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鈍色の空、狐舞う時  作者: ささかま


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第八章 カルラの邸宅

(みやこ)サトが見えてから、半日。


三人は街道(かいどう)を歩き続けた。道幅(みちはば)はさらに広がり、荷馬車(にばしゃ)の列が途切れない。石畳(いしだたみ)が敷かれ、わだちの音が規則正しく響いている。()き交う人の数も、ケルゲンやワダンとは比較(ひかく)にならなかった。


ユナは、都の外壁(がいへき)を見上げた。


高い。灰色(はいいろ)の石を積み上げた壁が、見渡す限り続いている。壁の上に見張(みは)り台が点々とあり、(はた)が風に揺れていた。(もん)の前には列ができ、門番(もんばん)が一人ずつ()(あらた)めている。


「大きい……」


「ティルマ王国の中心(ちゅうしん)だ。人口(じんこう)は十万を超える」


セイリョウが、短く答えた。


だが、三人は門に向かわなかった。


セイリョウが、街道を外れた。壁に沿って東へ進み、農地(のうち)の間の細い道に入る。荷馬車も旅人(たびびと)もいない。畦道あぜみちに似た、草の生えた小径(こみち)だった。


「街には入らないの」


ユナが聞いた。


「用があるのは、街の中じゃない」


セイリョウは、振り返らずに答えた。足取(あしど)りに迷いがない。この道を知っている(ある)き方だった。


キランが、ユナの隣に並んだ。


「やれやれ、案内(あんない)はいらんな」


()びをしながらの(おだ)やかな声だったが、少し面白がっているようだ。


* * *


道は、(ゆる)やかに(おか)を登り始めた。


周囲(しゅうい)景色(けしき)が変わる。農地が果樹園(かじゅえん)に変わり、果樹園が草原(そうげん)に変わり、やがて、古い石壁(いしかべ)が見えてきた。(こけ)が生え、ところどころ(くず)れかけているが、手入(てい)れされた(あと)がある。壁の向こうに、大きな木のこずえ(のぞ)いていた。


(とお)くで鳥の声が、増えた。


一羽ではない。何羽も、何十羽も。種類(しゅるい)の異なる()き声が重なり合い、丘の上が、鳥の住処(すみか)になっているようだった。


石壁に沿って歩くと、門が現れた。木製(もくせい)の門。古いが頑丈(がんじょう)で、(てつ)()め金が光っている。門柱(もんちゅう)の上に、石造(いしづく)りの鳥の(ぞう)が一つ、こちらを見下ろしていた。


門をくぐって(にわ)を通った。いつの間にか木にとまっていた鳥が一声、鳴いた。


セイリョウが、邸宅(ていたく)の戸を(たた)いた。


三度。間を置いて、二度。決まった叩き方だった。


しばらくの沈黙(ちんもく)


戸が、内側(うちがわ)から開いた。


女が、立っていた。


三十代(なか)ば。髪を高く()い上げ、濃い(くれない)(ころも)まとっている。背は高い。肩幅(かたはば)もある。顔立(かおだ)ちは(するど)く、(まゆ)が濃く、口元(くちもと)に力がある。(うつく)しさよりも、鮮烈(せんれつ)さが先に来る顔だった。


