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鈍色の空、狐舞う時  作者: ささかま


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第五章 夜の星市

輝く石


人の波が、道を埋めていた。

ユナとセイリョウは、隊商を探しながら歩いたが、誰もが、夜の星市の会場を目指し、心はここにないようだった。ここぞとばかりに声を張り上げる茶店に、数人吸い込まれては行くが、大方は荷を担いだり、引っ張ったりして、取引の準備に忙しい。


「今日は、道連れの交渉どころではないな......」


セイリョウが、取引の大きな荷物を担いだ一行から、身をかわしながら呟いた。

ユナは、首をしきりに回しては、あたりを警戒して歩いていた。警備が厳しく、弓矢を咎められると聞いていたが、全く警備が見当たらなく、かえって不安になっていたのだ。


人通りの少ない路地に入り、二人はやっと一息ついた。


「いっそ、夜の星市の広場まで行くか、戻るか......」


セイリョウが、ユナを見た。


「行きましょう。ギサが、楽しみにしていた市だし、会えたら、隊商の紹介くらいはしてもらえるかもしれない」

「わかった、進もう」


二人は、再び大通りへ出た。荷物を持った一団は減り、先ほどより、幾分かは進みやすくなった。


「警備がいないみたいだけど......」


ユナは、周りを見ながら、セイリョウに聞いた。


「そうだな、外から来た取引の人間と、見物の者達だけのように見える」


広場まで行けばわかるのでは、とユナが言おうとした時、ようやく入り口についた。人々の歩みが緩やかになり、ユナとセイリョウはその後ろに並んだ。

並んでいるうちに、日が暮れてきた。さらにしばらく経った頃、ようやく二人は広場に入ることができた。どうやら、警備が不在で、大きな荷物を持った者同士がかち合い、言い合いになっていたことが原因で、中に入れなかったようだった。


ユナは、広場に入って驚いた。

広大な敷地に、露店がぎっしりと連なっており、全てが黒い立板に、夜光石イェシルを使った装飾品を飾っている。夕闇が濃くなるとともに、石は光を増し、まるで星々がこの地に一斉に降り立ったかのようだった。


「......!」


ユナが、言葉を失っていると、


「美しいな、これは......」


セイリョウが感嘆の言葉を漏らした。

二人が、そこに立ちつくしている間に、空は黒さを増し、夜が訪れた。目が慣れていくと、夜光石イェシルの輝きは、どれも一様でないことが見てとれた。


二人は、露店を巡り始めた。人の波はとうにおさまり、様々な場所で、取引道具とともに商談が始まっていた。


「なるほど、夜市となるのも納得できる」

「こんなに、それぞれが違うのね、色も、光の大きさも」


ユナが、そう答えた時、下から、


「そう、だ」


と、くぐもった声がした。



* * *



奇妙な男


ユナが、驚いて下を向くと、足元に小さな男がーー中年の男が、座って、黒いボロ布に三つだけ、小さな石を並べていた。光は白く淡く、濁っている。


「こんばんは......あの、きれいな市ですね」


ユナが、あたりさわりのない挨拶をすると、


「そうだろう、ぐふっ、そうだろう。俺も、ぐふっ、そう思うよ」


男は、何度も頷きながら、頭を振った。ハラハラと、男の少ない髪の毛から、何かが舞い落ち、布の上に散って、そこだけうっすらと白くなった。


「ぐふっ、ふっ、あんたも、きれいだ......」


男は、濁ってぼんやりとした目をユナに向け、体をゆすって、笑いながら、手を叩き始めた。

ユナが、その場に突っ立って、男を見ていると、セイリョウが、ユナの後ろから、


「ご商売が、うまくいきますように」


と声をかけ、向こうへ行くぞ、ユナを促した。

ユナは、反対にセイリョウをその場に留め、それからしゃがみこんで、男の手をとった。


「あの!この傷......」


ユナが、男の首筋を指差す。


「ぐふっ、嬢ちゃん......やめとくれ、くす、くすぐったい......」


ユナは、男の首筋を凝視ぎょうししているが、周囲は暗く、セイリョウにはよく見えなかった。


「おじさん、この傷は、どこでついたんですか?」

「や、やめとくれ、離して......」


男は、ユナの手を振り解いた。

と、向こうから、客との取引を終えたらしい、別の店の年嵩としかさの女店主が、明かりを手にやってきた。


「あんた達、その人をいじめるんじゃないよ」


と、厳しい口調で、二人をたしなめた。


「いえ、行方知れずになった兄と、この傷がそっくりで......」


ユナは、明かりに照らされた、男の首の傷跡を、じっと見つめた。


「その人が兄さんだって言うのかい?最近になって現れて、街をふらふらしとるんだ。なんとかしてあげとくれ。この市のことは知っていて、来たいって言うから連れてきたのさ。もっとも、何言ってるかよくわからないけどねぇ」


