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鈍色の空、狐舞う時  作者: ささかま


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第六章 鉱山都市ケルゲン

石の道


ワダンを発って三日目の朝、道の色が変わった。

それまでの赤褐色の土が、灰色の砂利に代わり、所々に白い岩肌が剥き出しになっている。わだちの跡が深く刻まれ、荷馬車が頻繁に通ることがわかった。


「鉱石を運ぶ道だな。この先は、山に入る」


セイリョウが、道端の砕けた石を拾い上げた。

ユナは、隣を歩く少年に目をやった。少年は、ワダンを出てからほとんど口をきかなかった。歩く速度は遅くはないが、長い距離を歩き慣れていない様子で、時折、足をさすっている。


三人は、隊商にも旅人にも頼らず、道を歩いた。セイリョウが道を知っていたため、迷うことはなかったが、食料は心もとなく、途中の小さな集落で干し肉と穀物を買い足した。

少年は、ユナが差し出すものは素直に食べたが、セイリョウからは受け取ろうとしなかった。


「男が苦手なのか」


セイリョウが、ユナにだけ聞こえるように言った。


「白い部屋にいた時のことが、あるのかもしれない」


ユナは、それ以上聞かなかった。

道は、次第に険しくなった。両側に山が迫り、空が狭くなる。風は冷たく、乾いていた。時折、遠くから、かん、かん、と、鉄を打つような音が聞こえてくる。


「ケルゲンが近い」


セイリョウが、足を止めた。

谷の向こうに、灰色の街が見えた。山肌に張りつくように建物が連なり、斜面には段々に石の壁が積まれている。ワダンの活気とは対照的な、重く、硬いたたずまいだった。


少年が、初めて、自分から声を上げた。


「......帰ってきた」


その声は、小さかったが、確かに安堵の色があった。



* * *



王弟


ケルゲンの入り口には、門番がいた。

ワダンとは違い、ここでは通行人の顔と荷を確かめている。槍を携えた兵が二人、道を塞ぐように立っていた。


セイリョウが、事情を説明しようとした時、少年が前に出た。


「ぼくは、イルハ。王の弟だ」


門番は、一瞬、固まった。

少年の顔を見つめ、それから、はっとしたように膝をついた。


「イルハ様......!生きて......」

「立って。大げさにしないで。この人たちが、助けてくれた」


少年は――イルハは、ユナとセイリョウを振り返った。その顔は、これまでの道中とは、まるで違っていた。目に力がある。背筋が伸びている。

門番の一人が、走って奥へ向かった。もう一人が、三人を丁重に門の内へ案内した。


「王宮まで、お連れします。どうか、こちらへ」


ユナは、セイリョウと目を合わせた。

セイリョウは、ほんの僅かに、眉を上げた。「言った通りだろう」とでも言いたげな顔だった。


石段を上っていく道すがら、ユナは、イルハの横顔を見た。

この数日間、無口で、おびえていて、名前すら言えなかった少年が、門をくぐった瞬間に変わった。ここが、この子の場所なのだ。


「ユナ」


イルハが、ユナに声をかけた。


「ありがとう。ケルゲンに着いたら話す、って言った。ぼくは、イルハ。王の末の弟だ。父も母も異なる。でも、兄が王だ」

「末の弟......」

「うん。だから、あまり大事にされていないんだけど......でも、ここが、ぼくの家だ」


イルハは、少し照れたように笑った。

それが、ユナがイルハの笑顔を見た、最初の瞬間だった。



* * *



再会


王宮は、山の中腹に築かれていた。

石造りの壁は厚く、窓は小さい。装飾は質素だが、石の継ぎ目の精密さに、この国の職人の腕が見て取れる。


通された広間で、兵と文官が慌ただしく動いていた。イルハの帰還は、予想以上の騒ぎを巻き起こしたらしい。

ユナとセイリョウは、広間の端で待たされていた。


「ずいぶん、待つ......」


ユナが、壁にもたれて言った。


「王族の帰還だ。こちらに構っている余裕はないだろう」


セイリョウは、さほど気にした様子もなく、柱に刻まれた紋様を観察している。

その時、廊下の向こうから、聞き慣れた声がした。


「ユナ!」


振り返ると、ギサが走ってきた。


「ギサ!」


ユナは、驚いて声を上げた。

ギサは、息を切らしながら、ユナの両手を掴んだ。


「生きてた!ワダンで別れてから、ずっと心配してて......叔父さんと先にケルゲンに入って、あんたの噂がないか、ずっと聞いて回ってたんだよ。そしたら、ユナがイルハ様を連れて来たって......!」

