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鈍色の空、狐舞う時  作者: ささかま


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第七章 旅路

キランの祈り


ケルゲンの南門を出た朝、空は白く曇っていた。

山道は細い。人ひとりが通れるほどの幅しかなく、左右は岩壁と藪に挟まれている。朝露に濡れた草が、足元を滑らせた。


先頭を歩くのは、キランだった。

足取りに迷いがない。分かれ道に差しかかっても、立ち止まることなく、左を選ぶ。次の分岐でも、振り返りもせず、右へ折れる。まるで、道が見えているかのようだった。


「迷わないのか」


セイリョウが、後ろから声をかけた。


「南だ。南に向かえば、山を抜ける。それだけのことだ」


キランの答えは、淡々としていた。声に自負はない。ただ、事実を述べている。

ユナは、三番目を歩いていた。キランの背中を見ながら、この僧の歩き方を観察する。地面を見ていない。前方も、あまり見ていない。むしろ、風を聞いているような、匂いを嗅いでいるような、奇妙な集中の仕方だった。


ケルゲンを出て、半日。

三人は、山肌を巻くように南へ進んだ。道は徐々に高度を上げ、木々が低くなり、岩が剥き出しになった。風は冷たく、乾いている。


セイリョウが、岩に腰を下ろした。


「少し、休もう」


水袋を開け、一口飲んで、ユナに渡す。ユナは受け取り、飲んで、キランに渡そうとした。


「いい。自分のがある」


キランは、腰に下げた革袋から、直接飲んだ。

三人の間に、まだ距離がある。ケルゲンの宴で出会い、旅を共にすることになったが、まだ日は浅い。言葉は少なく、沈黙が多かった。


だが、不快な沈黙ではない。

キランは、ユナに対しても、セイリョウに対しても、同じ調子で話した。敬語は使わない。かといって、馴れ馴れしくもない。年上の余裕ではなく、そもそも、上下という概念を持っていないような話し方だった。


「あの山を越えれば、谷に出る。谷沿いに南へ下れば、平野だ」


キランが、前方の稜線りょうせんを指差した。


「何日かかる」


セイリョウが聞いた。


「三日。天気が崩れなければ」

「崩れそうか」


キランは、空を見上げた。曇り空。だが、雲の色は明るい。


「崩れない」


断言だった。セイリョウは、それ以上聞かなかった。

ユナは、二人のやり取りを聞いていた。短い。無駄がない。だが、そこに信頼の芽のようなものが、ほんの僅かに、芽吹いているのを感じた。



* * *



午後、道は下りに変わった。


岩場を抜け、再び木々が増える。鳥の声が聞こえるようになった。空気に、湿り気が混じる。

ユナは、歩きながら、キランに聞いた。


「キランは、なぜ旅をしているの」

「祈るためだ」

「祈る......ために、歩くの?」

「歩くことが、祈りだ。座って祈ることもある。回ることもある。だが、最も深い祈りは、歩くことの中にある。足が地を踏む。風が頬に触れる。息を吸い、吐く。その全てが祈りだ」