その肩に、灰色の鳥が一羽、止まっている。


女は、セイリョウを見た。


目が、細くなった。


「遅かったじゃないか、セイリョウ。何年、放っておくつもりだった」


声は低く、よく通った。()めているようで、責めていない。待っていた、とは言わない。だが、待っていたことが、声の(そこ)(にじ)んでいた。


セイリョウは、(わず)かに息をついた。


「こちらの都合(つごう)もある」


「おやおや。まぁ、いいさ」


女は、セイリョウの後ろに立つ二人に目を向けた。ユナを見て、キランを見て、もう一度ユナを見た。


「入りなさい、みんな」


戸を入った先は、また庭だった。小さいが外に比べて一層(はな)やかだ。


ユナは、この中庭(なかにわ)を見回した。こんな場所がある。都のすぐ近くに、こんな穏やかな場所が。


中庭の(おく)玄関先(げんかんさき)で、女が振り返った。


「カルラ・イェスリだ。この家の(あるじ)として、弟弟子(おとうとでし)友人(ゆうじん)たちよ、歓迎(かんげい)する」


笑った。目尻(めじり)(しわ)が寄り、鋭い顔が(やわ)らかくなった。ユナには、カルラの周りだけが明るくなったように見えた。


「まずは茶を出そう。ずいぶんと長く歩いた様子(ようす)だ」


ついておいで、と言わんばかりに大きく(くび)(たて)に振ると、中へ入った。


* * *


居間(いま)は、石壁と木のはりで組まれた広い部屋(へや)だった。暖炉(だんろ)に火が入り、壁には鳥の()が何枚も()けられている。カルラが描いたものだとは、この時のユナにはまだわからなかった。


茶が出された。(あたた)かく、薬草(やくそう)(かお)りがする。


ユナとキランが名乗(なの)った後、セイリョウが荷の中から、(ぬの)に包んだ小さなものを取り出した。


赤い首飾(くびかざ)り。


ワダンの夜の星市(ほしいち)で買ったものだった。夜光石イェシルの赤い光は、昼の室内(しつない)では(あわ)く、だが確かに、(みゃく)を打つように明滅めいめつしている。


「これを。ワダンの夜の星市で手に入れた」


セイリョウが、カルラに()し出した。セイリョウの耳がわずかに赤いのを、ユナは見た。


カルラは、受け取り、(てのひら)の上で赤い光を見つめた。


「きれいだね。大事(だいじ)にしよう」


そこに感情(かんじょう)抑揚(よくよう)は感じられなかったが、首飾りを衣の内側にしまう指先(ゆびさき)は、とても丁寧(ていねい)だった。


* * *


翌朝(よくあさ)


ユナは、鳥の声で目が()めた。


昨夜(ゆうべ)は、そのまま歓待(かんたい)を受けて、これまでの旅の話をして、そして(どろ)のように眠りについたのだった。


客間(きゃくま)(まど)から光が差し込んでいる。窓の外に、小鳥(ことり)が三羽、並んで止まっていた。褐色(かっしょく)(はね)に、白い(はら)


ユナは、着替(きが)えて庭に出た。


カルラが、いた。


庭の中央(ちゅうおう)、大きな(かし)の木の下に立っている。片手(かたて)を差し出し、指先に、一羽の小鳥を止まらせていた。鳥は、カルラの(ゆび)の上で、小さく首を(かし)げている。


カルラが、口笛(くちぶえ)を吹いた。短く、高い音。


鳥が、飛び立った。


すぐに、別の鳥が飛んできて、カルラの肩に止まった。カルラは、その鳥に小声(こごえ)で何か(ささや)き、鳥は、二度鳴いて、再び飛び去った。


ユナは、その光景(こうけい)を、しばらく見つめていた。


カルラが、振り返った。


「早いね。セイリョウとキランは、まだ寝てるよ」


「鳥の声で、起きた」


「そうだろうね。ここは朝がうるさい」


カルラは、笑いながら、庭の石段(いしだん)に腰を下ろした。ユナに、隣に座れ、と手で示す。


ユナは、夕方もうるさかったのだが、と思いつつも口に出さず、座った。


庭は、鳥の声に満ちていた。高い声、低い声、短い声、長い声。重なり合い、途切(とぎ)れ、また始まる。こうやって近くで一斉に鳴かれると、ユナには、ただの(さわ)がしさにしか聞こえなかった。