「ギサこそ、元気そうで良かった」


ユナは、ギサの手を握り返した。久しぶりの、温かい手だった。

ギサは、目を潤ませながら、ユナの顔を隅々まで見た。傷がないか。痩せていないか。確かめるように。


「あんた、ちょっと痩せた」

「そうかな」

「そうだよ。ちゃんと食べてないでしょ」


ギサは、そう言いながら、ユナの手を離さなかった。

セイリョウが、少し離れた場所から、二人のやり取りを眺めていた。口元に、ほんの微かな笑みがあった。



* * *



ギサとの別れ


翌日の昼前だった。

ギサが、ユナを連れ出した。王宮の裏手にある、低い石塀に囲まれた庭だった。誰もいない。風が石の間を抜け、乾いた草を揺らしている。


ギサは、石塀の上に腰かけた。ユナも隣に座った。

しばらく、二人とも黙っていた。


ギサが、先に口を開いた。


「あたし、明日、ワダンに戻る」


ユナは、驚かなかった。叔父のジュウビが商いの用でワダンへ向かうと、昨夜のうちに聞いていた。ギサは叔父と共に行く。そう決まっていた。


「ワダンで置いていったこと、ずっと気になってた。ごめんね」


ギサの声は、いつもの威勢の良さが消えて、静かだった。


「ギサのおかげで、旅ができた。隊商に入れてくれたのは、ギサだもの」

「あんな危ない目に遭わせたのも、あたしだ」

「違う。あれは誰のせいでもない」


ユナは、前を向いたまま言った。風が、髪をさらった。

ギサは、唇を噛んだ。それから、ふっと笑った。いつもの、少し乱暴な笑い方だった。


「あんた、ほんと、変わったね」

「変わった?」

「うん。最初に会った時は、もっと、こう......頼りなかった。今は、違う」


ユナは、何も言わなかった。変わったのかもしれない。変わらざるを得なかったのかもしれない。自分では、よくわからなかった。

ギサは、両足をぶらぶら揺らしながら、空を見上げた。


「また会おうね」

「うん」

「あたし、次はナユロの村まで行くから。あんたの村の霧ってやつを、見てみたい」


ユナは、思わず笑った。


「来て。きっと、退屈だけど」

「退屈なんて、あんたと一緒にいたら、絶対にないよ」


ギサは、そう言い切った。迷いのない声だった。

二人は、しばらく、石塀の上に並んで座っていた。遠くで、かん、かん、と、鉱石を打つ音がしていた。灰色の山に、薄い雲がかかっている。


何も、特別なことは話さなかった。隊商の日々のこと。ワダンの宿舎のこと。星市のこと。どれも、終わった日のことだった。けれど、話すたびに、その日々が確かなものになる。ここにいた。共に歩いた。それだけで、十分だった。