女店主は、ため息をつきながらそう言った。


「この石は?」


セイリョウがいぶかしげに、男に向かって聞いた。


「う、売り物だ。か、買うかい?でも、他の夜光石イェシルと交換......して、欲しい」


男が、先ほど腕を掴まれたユナに警戒しながら、答えた。

ユナとセイリョウが、その意味を考えあぐねていると、女店主が口を開いた。


「この人はねぇ、最近、この石持ってうろうろしていたのさ。よっぽどこの市に来たかったのか、食べ物あげても、たいして手もつけず......。あたしんところの夜光石イェシルが欲しいってんだけど、これと交換じゃあ、ねぇ......」


セイリョウは、向こうの女店主の店に光る夜光石イェシルを見るまでもなく、男が並べた三つの石の輝きが白くぼんやりと濁り、この夜市に煌びやかに並んでいるどの石よりも劣る、と思っていたところ、ユナが、口を開いた。


「いくらですか?その三つと、向こうの一つを交換で良いですか?」

「お嬢ちゃん、あんた本気かい?」

「ぐふっ、み、三つ、同じ数、欲しい」


女店主と男が、同時に声を上げた。


「三つ、ですね?」


ユナが念を押すと、男が大きく頷いているのを見て、女店主に顔を向けた。


「驚いたね......。うちの夜光石イェシルは一級品だ。安売りはしないよ」


女店主が、ゆっくりと明かりを前にかざして、店へ戻るのに、セイリョウとユナが続いた。男は、黒い布に石を包むと、ひょこひょこと三人の後を追った。

女店主の店は、他より一際大きく、店の二人の青年が、それぞれ裕福そうな商人と、取引をしているところだった。


この店に並ぶどの品物も、石の光がはっきりと大きく、飾り細工も精巧だ。

男は、遅れて前に出ると、迷いなく、純白の光を大きく放つ、三つの首飾りを指差した。


「ご...こ、これが、欲しい。これ......」


ユナは、男の持っていた黒い布を、広げさせた。石は変わらず濁った白だった。


「私が買って、交換してあげます。でも、教えて。この石はどこから?」


ユナが聞くと、男は首を振って唸った。


「う......、うう......」

「首の傷はどこでついたの?」


ユナが重ねて聞くと、男は顔を伏せ、唸り声は大きくなった。


「うう......わから、ない......暗い、痛い......。白い部屋、鉄の匂い......、わから、ない......」


女店主が、いじめるんじゃない、とまた嫌そうな顔でユナを、じろり、と見た。


「ごめんなさい、あの、その三つ、これで足りますか?」


ユナは、そう言うと、背負い袋から粒脂金リルジィンを一粒、取り出した。


「足りるわけないだろう。ん......」


女店主は、足りない、と呟きながらも、金から目が離せないようだ。


「それじゃ......」


ユナは、粒を更に出し、また引っ込めたりして、女店主と交渉し、結局、手持ちの粒脂金リルジィンのほとんどと、ジュウビから押し付けられた銭を全て費やしたものの、三つの首飾りを、手に入れた。


「はい......」


ユナは、男に三つの首飾りを渡すと、男は、ユナを拝みながら、三つの石を、ユナに捧げた。


「うう......、きれいだ、きれい......」


男は、首飾りの石を撫でまわしながら、なおもユナを拝んでいる。


「このままでは、この男が襲われて、せっかくの宝物も、奪われるかもしれんぞ」


セイリョウが、この不思議な取引を眺めながら、女店主に口を出した。


「うちの店で、掃除でもしてもらうかねぇ......」


女店主が、ため息をついた。


「あの、赤い光の、首飾りは、いくらで譲る?」


セイリョウが、そう言いながら、別の棚に目を向けた。男が欲しがった白い夜光石イェシルよりも、更に見事な銀細工が施され、真ん中に嵌め込まれた石が、品の良い、明るい赤い光を放っていた。


「あれは......」


女店主が言い淀んでいると、セイリョウが懐と袋から銭や金を出し、女店主に渡した。


「いや、店で一番ではあるんだ......でもさ、こんなには、しないよ。......こんな大金、あんた、いったい何者だい?」


女店主が、驚いていると、


「それでは、余った分は、この男をあなたが世話する、ということで、受け取ってくれ」


セイリョウはそう言い、赤い首飾りを店の青年に持って来させると、袋に丁寧にしまった。


「さぁ、行こうか」


セイリョウは、何か女店主に聞かれる前に、とでも思ったのか、ユナに声をかけ、店を離れた。

ユナは、男に首の傷のことを、再び尋ねていたが、徒労に終わっていたため、ついに諦めて、セイリョウの後を追った。



* * *



宿への帰路


二人は、連れ立って、夜市を巡りながら、さっきまでのことについて、話していた。


「あの男、首の傷だけじゃない、足を悪くしているようだった。心も壊しているようだが、ユナの兄も、同じような様子だったのか?」

「うん......、首の傷は同じに見えたけど、兄はもっとちゃんと歩いていた、と、思う。口数も少なくて、もっとむっつりしてた。でも、どこか焦点の合わない目は、似てる。心は......わからない」