「ユナ、鳥の鳴き声、気にしたことはあるかい」


カルラが、聞いた。


「鳴き声……。きれいだと思ったことは、ある。怖い時も、たまに」


「きれい、怖い。ふむ、まぁ、それも間違いじゃない。だが、鳥はねぇ、人と同じさ。話しているんだ」


カルラが、指を立てた。庭の(すみ)にいた茶色(ちゃいろ)い小鳥が、急に甲高(かんだか)い声を上げた。短く、鋭い、()り返しの音。


「今のは、『危ない』だ。(ねこ)が、あの(へい)の向こうにいる」


ユナは、塀の方を見た。何も見えない。だが、数秒後(すうびょうご)、灰色の猫が塀の上に姿(すがた)を現した。


「鳥の声には、意味(いみ)がある。人間(にんげん)の言葉のように複雑(ふくざつ)じゃないが、基本(きほん)の音がある。『危ない』。これが一番多い。次に、『集まれ』。仲間(なかま)を呼ぶ声だ。そして、『逃げろ』」


カルラは、それぞれの音を、口で真似(まね)て見せた。


「危ない」は、短く鋭い連続音(れんぞくおん)


「集まれ」は、やや長く、()がり調子(ちょうし)の音。


「逃げろ」は、低く、強い一声。


「聞き分けるには、時間がかかる。才能(さいのう)もいるんだろう。毎朝、庭に座って、ただ聞いた。三年、かかった。三年聞いて、やっと、『危ない』がわかった。真似るにはもっとかかった」


ユナは、耳を()ませた。


庭に、鳥の声が満ちている。さっきまで騒がしさにしか聞こえなかった音の中に、確かに、(こと)なるリズムがあった。繰り返す音。()びかける音。単発(たんぱつ)の強い音。


「あの木の上の鳥。今、何か言っている」


ユナは、樫の木の高い(えだ)指差(ゆびさ)した。


カルラが、見上げた。


枝の上で、灰色の鳥が、短い音を繰り返している。同じ高さ、同じ間隔(かんかく)。だが、さっきの「危ない」とは、微妙(びみょう)にリズムが違う。


「『安全』だ。仲間に知らせている」


カルラが、ユナを見た。目が、僅かに広がっていた。


「あんた、今、聞き分けたのか」


「わからない。ただ、さっきの猫の時の声と、違う気がした」


カルラは、しばらく(だま)っていた。


「なるほど、これは(おし)えがいがありそうだ」


ユナは、何と答えていいかわからなかった。教わったから、聞き分けられた、としか思わなかった。


だが、カルラの目は、もう笑っていなかった。真剣(しんけん)だった。


「後で、もう少し教える。今は、朝食(ちょうしょく)にしよう」


カルラが立ち上がった。肩に、いつの間にか、また灰色の鳥が止まっていた。


* * *


朝食の後。


カルラは、三人を居間に集めた。セイリョウ、キラン、ユナ。暖炉は小さな熾火おきびのみ、窓も閉められていた。


カルラの声が、変わった。


朝の庭にいた時の快活(かいかつ)さが消え、低く、(たい)らな声になった。抑揚のない、事実(じじつ)だけを並べるための声だった。


本題(ほんだい)に入る。あんたたちがここに来た理由(りゆう)は、知っている。セイリョウから、鳥を通じて、断片的(だんぺんてき)に聞いていた」


セイリョウが(うなず)いた。


紺毛狐フルマ異変(いへん)各地(かくち)での(ひと)さらい。首の(きず)。白い部屋。ガイ・トウジンの(かげ)


カルラが、一つずつ指を()った。


順番(じゅんばん)に話す。長くなる。黙って聞いてくれ」


ユナは、背筋(せすじ)を伸ばした。


* * *


「まず、紺毛狐フルマだ」


カルラは、立ち上がり、壁に掛けられた地図(ちず)の前に移動(いどう)した。古い地図だ。ティルマ王国の全域(ぜんいき)が描かれ、各地に(しるし)が打たれている。


紺毛狐フルマは、特別(とくべつ)(しゅ)じゃない。野狐アマと同じ種だ。毛の中に紺色(こんいろ)(すじ)が出やすい個体(こたい)がいる。それを人間が選んで集めて、代々(だいだい)掛け合わせた。紺の筋が濃くなるように、太くなるように。それだけのことだ」