ユナは、少し考えた。


「よく、わからない」

「わからなくていい」


キランは、前を向いたまま言った。


「わかろうとしなくていい。ただ、歩け。歩いていれば、いつか、足が知る」


ユナは、黙って歩いた。足元の土を踏む感触。石を避ける足首の動き。それが祈りだとは思えなかったが、キランの言葉は、不思議と心に残った。

セイリョウが、後ろから、ぽつりと言った。


「変わった坊主だな」

「よく言われる」


キランは、振り返らずに答えた。



* * *



夕食


日が傾く頃、三人は谷間の開けた場所に野営を張った。

水場が近い。薪になる枯れ木も、十分にある。セイリョウが火を起こし、ユナが水を汲んできた。


「飯は、私がやる」


キランが、荷の中から鍋と乾物を取り出した。手際は悪くない。水を入れ、干し肉を刻み、穀物を放り込む。

ユナは、火の番をしながら、キランの手元を見ていた。


「料理、できるの」

「旅が長い。できなければ、飢える」


もっともな答えだった。

やがて、鍋から湯気が立ち始めた。匂いは、悪くない。少なくとも、その時点では。


キランが、鍋の蓋を取った。粥のようなものが、ぐつぐつと煮立っている。その中に、キランは、腰の革袋から赤い粉を取り出し、一つまみ、二つまみ、三つまみ——。

ユナが口を開く前に、四つまみ、五つまみ。


「......それ、何」

香辛料こうしんりょうだ。山で採れる。体が温まる」


キランは、さらにもう一つまみ加え、満足そうに頷いた。

器に盛られた粥を受け取り、ユナは一口、口に運んだ。


舌が、燃えた。

喉の奥が、熱い。目の奥が、痛い。口の中から鼻腔びこうまで、赤い炎が駆け抜けたような衝撃だった。


ユナは、咳き込んだ。


「辛い......!これ、辛すぎる......!」


セイリョウは、すでに無言で食べていた。

顔色は変わらない。表情も動かない。ただ、箸を持つ手が、僅かに、震えている。額に、汗が浮いている。


キランは、自分の器を手に、平然と食べていた。


「どうした。美味いだろう?」


真顔だった。

ユナは、キランの顔を見た。本当に、何もおかしいと思っていない。美味いと、心の底から信じている目だった。


ユナは、セイリョウを見た。セイリョウは、黙々と、口に粥を運び続けている。顔色は蒼白そうはくだが、一言も文句を言わない。

その姿が、おかしかった。


戦場で剣を抜き、呪術じゅじゅつを操る男が、粥一杯に、声も上げられない。

ユナは、吹き出した。


「なにを笑っているのか」


キランが、不思議そうに聞く。


「ごめん、なんでもない。ごめんなさい」


ユナは、涙を拭いながら笑った。辛さの涙なのか、笑いの涙なのか、もうわからなかった。

セイリョウは、最後まで黙って食べ終え、器を置いた。


「ごちそうさま」


声が、僅かにかすれていた。

キランは、満足そうに頷いた。


「明日も作る」


ユナは、密かに、明日は自分が料理を担当しようと決めた。



* * *



星読み


夜が更けた。

セイリョウは食事のせいか、眠っているが時々うめいていた。


火は小さく落とし、熾火おきびだけが赤く光っている。空は晴れ、雲の切れ間から、星が見えた。

キランが、仰向けに寝転がり、空を見上げていた。


「あれが北の星だ。あの並びが、弓の形をしている。弓の先端が示す方が、東」


ユナは、隣に座り、キランの指す方を見た。


「星で方角がわかるの」

「わかる。だが、私は星がなくてもわかる」

「どうやって」


キランは、目を閉じた。しばらく、黙っていた。


「......説明が難しい。体の中に、糸がある。その糸が、常に北と南を通っている。目を閉じても、地の底にいても、わかる。糸か、細い川のような一本のもの。それを頼りに、方角がわかる」

「生まれつき、なの」

「わからない。気づいた時には、そうだった。師に言われたのは、『お前は行くべきところが定まっている。だから迷わない』と。意味は、今もわからないが」


キランは、目を開けた。星明かりの下で、その目は、普段より柔らかく見えた。


「やってみるか」

「え?」

「目を閉じて、北がどちらか、感じてみろ」


ユナは、目を閉じた。

暗闇。風の音。火の爆ぜる音。虫の声。それだけだった。


糸のようなものは、感じない。方角も、わからない。

だが。


風が、右頬に当たっている。微かに湿ったにおいがした。さっきまで吹かれていた風なのに、初めて気づいた。


「......風が、右から来ている。湿っている」

「西風だ」


キランの声に、少しだけ感心の色があった。


「方角はわからなくても、風は感じる。悪くない」


ユナは、目を開けた。星空が広がっている。少しだけ、世界の感じ方が変わったような気がした。



* * *



夜半過ぎ。


ユナは、物音に目を覚ました。

焚き火の前に、キランが座っていた。見張りの当番は、セイリョウのはずだった。


ユナは、半身を起こした。セイリョウの姿を探す。

いた。焚き火から少し離れた岩に背を預けて、目を閉じている。座ったまま、眠り込んでいた。


キランは、ユナに気づき、小さく首を振った。黙っていろ、という合図だった。

ユナは、声を出さずに、キランの隣に座った。


「いつから」


小声で聞いた。


「半刻ほど前。ケルゲンまでの旅で、相当無理をしていたんだろう」


キランの声は、静かだった。


「食事のせい......では。」

「きっかけは、そうかもしれない。だが」


キランは、火に小枝をくべた。炎が、ぱち、と音を立てた。


「あの男は、弱みを見せないように出来ている。だから、周りが気づかない。気づかないから、倒れるまで走る。厄介な性分だ」


ユナは、セイリョウの寝顔を見た。起きている時の鋭さが消え、年相応の青年の顔になっている。ケルゲンまでの道中、ユナとイルハを守りながら歩いた日々の疲労が、ここへ来て、一気に噴き出したのだろうか。