* * *



翌朝。


王宮の門の前で、ギサは荷を背負い、叔父のジュウビと並んで立っていた。

ユナは、門の前まで見送りに出た。


ギサは、荷を直しながら、ユナに向き直った。


「じゃあね」

「うん。気をつけて」

「あんたこそ」


ギサは、手を振った。そして、歩き出した。

三歩進んで、振り返った。手を振った。


また三歩。振り返った。また手を振った。

ユナは、その度に、小さく手を上げて応えた。


ギサの姿が、石段の下へ遠ざかっていく。小さくなっても、まだ振り返る。まだ手を振る。角を曲がる直前に、もう一度だけ、大きく手を上げた。

それきり、見えなくなった。


ユナは、しばらくその場に立っていた。

胸の奥に、温かいものと、冷たいものが、同時にあった。寂しい。でも、悲しくはない。また会える。そう信じられる別れだった。


背後で、セイリョウの足音がした。


「行ったか」

「うん」


セイリョウは、昨日、学友と久しぶりに会って語らったということを話していたが、ユナの思いは様々なところに散っていて、返事はほとんどしなかった。



* * *



午後、ユナは一人で、王宮の裏手の石段を降りた。


灰色の山に、鈍い雲がかかっている。かん、かん、と、遠くの鉱石を打つ音だけが、谷に響いていた。

歩きながら、隣にいるはずの声を探した。ギサならきっと、あの山は登れるのかな、と聞くだろう。もう、その声はない。


足元の石が、靴の裏に冷たかった。それだけを感じながら、ユナはしばらく、一人で歩いた。



* * *



ケルゲンの宴


夕刻になって、文官が迎えに来た。


「イルハ様が、お二方を夕餉にお招きしたい、と」


案内されたのは、王宮の奥にある、小さな食堂だった。大きな広間ではなく、私的な空間だった。石の壁に織物が一枚掛かっている。窓からは、夕焼けに染まった谷が見えた。

イルハが、すでに席についていた。着替えて、顔も洗い、別人のようだ。その隣には、王宮に仕える老年の文官と、給仕の者たちが控えている。


食卓には、鉱山の街らしい素朴な料理が並んでいた。焼いた穀物の平パン。干し肉を戻して煮込んだ汁。山羊の乳で作った白い塊。硬い実を砕いて練った菓子。華やかさはないが、温かく、量があった。


「食べて。遠慮しないで」


イルハが言った。王の末弟の顔で。だが、声の端に、道中のおびえた少年の名残がある。この子は、二つの顔の間にいるのだ、とユナは思った。

セイリョウは、黙って平パンを千切り、汁に浸して食べた。


ユナは、白い塊を一つ取り、口に入れた。塩気と、かすかな酸味。旅の間、忘れていた味だった。


「うまいか」


イルハが、ユナの顔を覗き込んだ。


「うん。おいしい」


イルハは、嬉しそうに頷いた。

食事が進む中、セイリョウがふと手を止めた。


懐に手を入れ、何かを確かめるように触れた。すぐに手を戻し、食事を続けた。だが、その仕草を、ユナは見ていた。

星市で手に入れた、赤い首飾り。セイリョウは、あれを、まだ大切に持っている。「姉のような人への贈り物」だと言っていた。渡す相手に、まだ会えていないのだ。


ユナは、何も聞かなかった。



* * *



宴も半ばを過ぎた頃、食堂の入口近くに、一人の僧がいることに気がついた。


壁際の隅に、静かに座っている。料理には手をつけていたが、誰とも話さず、ただ食堂の空気に溶けるようにしていた。

長身、痩せ型。髪は短く刈り込まれている。清潔な僧衣そうい。布を幾重にも巻いた質素な装い。腕には祈りの紐が一本。装飾の類は身につけていない。年は、二十二か三か。若い。だが、座り方に、年齢にそぐわない落ち着きがあった。


セイリョウが、その僧に目を留めた。

食事の手を止め、しばらく見つめてから、立ち上がった。


ユナは、セイリョウの背を見送った。

セイリョウが、僧の前に立った。


「あなたは、ケルゲンの祈り僧か」


僧は、顔を上げた。穏やかな目だった。だが、その奥に、何か鋭いものがある。柔らかい水面の下に、石が沈んでいるような目。


「ええ」

「方角に迷わないことで知られる僧がいると聞いた」


僧は、少し間を置いた。


「多少は」


控えめな答えだった。だが、セイリョウの目は、その控えめさの裏にあるものを、見定めようとしていた。


「多少、ではないだろうな」


セイリョウが言うと、僧は、困ったように微笑んだ。


「キランと申します」

「セイリョウだ。こちらは、ユナ」


キランは、ユナに向かって軽く頭を下げた。声は低く、静かだった。


「お名前は聞いておりました。イルハ様をお救いになった方だと」

「偶然です」

「偶然でも、行動は偶然ではない。そう思います」


キランは、それだけ言って、また静かに食事に戻った。

ユナは、この僧のまとう空気を、不思議に感じた。存在感が薄いのではない。むしろ、意図して薄くしているような。水のように、その場の形に沿って、自らを消している。


イルハが、ユナの隣に来て、小声で言った。


「キランは、すごい人だよ。目を閉じたまま、王宮の中を歩ける。どの部屋がどこにあるか、壁に触らなくてもわかるんだ」

「どうして、そんなことができるの」

「祈りの修行だって。毎朝、同じ場所で回り続ける。ぐるぐると。何刻も。それで、方角が体に入るんだって」


イルハは、不思議そうに、だが敬意を込めて、キランの背を見ていた。



* * *



紺毛狐フルマの噂


宴が終わり、王宮の人々が引いた後、ユナとセイリョウはあてがわれた部屋に戻った。

石の壁に小さな窓。寝台が二つ。質素だが、旅の間の野営に比べれば、贅沢だった。


セイリョウが、窓辺に腰を下ろした。夜空は曇っていて、星は見えない。


「ケルゲンに着いてから、いくつか噂を聞いた」


セイリョウが、静かに切り出した。

ユナは、寝台の端に座り、耳を傾けた。


「南の方で、紺毛狐フルマの異変があるらしい。飼い慣らされていた狐が暴れる。逃げる。原因不明の病が出る。どこも同じ話だ」

「ナユロの村と、同じ......」

「そうだ。村の狐も、紺毛狐フルマも、何かが起きている」


セイリョウは、窓の外を見た。


「それだけではない。鳥の渡りが、例年と違うと言う者がいた。鳥が南へ向かう時期が早い。群れが小さい。通る道筋も変わっている。鉱山で働く者たちは、鳥を季節の目安にしている。だから、気づいた」