ユナは、驚いた。村では、紺毛狐フルマ神聖(しんせい)な生き物とされていた。(ほこら)(まつ)られ、(まも)り神として(うやま)われていた。


「神聖な狐ではないの」


「神聖だと信じている人はいる。だが、種としては、ただの狐だ。人間が勝手(かって)に意味をつけた。それ自体(じたい)は、悪いことじゃない。信仰(しんこう)は人の自由(じゆう)だ」


カルラは、地図の上の印を、指で辿(たど)った。


問題(もんだい)は、ここからだ。各地で紺毛狐フルマ狂暴化きょうぼうかしている。畑を()らし、家畜(かちく)(おそ)い、人に()みつく。山から(さと)に降りて(あば)れる。辺境(へんきょう)の村でも、都の近郊(きんこう)でも、同じことが起きている」


「旅の途中(とちゅう)でも見た。村が襲われていた」


キランが言った。


「だろうね。わたしの鳥たちも、同じ報告(ほうこく)をしてくる。東でも西でも、南でも」


カルラの指が、地図の上を(すべ)った。印が打たれた場所は、十以上あった。


(たみ)は、『狐の(たた)り』だと言っている。祠を(こわ)した(ばつ)だ、山の神が(いか)っているのだ、と。だが、(うそ)だ」


声が、さらに低くなった。


「狐はおとりだ」


沈黙が落ちた。


「狐に(つみ)()せて、本当の原因(げんいん)から目を()らさせている者がいる。狐が暴れているのは、暴れざるを得ないからだ。山に(くすり)()かれている。水源(すいげん)()ぜられている。それを飲んだ狐が、正気(しょうき)を失う。そうさせている人間がいるんだ」


ユナは、(こぶし)(にぎ)った。村の祠が荒らされた夜のことを思い出した。井戸(いど)の水が(にご)ったことを。


「なぜ、そんなことを」


「理由は単純(たんじゅん)だ。恐怖(きょうふ)。人々が狐を恐れ、祟りだと信じ、(たが)いに(うたが)い合えば、本当の問題には目が向かない。狐が暴れている間、別のことがひっそりと進む」


カルラが、ユナを見た。


「人さらいだ」


* * *


「ガイ・トウジン」


カルラが、その名を口にした時、部屋の空気(くうき)が変わった。


セイリョウの目が鋭くなった。キランの腕が、(かす)かに()(なお)された。


正体(しょうたい)を知る者はほとんどいない。わたしは、長いことかけて調べた。鳥を飛ばし、人を(たず)ね、古い記録(きろく)()り返した」


カルラは、壁際(かべぎわ)(たな)から、革表紙(かわびょうし)帳面(ちょうめん)を取り出した。開くと、(こま)かい文字と()が、びっしりと書き込まれていた。


「ガイ・トウジン。本名(ほんみょう)不明(ふめい)。四十代半ばの男。ティルマ王族(おうぞく)補佐官(ほさかん)だ。表向(おもてむ)きは改革派(かいかくは)官僚(かんりょう)で、辺境の開発(かいはつ)鉱山(こうざん)整備(せいび)担当(たんとう)している。王宮(おうきゅう)の中では、有能(ゆうのう)実務家(じつむか)として通っている」


ユナは、その言葉を一つずつ、頭に(きざ)んだ。


「表向きは、だ」


カルラが、帳面のページをめくった。


(うら)では、政敵(せいてき)排除(はいじょ)()()っている。方法(ほうほう)は二つ。呪術じゅじゅつと薬だ」


セイリョウが、僅かに()()り出した。


呪術じゅじゅつ……?どの系統(けいとう)だ」


「あんたと同じ系統だよ、セイリョウ。王室祭祀さいし(じゅつ)。つまりわたしたちの師匠(ししょう)兄弟弟子(きょうだいでし)か、そのあたり。破門(はもん)されたようだ。術を人を(がい)するために使った」