ユナは、兄の様子を思い出しながら、やはり、どこか似ていた、と感じていた。


「なぜ石を手に入れようと?」

「それも......わからないけど、何か、手がかりになるかもしれないって、そう思ったから......。兄も、妙なものを持っていたわけだし」

「女店主によれば、あの男は最近現れた。ユナの兄とも、同じような時期、ということになるな」

「そうね、それも、気になってる」


二人は、夜市の出店を一通り見終わったが、ティルマへの道連れを交渉できそうな相手や、ジュウビやギサ達には、出会わなかった。相変わらず警備の姿も見えず、ユナの弓が、咎められることもなかった。


「さっき、セイリョウも首飾りを買っていたけど、贈り物?こうやってお店を見ると、赤い光は珍しいのね」


目の前の美しい景色とは裏腹に、殺伐とした話ばかりしていたことに気がつき、明るい調子を作って、ユナが聞いた。


「ああ、姉......のような人に、渡そうと思ってな。都サトへ戻るのなら、会って助力もしてもらえるだろう」

「そう、ヒイノ国への道も、開けるのかしら......もう戻って、休んだ方が良いかもしれない。明日は道連れを探しましょう」

「そうだな。宿へ戻ろう」


まだ多くの人々が、思い思いに商談や見物を楽しんでいる、夜の星市の会場を後に、二人はワダンの街の大通りを戻り、宿までの路地へ入っていった。

これまでの明るい会場や大通りとは打って変わって、路地に灯はなく、星明かりを頼りに、道を進む。


先を進んでいたセイリョウが、細い十字路に差し掛かった時、目の前を、三人の大きな人影が、何かを担いで早足で通り過ぎた。

すんでのところで、ぶつかるところだったセイリョウは、顔をしかめたが、後ろからユナが緊迫した声で、囁いた。


「人さらい!」



* * *



暗闘


セイリョウが振り返った時、ユナはもう走り出していた。

三人の影は、十字路を右に折れ、さらに狭い路地へと入っていく。担がれているのは、人だった。小さな体。布で顔を覆われ、手足を縛られている。もがく力も弱い。


ユナは走りながら、背中の短弓を左手で掴み、右手で矢筒やづつに手を伸ばした。

路地は暗く、足元が見えない。石畳の凹凸に、何度もつまずきかける。


三人の影との距離が、縮まらない。男たちは大柄だが、足が速かった。このままでは、建物の陰に消えてしまう。

ユナは立ち止まった。


矢を一本、引き抜く。弦につがえる。

暗闇の中、的は見えない。男たちの背中が、わずかな星明かりに浮かんでは消える。


手が、震えていた。

盗賊に襲われた時は、構える暇すらなかった。今は、時間がある。だが、当たるかわからない。外れれば、向こうはこちらに気づく。暗がりで追いつかれたら――


指先が、冷たかった。

担がれた体が、ふっ、と動いた。もがいている。まだ、生きて、抗っている。


ユナは、息を吐いた。短く、細く。

放った。


矢は闇を裂き、低い音を立てて、先頭の男の肩口あたりに吸い込まれた。

男は声にならないうめきを上げ、よろめいた。担いでいた体が、地面に落ちる。


「なんだ!」


後ろの二人が立ち止まり、振り返った。

その隙に、セイリョウが追いついた。長剣を抜き、路地の幅いっぱいに刃を横に構えると、低い声で言った。


「その子を置いていけ」


二人の男は、顔を見合わせた。一人が腰から短刀を引き抜き、もう一人が地面の子どもを拾い上げようとする。

セイリョウが、一歩踏み込んだ。剣先が暗闇で鳴った。


短刀の男が斬りかかってきたが、セイリョウはそれを受け流し、そのまま体を入れ替えて、背後に回った。肘を打たれた男は短刀を落とし、壁に背中をぶつけた。

もう一人の男は、子どもを抱え直そうとしていたが、矢を受けた先頭の男が「引け」と低く叫んだ。


三人は、子どもを置き去りにして、路地の奥へと走り去った。

足音が遠ざかり、やがて消えた。


ユナは、弓を下ろした。指が、まだ震えていた。

矢をつがえた瞬間のことは、よく覚えていない。体が動いた。それだけだった。


当たったのか、という考えが、遅れてやってきた。


「ユナ」


セイリョウが、静かに声をかけた。

ユナは、弓を背中に戻し、地面にうずくまっている小さな体に、駆け寄った。



* * *



少年


布をほどくと、少年だった。

ユナよりも年下だろう。痩せてはいるが、顔立ちは整っている。肌は浅黒く、髪は短く刈られていた。


