでもなかった。ただ、事実を、そのまま渡している目だった。
キランが、静かに口を開いた。
「そんな状態で家に帰れるなんて、兄さんは私よりも方向がわかるのだな」
間の抜けたように、ゆっくりと言った。だが、ユナは、その一言に、体の芯が僅かに温まるのを感じた。
* * *
調査結果
その夜、ユナは眠れなかった。
天井を見つめていた。カルラの言葉が、頭の中で繰り返される。
兄は、帰った。自分の足で帰った。まだ、何かが残っている。
だが、その先は、わからない。戻るかもしれない。戻らないかもしれない。
確かなことは何もなく、だからこそ、諦めることもできなかった。
* * *
翌朝。
ユナは、早くに起き、邸宅の廊下を歩いた。石の床が冷たく、裸足の足裏に染みる。
カルラの部屋の扉が、開いていた。
中を覗くと、カルラは机に向かっていた。背を向けて座り、何かを書いている。
「入りなさい」
振り返りもせずに言った。
ユナは、部屋に入った。
壁一面に、地図が貼られていた。ティルマ王国の地図だけではない。周辺の国々、山脈、河川。地図の上に、赤い糸が張り巡らされている。糸が結ばれた場所に、小さな紙片が貼られ、日付と短い文が書かれていた。
「これは……」
「数年分の調査だ。一つ一つ、鳥が運んだ情報、人から聞いた話、古い記録。全てを、ここに集めた」
カルラは、椅子を回してユナを見た。目の下に、隈が濃く落ちている。夜通し地図に向かっていたのだろう。机の端には、冷めきった茶が、手もつけずに置かれていた。
机の上に、鳥の絵があった。何枚も。鮮やかな色彩で、一羽一羽が丁寧に描かれている。羽の一本一本まで見える精密な絵だった。
「カルラは、絵も描くの」
「何かを知るには、描くのが一番早い。牛の角はどこにあるか知っているか。牛飼いだって覚えちゃいない。絵描きなら、耳の後ろだ、とすぐに答えるのさ。わたしが鳥を描くのは、そういうことだ」
カルラは、地図の一点を指差した。
都サトの南東。山の中に、赤い印がつけられている。
「ガイの拠点だ。山中の谷間にある。建物が五棟。人の出入りが頻繁だ。兵が見張りに立っている」
「そこに、さらわれた人たちが」
「いるだろう。全てとは言わない。だが、ここが中心だ。ここを潰せば、少なくとも、今の活動は止められる」
カルラは、机の引き出しから、小さな紙の束を取り出した。
「これは、過去三年間に行方がわからなくなった者の一覧だ。各地の証言を照らし合わせた。名前がわかっている者だけで八十三人。王にこれを持っていき、軍を動かすつもりだ」
ユナは、紙を受け取った。細かい文字で並んでいる。年齢、出身地、失踪時期。そのどれもが、十代から二十代の若者だった。
「一人では限界があった。おかしなことが起きていると気づいて......だが、時がかかってしまった」
カルラが、窓の外を見た。庭の鳥たちが、朝の光の中で飛び交っている。
「でも、今は違う」
カルラが、ユナを見た。
「偶然かもしれんが、セイリョウが証拠を抱えたおまえさんを、連れて帰った......複数の有力な証拠だ。自ら兵も集めた。だが、もう猶予がない。やつの計画が動き出す前に、拠点を叩かなければ」
ユナは、紙の束を、そっと机に戻した。
八十三人。その中に兄の名はなかったが、それはもうどうでもよいことだった。
* * *
鳥の言葉
午後。
カルラが、ユナを庭に呼んだ。
「昨日の続きだ。あんたに素質がある以上、教えないのは勿体ない。短い時間だが、まぁ聞いておくれ」
カルラは、庭の中央に立ち、両手を広げた。鳥たちが、次々と集まってくる。肩に、腕に、指先に。十羽以上が、カルラの体に止まった。
「まず、復習だ。」
カルラが、口笛を吹いた。
短く鋭い連続音。「危ない」。
低く強い一声。「逃げろ」。
鳥たちが、反応した。「危ない」で首を上げ、「逃げろ」で一斉に飛び立った。
「『散れ』」
短い下降音を二回。鳥たちが、ばらばらの方向に散った。
「『待て』」
低く長い一音。散った鳥たちが、それぞれの場所で動きを止めた。枝の上で、塀の上で、地面の上で、じっとしている。
「『戦え』」
鋭い上昇音を三回、続けて。鳥たちが一斉に旋回を始めた。速い。敵がいたら、突進するだろう。
ユナは、息を呑んだ。鳥たちの動きは、訓練された兵のようだった。
「これが基本だ」
ユナは、耳でその違いがわかるような気がしたが、真似ようと思っても到底できるものではなかった。
「すごいですね」
ユナが感嘆の声を上げると、カルラは、ユナに向き直った。
「長くわたしと一緒にいたからね。野の鳥ではこうはいかないが、今や自慢の術さ」
カルラは、少し誇らしげに笑った。
* * *
カルラの私兵
次の朝。
カルラが、ユナたちを邸宅の裏手に連れていった。
庭を抜け、果樹園を通り、石壁の門をくぐると、低い建物が数棟、並んでいた。兵舎のような造りだった。石壁、木の屋根、狭いが頑丈な窓。