セイリョウの顔から、表情が消えた。


カルラは、続けた。


「術だけでは、人を(あやつ)れない。時間をかけて王族に術を(ほどこ)して、()き目が(うす)かったんだろう。かたわら、薬を作った。辺境の村から若い人間をさらい、山中(さんちゅう)施設(しせつ)()れ込んで(ため)す。何度も。何年も。薬で記憶(きおく)(うば)い、感情を(けず)り、従順(じゅうじゅん)(こま)仕立(した)て上げる。戦士(せんし)素質(そしつ)がありそうなものを選んでいるようだ。薬が強いから、生半可(なまはんか)では死んでしまう。」


ユナの体が、強張(こわば)った。


白い部屋。鉄の匂い。焦点(しょうてん)の合わない目。感情の消えた顔。


全てが、(つな)がった。


ユナは、(ひざ)の上で拳を握りしめていた。(つめ)が掌に()い込んでいる。(いた)みは、遠かった。


「兄は」


声が、(ふる)えた。


「……あんたの兄も、被害者(ひがいしゃ)だろう。セイリョウから聞いている」


ユナは、(くちびる)を噛んだ。


「駒を作って、何をするつもりなの」


ユナの問いに、カルラの目が鋭くなった。


「この国、この都だよ。サトの中で騒乱そうらんを起こし、混乱(こんらん)(じょう)じて王や将軍(しょうぐん)をさらう。術と薬で操って、官僚も(ぐん)も動かす。あとは(おも)いのままさ。それがガイの最終目的(さいしゅうもくてき)だ」


セイリョウの表情が、(こお)った。


「王を……」


「従順な駒を使い、複数(ふくすう)の場所で同時(どうじ)に火を(はな)ち、暴動ぼうどう(あお)る。衛兵(えいへい)が混乱している(すき)に、国の中枢(ちゅうすう)(ねら)う。わたしの鳥が、その準備(じゅんび)の動きを(とら)えた。もう、時間がないんだ」


カルラの声に、初めて(あせ)りが滲んだ。


ユナの体が、強張った。息が、(あさ)くなっていた。


「兄は、戻れるの」


カルラは、すぐには答えなかった。


窓の外で、鳥が鳴いた。短い声。だが、カルラはそちらを見なかった。


「わからない。正直(しょうじき)に言う。薬の効果(こうか)がどこまで戻るか、わたしにもわからない。戻った者もいる。戻らなかった者もいる」


ユナの肩が、震えた。


「だが」


カルラが、声を強めた。


「あんたの兄は、自分の足で村に帰った、そうだろう。薬に完全(かんぜん)支配(しはい)された者は、帰ろうとしない。帰る場所すら忘れる。あんたの兄は、帰った。つまり、まだ何かが残っている。消えていない」


ユナは、顔を上げた。


カルラの目が、()っすぐにユナを見ていた。嘘を言う目ではなかった。希望(きぼう)(あた)えるために言っているのでもなかった。ただ、事実を、そのまま(わた)している目だった。