「鳥が......」


ユナは、考えた。狐の異変と、鳥の異変。二つが繋がっているのかどうか、まだわからない。だが、どちらも、何かが変わりつつある兆しに思えた。


「もう一つ」


セイリョウの声が、僅かに低くなった。


「都サトの方角で、不穏な動きがあるらしい。人の出入りが増え、見慣れない者が山間の道を行き来している。何をしているかは、誰もわからない」


ユナは、黙っていた。

セイリョウが、懐から、あの赤い首飾りの入った袋に触れた。今度は、隠さなかった。


「都サトの近くに、姉のような人がいる。カルラ・イェスリ。かつて、同じ師の下で学んだ人だ。会えば、助力を得られるかもしれない」

「カルラ・イェスリ......」

「鳥に通じた人だ。鳥の声を聞き分け、鳥を使って遠くの情報を集める。あの人がいれば、見えないものが見えてくる」


ユナは、星市で受け取った三つの石を、袋から取り出した。

掌に載せると、濁った灰色の石が三つ、鈍く光っている。


「他の石と違って、なんでこんなに濁った光なの」


ユナが呟くと、セイリョウは石を一瞥した。


「ガイ・トウジンが関わったものかどうか......いずれにしろ他と違うものなら、何かの手掛かりにもなるかもしれない」


窓の外で、風が鳴った。

ユナは、石を袋に戻し、膝の上で握った。


「ガイ・トウジン」


ユナが、ぽつりと言った。

袋を握った手に、ぐっと力がこもった。


セイリョウは、それに気づいたが、何も言わなかった。

部屋に、沈黙が満ちた。窓の外の風が止み、夜が、重く、静かに降りてきた。


ユナは、寝台に横になった。目を閉じると、ギサの手を振る姿が浮かんだ。そのまま、眠りについた。



* * *



出立


二日後の早朝。

ケルゲンの南門に、三人が立っていた。


ユナ、セイリョウ、キラン。

キランは、昨夜、セイリョウの元を訪れていた。


「都サトの方角なら、道案内ができます。山を越え、谷を抜け、平野に出るまで。迷わせはしません」


セイリョウは、しばらくキランの目を見ていた。それから、一つだけ聞いた。


「なぜ、来る」

「歩くことが、祈りだからです。南に祈るべきものがあるなら、南へ歩く。それだけのことです」


セイリョウは、それ以上は聞かなかった。

朝の空気は冷たく、息が白い。南門の石の柱に、朝日が薄く差している。


イルハが、門の内側から走ってきた。


「ユナ!」


息を切らしている。寝間着の上に外套を引っ掛けただけの格好だった。手に、何かを握っている。


「これ」


イルハが差し出したのは、小さな木彫りの護符だった。獣の形をしている。狐か、犬か、判然としない。粗い彫りだが、丁寧に磨かれていた。長く、手の中で握られてきたのだろう。角が丸くなっている。


「ぼくのお守り。あんまり効かないかもしれないけど......」


ユナは、受け取った。掌に収まる小ささ。けれど、温かい。この子の体温が、まだ残っている。


「ありがとう、イルハ。必ず戻るわ」


イルハは、唇を噛んで頷いた。泣くまい、と堪えている顔だった。目が赤い。朝早くから泣いていたのかもしれない。だが、声は出さなかった。

ユナは、護符を背負い袋の一番上にしまった。すぐに取り出せる場所に。


セイリョウが、イルハの肩に、軽く手を置いた。何も言わなかった。イルハも、何も言わなかった。だが、イルハは、少しだけ目を伏せた。初めて、この男の手を拒まなかった。

キランが、南門の外を見た。


「行きましょう。道案内は、私が。」


静かな声だった。

三人は、門を出た。


道の先に、灰色の山が連なっている。鈍色にびいろの空の下、道は南へ、まっすぐに伸びていた。

ユナは、一度だけ振り返った。


南門の前に、イルハが立っていた。小さな影。手を振っている。

ユナは、手を上げて応えた。


それから、前を向いた。



* * *

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