建物の前の広場で、人が動いていた。
二十人ほど。男と少しだが女もいる。若い者が多いが、壮年の者もいる。剣を振る者、手で組み合う者。朝の訓練だった。
「王の軍ではなく、私兵だ」
カルラが、短く言った。
「集めた。犠牲になった者たちの家族が少し、あとは元兵士。猟師、行き場を失った者......寄せ集めではあるが、な」
広場の中央で、指示を出している男がいた。若い。二十代前半。短く刈り込んだ髪と、日に焼けた肌。動きに無駄がない。体の使い方が、訓練された兵士のそれだった。
「タクト」
カルラが呼ぶと、男が振り返った。
「カルラ殿。客人ですか」
「紹介する。セイリョウ、ユナ、キラン。わたしの弟弟子と、その連れだ」
タクトが、三人を見た。セイリョウの腰の長剣に目をやり、キランの体躯を見て、ユナの背の弓を見た。品定めをしている目だったが、敵意はなかった。
「タクト。元ケルゲンの衛兵だ」
カルラが、ユナたちに向かって説明した。
「半年間、ガイ・トウジンに囚われていた。自力で脱出した。この中で、唯一、やつの施設の内部を知っている」
タクトが、僅かに顎を引いた。
「施設を出た時、多くの記憶が飛んでいた。今でも、戻らない部分がある。だが、建物の配置と、見張りの数は覚えている」
声は落ち着いていた。自分の過去を、感情を交えずに語る訓練が、体に染みついている。
ユナは、タクトの首元を見た。高い襟で隠されているが、襟の隙間から、かすかに、古い傷跡が覗いていた。
* * *
カルラが、広場の端に三人を集めた。
「一人では戦えない。兵を集めていた」
カルラの視線が、訓練を続ける二十人の上を渡った。
「あんたたちが来るのを待っていたわけじゃない。わたしは、わたしの戦いをするつもりだった。でも、来てくれたなら、心強い」
セイリョウが、黙って頷いた。
キランが、広場を見回して言った。
「良い動きをしている。統率が取れている」
「タクトの力だ。あの男は、壊されかけたが、折れなかった。それだけで、立派で十分な男だ」
カルラの声に、信頼があった。
* * *
作戦
その日の夜。
居間に、五人が集まった。カルラ、ユナ、セイリョウ、キラン、それにタクト。
暖炉の火が、壁の地図を照らしている。カルラが、地図の前に立った。
「ガイの拠点。都サトの南東、二日の距離。谷間にある」
カルラが、赤い印を指差した。
「建物は五棟。中央が本棟。ガイ・トウジンが使っている。東側は囚人の収容施設。西側は兵舎と薬の製造場所だと推測している」
タクトが、口を開いた。
「俺がいた時は、兵力は四十人ほどだった。だが、半年前のことだ。今は増えている可能性がある」
「鳥の偵察では、見張りだけで十五人。交代制で回していることを考えると、最低でも五十人。多ければ七十人」
キランが、腕を組んだ。
「数で劣る。正規の軍も動いていない。なぜこんなに急ぐのだ。」
「都で騒乱を起こす計画が動いている。王や将軍もさらわれかねない。嘆願の書状は、今朝、鳥に持たせて飛ばした。だが、王の軍が動くまでに間に合わないかもしれない。その前に、拠点を潰す」
カルラの目に、隈が浮いていた。地図に向かう姿勢には、快活さの裏に張りつめたものがあった。
カルラが、地図を指で示した。
「正面からは行かない。森がある。拠点の北側は、深い森に覆われている。谷の入り口は南に一つだけだ。奴らは南の入り口を固めている。北から入れば、囚人の解放はかなう。できれば、ガイ・トウジンも仕留めたい」
「森の中を、夜に」
セイリョウが、声を低くした。
「キランがいる」
カルラが、キランを見た。
「闇の中でも、道を見失わない男がいるなら、森は通れる」
キランが、頷いた。
「夕方までは、わたしの鳥が偵察する。が、夜は目がきかない。あまり当てにはできない」
カルラは、指を折りながら続けた。
「セイリョウの術。見張りの目を眩ませることはできるか」
「一時的になら。私が合図した時は、目をつぶって欲しい」
「タクト、そのことは皆に伝えてくれ」
タクトが、わかった、と目で合図した。
カルラが、ユナを見た。
「弓は、暗闘で使えるか」
「月が出ていれば。たぶん」
「月は出ない」
カルラが、言った。
「三日後の夜。月のない日だ」
沈黙が落ちた。
「闇は、敵の目も奪う。見張りは松明に頼るだろう。キランが闇の中を導き、セイリョウが術で目を眩ませ、ユナが弓で——」
「人を殺すの」
ユナが、遮った。
カルラが、ユナを見た。
「必要になるかもしれない。だが、まずは松明を射抜け。弓が使えれば、戦術の幅は広がる」
セイリョウが、静かに言った。
「考える時間はある。三日ある」
カルラが、地図から手を離した。
「三日後の夜。新月だ。闇が、味方になる」
五人は、立ち上がった。
ユナは、矢筒を持ち上げた時に、これまでにない重さを感じた。
* * *