キランが、静かに口を開いた。


「そんな状態(じょうたい)で家に帰れるなんて、兄さんは私よりも方向(ほうこう)がわかるのだな」


()()けたように、ゆっくりと言った。だが、ユナは、その一言に、体の(しん)が僅かに温まるのを感じた。


* * *


その夜、ユナは(ねむ)れなかった。


天井(てんじょう)を見つめていた。カルラの言葉が、頭の中で繰り返される。


兄は、帰った。自分の足で帰った。まだ、何かが残っている。


だが、その先は、わからない。戻るかもしれない。戻らないかもしれない。


(たし)かなことは何もなく、だからこそ、(あきら)めることもできなかった。


* * *


翌朝。


ユナは、早くに起き、邸宅の廊下(ろうか)を歩いた。石の(ゆか)が冷たく、裸足(はだし)足裏(あしうら)()みる。


カルラの部屋の(とびら)が、開いていた。


中を覗くと、カルラは(つくえ)に向かっていた。背を向けて座り、何かを書いている。


「入りなさい」


振り返りもせずに言った。


ユナは、部屋に入った。


壁一面に、地図が貼られていた。ティルマ王国の地図だけではない。周辺(しゅうへん)の国々、山脈(さんみゃく)河川(かせん)。地図の上に、赤い(いと)()(めぐ)らされている。糸が結ばれた場所に、小さな紙片(しへん)が貼られ、日付(ひづけ)と短い文が書かれていた。


「これは……」


「数年分の調査(ちょうさ)だ。一つ一つ、鳥が運んだ情報(じょうほう)、人から聞いた話、古い記録。全てを、ここに集めた」


カルラは、椅子(いす)を回してユナを見た。目の下に、くまが濃く落ちている。夜通(よどお)し地図に向かっていたのだろう。机の(はし)には、()めきった茶が、手もつけずに置かれていた。


机の上に、鳥の絵があった。何枚も。(あざ)やかな色彩(しきさい)で、一羽一羽が丁寧に描かれている。羽の一本一本まで見える精密(せいみつ)な絵だった。


「カルラは、絵も描くの」


「何かを知るには、描くのが一番早い。(うし)(つの)はどこにあるか知っているか。牛飼(うしか)いだって覚えちゃいない。絵描(えか)きなら、耳の後ろだ、とすぐに答えるのさ。わたしが鳥を描くのは、そういうことだ」


カルラは、地図の一点を指差した。


都サトの南東(なんとう)。山の中に、赤い印がつけられている。


「ガイの拠点(きょてん)だ。山中の谷間(たにあい)にある。建物(たてもの)が五(むね)。人の出入(でい)りが頻繁(ひんぱん)だ。兵が見張りに立っている」


「そこに、さらわれた人たちが」


「いるだろう。全てとは言わない。だが、ここが中心だ。ここを(つぶ)せば、少なくとも、今の活動(かつどう)は止められる」


カルラは、机の()()しから、小さな紙の(たば)を取り出した。


「これは、過去(かこ)三年間に行方(ゆくえ)がわからなくなった者の一覧(いちらん)だ。各地の証言(しょうげん)()らし合わせた。名前がわかっている者だけで八十三人。王にこれを持っていき、軍を動かすつもりだ」


ユナは、紙を受け取った。細かい文字で並んでいる。年齢(ねんれい)出身地(しゅっしんち)失踪(しっそう)時期(じき)。そのどれもが、十代から二十代の若者(わかもの)だった。


「一人では限界(げんかい)があった。おかしなことが起きていると気づいて……だが、時がかかってしまった」


カルラが、窓の外を見た。庭の鳥たちが、朝の光の中で飛び交っている。


「でも、今は違う」


カルラが、ユナを見た。


偶然(ぐうぜん)かもしれんが、セイリョウが証拠(しょうこ)(かか)えたおまえさんを、連れて帰った……複数の有力(ゆうりょく)な証拠だ。(みずか)ら兵も集めた。だが、もう猶予(ゆうよ)がない。やつの計画(けいかく)が動き出す前に、拠点を叩かなければ」


ユナは、紙の束を、そっと机に戻した。


八十三人。その中に兄の名はなかったが、それはもうどうでもよいことだった。


* * *


午後(ごご)