「寝ていろ。見張りは私がやる」


キランが言った。

ユナは頷き、毛布に戻った。目を閉じる前に、もう一度だけ、焚き火の前のキランの背中を見た。


静かだった。火の光が、キランの横顔を照らしている。穏やかだが、目だけは、闇の奥を見据えていた。



* * *



石と傷


四日目の昼。

山を抜け、道は緩やかな下りに変わった。木々の間から、遠くに平野が見える。空気が温かくなり、風に草の匂いが混じるようになった。


三人は、川沿いの木陰で休んでいた。

ユナは、背負い袋の底から、布に包んだものを取り出した。


三つの石。

ワダンの星市で受け取った、濁った石だった。


透明ではない。かつて光を蓄えていた痕跡はあるが、今は鈍く、白濁している。光を失った目のようだった。

ユナは、石を掌の上に並べた。


キランが、一つを手に取り、陽にかざした。


夜光石イェシルの劣化したものかもしれない」

「劣化?」

夜光石イェシルは、本来、光を蓄えて放つ。だが、ある種の薬品に晒されると、結晶の構造が壊れ、光が濁る」


キランは、石を指先で弾いた。鈍い音がした。


「どこで手に入れた」

「星市で。行方不明だった人が持っていた。首に傷があった。目が虚ろで、自分がどこにいたかも覚えていなかった」


キランの目が、細くなった。


「首の傷。虚ろな目。記憶の欠落。そして、この石」


キランは一拍息をおくと、ゆっくりと言葉を続けた。


「ケルゲンでも、似た話を聞いた」


二人が、キランを見た。


「鉱夫が数人、行方がわからなくなった。数ヶ月後に戻ってきた者がいたが、首に傷があり、言葉が少なくなり、以前の仕事が出来なくなっていたと」

「白い部屋の話は」

「戻った者の一人が、うわ言のように繰り返していたそうだ。『白い部屋、鉄の匂い』と」


ユナは、石を握りしめた。

白い部屋。鉄の匂い。首の傷。薬。


兄のナギと、同じだ。ワダンで会った者たちと、同じだ。ケルゲンでも、同じことが起きている。


「ガイ・トウジン」


セイリョウが、低い声で言った。


「誰だ、それは」


キランが聞いた。


「ティルマ国の王族に仕える......いや、表向きはどうであれ、各地で人をさらっている悪党」


セイリョウが答えるのを聞きながら、キランは、石をユナに返した。


「悪党なら、なぜ捕らえない」

「それは......都に近づけば、もっとわかる。カルラが——姉弟子が、長年追っている」

「カルラ」


ユナが、その名前を繰り返した。


「カルラ・イェスリ。サトの近郊に住んでいる。あの人なら、俺たちが知らないことを知っているはずだ」


ユナは、三つの石を布に包み直し、袋にしまった。

点と点が、少しずつ、線になり始めている。だが、まだ全体の形は見えない。都サトに着けば、何かが変わる。そう信じるしかなかった。



* * *



狐の祟り


五日目。

平野に出て、街道を南へ向かう。道幅が広がり、すれ違う旅人が増えた。荷馬車のわだちが深い。都に近づいている証だった。


昼過ぎ、小さな村に差しかかった。

村の入り口に、人だかりが出来ていた。


ユナは、人垣の隙間から中を覗いた。

畑が荒らされていた。作物が踏み荒らされ、柵が倒れ、土が掘り返されている。家畜小屋の壁にも、爪で引っ掻いたような跡があった。


紺毛狐フルマだ」


村人が、声を震わせて言った。


「昨夜、山から降りてきた。三匹。畑を荒らし、鶏を襲い、子どもに噛みついた。うちの子の腕に、まだ歯形が残っている」

「狐が人を襲うなんて......」


別の村人が、首を振った。


「祟りだ。狐の祟りだ。あの山の祠を壊したのが悪かったんだ。祟りが降りてきたんだ」


村人たちの間に、恐怖が広がっていた。声が大きくなり、言葉が重なり、混乱が増していく。

三人は、村の外れまで離れてから、立ち止まった。


キランが、腕を組んだ。


「狐が人を襲うことは稀だ。まして紺毛狐フルマが里に降りるなど、よほどのことがなければ起きない」

「よほどのこと?」

「山に棲めなくなった。何かが狐を追い詰めている。狐が暴れているのではない。暴れざるを得ない状況に追い込まれているんだ」


ユナは、足を止めた。

ナユロ村のことを思い出していた。祠が荒らされた。井戸の水が濁った。狐がいなくなった。そして、兄が帰ってきた。


同じだ。

場所は違う。村の名も、人の名も違う。だが、起きていることは同じだった。


ユナは、セイリョウを見た。

セイリョウは、黙っていた。腕を組み、遠くの山を見ている。表情が険しい。眉間に深い皺が刻まれ、唇が固く結ばれていた。