カルラが、ユナを庭に呼んだ。


「昨日の続きだ。あんたに素質がある以上、教えないのは勿体(もったい)ない。短い時間だが、まぁ聞いておくれ」


カルラは、庭の中央に立ち、両手を広げた。鳥たちが、次々と集まってくる。肩に、腕に、指先に。十羽以上が、カルラの体に止まった。


「まず、復習(ふくしゅう)だ。」


カルラが、口笛を吹いた。


短く鋭い連続音。「危ない」。


低く強い一声。「逃げろ」。


鳥たちが、反応(はんのう)した。「危ない」で首を上げ、「逃げろ」で一斉に飛び立った。


「『()れ』」


短い下降音(かこうおん)を二回。鳥たちが、ばらばらの方向に散った。


「『待て』」


低く長い一音。散った鳥たちが、それぞれの場所で動きを止めた。枝の上で、塀の上で、地面(じめん)の上で、じっとしている。


「『戦え』」


鋭い上昇音(じょうしょうおん)を三回、続けて。鳥たちが一斉に旋回(せんかい)を始めた。速い。(てき)がいたら、突進(とっしん)するだろう。


ユナは、息を()んだ。鳥たちの動きは、訓練(くんれん)された兵のようだった。


「これが基本だ」


ユナは、耳でその違いがわかるような気がしたが、真似ようと思っても到底(とうてい)できるものではなかった。


「すごいですね」


ユナが感嘆(かんたん)の声を上げると、カルラは、ユナに向き直った。


「長くわたしと一緒にいたからね。()の鳥ではこうはいかないが、今や自慢(じまん)の術さ」


カルラは、少し(ほこ)らしげに笑った。


* * *


次の朝。


カルラが、ユナたちを邸宅の裏手(うらて)に連れていった。


庭を抜け、果樹園を通り、石壁の門をくぐると、低い建物が数棟(すうとう)、並んでいた。兵舎(へいしゃ)のような(つく)りだった。石壁、木の屋根(やね)、狭いが頑丈な窓。


建物の前の広場(ひろば)で、人が動いていた。


二十人ほど。男と少しだが女もいる。若い者が多いが、壮年(そうねん)の者もいる。(けん)()る者、手で組み合う者。朝の訓練だった。


「王の軍ではなく、私兵(しへい)だ」


カルラが、短く言った。


「集めた。犠牲(ぎせい)になった者たちの家族(かぞく)が少し、あとは元兵士(もとへいし)猟師(りょうし)、行き場を失った者……()せ集めではあるが、な」


広場の中央で、指示(しじ)を出している男がいた。若い。二十代前半(ぜんはん)。短く()り込んだ髪と、日に焼けた(はだ)。動きに無駄(むだ)がない。体の使(つか)い方が、訓練された兵士(へいし)のそれだった。


「タクト」


カルラが呼ぶと、男が振り返った。


「カルラ殿(どの)客人(きゃくじん)ですか」


紹介(しょうかい)する。セイリョウ、ユナ、キラン。わたしの弟弟子と、その連れだ」


タクトが、三人を見た。セイリョウの腰の長剣(ちょうけん)に目をやり、キランの体躯(たいく)を見て、ユナの背の(ゆみ)を見た。品定(しなさだ)めをしている目だったが、敵意(てきい)はなかった。