何かを知っている顔だった。だが、ここでは言わない。ユナは、それを感じ取った。

三人は、村を後にした。


道は真っすぐに南へ伸びている。空は、鈍い灰色だった。



* * *



戦士の血


六日目の夕暮れ。

街道を外れ、林の中の小道を歩いていた時だった。


木の陰から、人影が出た。

三人。痩せた男たちが、道を塞ぐように立っている。手に、錆びた短剣と棍棒こんぼう。顔は埃まみれで、目だけがぎらぎらと光っていた。


野盗だった。


「荷を置いていけ。金目のものがあるなら、それもだ。おとなしくすりゃ、怪我はさせねえ」


先頭の男が、短剣を突き出した。

セイリョウが、腰の長剣に手をかけた。


だが、抜く前に、ユナが動いた。

弓を構え、弦を引く。一瞬。


矢が放たれた。

先頭の男の頬をかすめ、背後の木の幹に突き刺さった。ずん、という鈍い音が、林に響いた。


男の頬から、一筋の血が流れた。

沈黙。


三人の野盗は、動けなかった。矢が刺さった木を見て、ユナの弓を見て、もう一度、木を見た。

ユナは、二本目の矢をつがえていた。弦に指をかけたまま、野盗の目を、真っすぐに見ている。


「次は、外さない」


声は、静かだった。

野盗は、顔を見合わせた。先頭の男が、一歩、後ずさりした。そして、踵を返して走った。残りの二人も、慌てて後を追う。藪を掻き分ける音が遠ざかり、やがて消えた。


ユナは、弓を下ろした。

指が、少し震えていた。だが、呼吸は乱れていない。


セイリョウが、剣から手を離した。


「いい腕だ」


短い言葉だった。だが、その声に、確かな認めの響きがあった。

ユナは、矢を木から抜き、矢筒やづつに戻した。


「当てるつもりはなかった。逃げてくれて、よかった」

「それでいい。殺す必要のない場面で殺さないことも、技のうちだ」


セイリョウが、先に歩き出した。

キランは、少し遅れて、セイリョウの隣に並んだ。


二人の間で、短い言葉が交わされた。ユナには聞こえない距離だったが、キランの唇が動くのは見えた。


「あの娘は、弓だけじゃない。目が変わった」


キランが、低い声でそう言った。

セイリョウは、ちらりとユナの方を見た。


「ああ」


それだけだった。

だが、その一言には、旅の始まりにはなかった重さがあった。


ユナは、二人の背中を見ながら歩いた。何を話していたのかは知らない。だが、自分の中で、何かが確かになった感覚があった。

弓を引く手が、震えなくなる日が来る。


そう思えた。



* * *



ティルマの都サト


七日目の午後。

道は丘陵きゅうりょう地帯に入り、緩やかな起伏が続いていた。草原が広がり、風が開けた土地を渡っていく。空は相変わらず曇っていたが、雲は高く、視界は遠くまで届いた。


キランが、足を止めた。


「あの丘に登れば、見えるはずだ」


三人は、草原の中の小高い丘を登った。背の高い草が、膝を叩く。風が強くなり、髪が乱れた。

丘の頂に立った時、ユナは、息を呑んだ。


眼下に、広大な平野が広がっていた。そして、その先——地平線に近い場所に、灯りの群れが、ぼんやりと光っている。夕暮れ前の薄い光の中で、それは、地上に降りた星のように見えた。


「都サト」


セイリョウが、言った。

声は、静かだった。だが、その目に、何かが宿っていた。懐かしさとも、覚悟とも、つかない光だった。


「大きい......」


ユナは、呟いた。ワダンも大きかった。ケルゲンも、ユナの村とは比較にならない規模だった。だが、サトは別格だった。灯りの広がりだけで、街の大きさが想像できた。


「あの灯りの向こうに、姉弟子がいる」


セイリョウが、言った。


「鳥使いだ。鳥の言葉がわかる人だ」

「カルラさんね。鳥って喋るの」


ユナが、聞き返した。


「会えばわかる」


セイリョウは、それ以上説明しようとはしなかった。

キランが、ユナの隣に立った。


「よい旅だった。案内は出来たな」

「旅は、まだ終わっていない」


ユナが言うと、キランは、目を見開いたが、すぐに戻し、やがてふっと息を吐いた。


「そうだな。まだ、始まったばかりだ」


風が、三人の背中を押した。南からの風だった。草の匂いがする。温かい風だった。

丘を下り、平野に出る。道は広く、真っすぐに、都へ向かっている。


ユナは、一歩、踏み出した。

都の灯りは、まだ遠い。だが、確かに、そこにある。


三人は、歩き出した。



* * *

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