「タクト。元ケルゲンの衛兵だ」


カルラが、ユナたちに向かって説明(せつめい)した。


「半年間、ガイ・トウジンに(とら)われていた。自力(じりき)脱出(だっしゅつ)した。この中で、唯一(ゆいいつ)、やつの施設の内部(ないぶ)を知っている」


タクトが、僅かに(あご)を引いた。


「施設を出た時、多くの記憶が飛んでいた。今でも、戻らない部分がある。だが、建物の配置(はいち)と、見張りの数は覚えている」


声は()ち着いていた。自分の過去を、感情を(まじ)えずに語る訓練が、体に染みついている。


ユナは、タクトの首元(くびもと)を見た。高い(えり)で隠されているが、襟の隙間(すきま)から、かすかに、古い傷跡(きずあと)が覗いていた。


* * *


カルラが、広場の端に三人を集めた。


「一人では戦えない。兵を集めていた」


カルラの視線(しせん)が、訓練を続ける二十人の上を渡った。


「あんたたちが来るのを待っていたわけじゃない。わたしは、わたしの戦いをするつもりだった。でも、来てくれたなら、心強(こころづよ)い」


セイリョウが、黙って頷いた。


キランが、広場を見回して言った。


「良い動きをしている。統率(とうそつ)が取れている」


「タクトの力だ。あの男は、壊されかけたが、折れなかった。それだけで、十分に立派(りっぱ)な男だ」


カルラの声に、信頼(しんらい)があった。


* * *


その日の夜。


居間に、五人が集まった。カルラ、ユナ、セイリョウ、キラン、それにタクト。


暖炉の火が、壁の地図を照らしている。カルラが、地図の前に立った。


「ガイの拠点。都サトの南東、二日の距離(きょり)。谷間にある」


カルラが、赤い印を指差した。


「建物は五棟。中央が本棟(ほんとう)。ガイ・トウジンが使っている。東側は囚人(しゅうじん)収容(しゅうよう)施設。西側は兵舎と薬の製造(せいぞう)場所だと推測(すいそく)している」


タクトが、口を開いた。


「俺がいた時は、兵力(へいりょく)は四十人ほどだった。だが、半年前のことだ。今は()えている可能性(かのうせい)がある」


「鳥の偵察(ていさつ)では、見張りだけで十五人。交代制(こうたいせい)で回していることを考えると、最低(さいてい)でも五十人。多ければ七十人」


キランが、腕を組んだ。


「数で(おと)る。正規(せいき)の軍も動いていない。なぜこんなに急ぐのだ。」


「都で騒乱そうらんを起こす計画が動いている。王や将軍もさらわれかねない。嘆願たんがん書状(しょじょう)は、今朝、鳥に持たせて飛ばした。だが、王の軍が動くまでに間に合わないかもしれない。その前に、拠点を潰す」


カルラの目に、くまが浮いていた。地図に向かう姿勢(しせい)には、快活さの裏に張りつめたものがあった。


カルラが、地図を指で示した。


正面(しょうめん)からは行かない。森がある。拠点の北側は、深い森に(おお)われている。谷の入り口は南に一つだけだ。(やつ)らは南の入り口を(かた)めている。北から入れば、囚人の解放(かいほう)はかなう。できれば、ガイ・トウジンも仕留(しと)めたい」


「森の中を、夜に」


セイリョウが、声を低くした。


「キランがいる」


カルラが、キランを見た。


「闇の中でも、道を見失わない男がいるなら、森は通れる」


キランが、頷いた。


「夕方までは、わたしの鳥が偵察する。が、夜は目がきかない。あまり()てにはできない」


カルラは、指を折りながら続けた。


「セイリョウの術。見張りの目を(くら)ませることはできるか」


一時的(いちじてき)になら。私が合図(あいず)した時は、目をつぶって欲しい」


「タクト、そのことは皆に伝えてくれ」


タクトが、わかった、と目で合図した。


カルラが、ユナを見た。


「弓は、暗闘(あんとう)で使えるか」


「月が出ていれば。たぶん」


「月は出ない」


カルラが、言った。


「三日後の夜。月のない日だ」


沈黙が落ちた。


「闇は、敵の目も奪う。見張りは松明(たいまつ)(たよ)るだろう。キランが闇の中を(みちび)き、セイリョウが術で目を眩ませ、ユナが弓で——」


「人を殺すの」


ユナが、(さえぎ)った。


カルラが、ユナを見た。


必要(ひつよう)になるかもしれない。だが、まずは松明を射抜(いぬ)け。弓が使えれば、戦術(せんじゅつ)(はば)は広がる」


セイリョウが、静かに言った。


「考える時間はある。三日ある」


カルラが、地図から手を離した。


「三日後の夜。新月(しんげつ)だ。闇が、味方(みかた)になる」


五人は、立ち上がった。


ユナは、矢筒やづつを持ち上げた時に、これまでにない(おも)さを感じた。


* * *


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