目は、大きく見開かれていた。おびえている。だが、涙は流していなかった。


「大丈夫。もう安全よ」


ユナが、手足の縄を解きながら言った。

少年は、ユナの手を見つめ、それから顔を見上げた。


「......助けて、くれたの」


声は、震えてはいたが、はっきりしていた。

セイリョウが、路地の両端を警戒しながら戻ってきた。


「追手は来ないようだが、長居は出来ない。立てるか?」


少年は、頷いて立ち上がった。足元はふらついていたが、ユナが肩を貸すと、しっかりと歩き出した。

三人は、路地を抜けて、大通りの端に出た。夜市から戻る人々の流れがまだ続いており、その中に紛れると、少しだけ息をつくことが出来た。


「名前は?」


セイリョウが、歩きながら、低い声で聞いた。

少年は、しばらく黙っていた。ユナの肩に手を置いたまま、足元を見ている。


「......言えない」

「なぜ」

「言ったら、また来る」


少年の声は、硬かった。年の割に、こちらの言葉をよく理解している。


「あの男たちは、前にも来たのか?」


セイリョウが重ねて聞くと、少年は小さく頷いた。


「前は......もっと長く、つかまってた。白い部屋で......」


ユナの足が、止まった。


「白い部屋」

「......うん。白い壁で、鉄の匂いがして。薬を飲まされて、体が動かなくなって......」


少年は、淡々と言った。まるで何度も繰り返し、自分に言い聞かせてきたかのように。

ユナは、星市で出会った、あの男の言葉を思い出していた。


白い部屋、鉄の匂い。

兄の首の傷。あの男の首の傷。


「......あなたの首に、傷は?」


少年は、襟を引き下げた。首の右側に、細い瘢痕はんこんが、三筋ほど走っていた。

ユナとセイリョウは、目を合わせた。


三人目だった。



* * *



ケルゲンへ


宿には戻らなかった。セイリョウの判断だった。


「あの男たちが、宿を知っている可能性がある。今夜のうちに、ワダンを出た方がいい」


三人は、夜市の喧騒けんそうがまだ残る大通りを避け、街の外縁を辿って、南の門へ向かった。

門といっても、石柱が二本立っているだけで、番人もいなかった。夜市の夜は、街全体がゆるんでいる。


門を出てしばらく歩くと、街の灯りが遠くなり、星の光が、濃さを増した。

道端の窪みに、枯れ草が溜まっている場所を見つけ、セイリョウは短い休息を告げた。


ユナは、少年を座らせ、水筒の水を差し出した。少年は、礼も忘れて一気に飲み干した。


「行き先はあるのか?」


セイリョウが、少年に聞いた。

少年は、水筒を両手で握ったまま、しばし黙っていた。


「......ケルゲン」

「ケルゲン?都の?」


ユナが聞き返すと、少年は頷いた。


「家が、ある。ケルゲンに」


セイリョウが、腕を組んだ。


「我々もケルゲンを経由する予定だった。道連れがいなかったが......まぁ、三人で行けないこともない」

「ケルゲンには、何があるの?」


ユナが、優しく聞いた。

少年は、ユナの顔をじっと見てから、ぽつりと言った。


「兄が、いる」


その声は、ユナの胸を、小さく突いた。


「......わたしも、兄を探しているの」


ユナがそう言うと、少年は驚いたように顔を上げた。


「ほんとう?」

「ほんとう。だから、あなたをケルゲンまで送るわ」


少年は、しばらくユナを見つめていたが、やがて、小さく頷いた。


「ありがとう。......ぼくの名前は、まだ言えない。でも、ケルゲンに着いたら、話す」


セイリョウが、ユナにだけ聞こえるように囁いた。


「王宮関係の者かもしれん。言葉遣い、立ち居振る舞い、そして何より、名を明かせないという判断。子どもにしては、出来すぎている」


ユナも、同じことを感じていた。


「逃げ出した、と言ったわね。白い部屋から。兄と同じなら......」

「ああ。ガイ・トウジンの手が、ここまで伸びているのかもしれない」


風が、枯れ草を揺らした。

少年は、疲れ切ったのか、座ったまま目を閉じていた。小さな体が、浅い呼吸とともに、かすかに揺れている。


「少し眠らせてやろう。私が見張る」


セイリョウが言うと、ユナは少年の肩に自分の外套をかけた。


「セイリョウ」

「なんだ」

「わたし、当たったのかな。さっきの矢」


セイリョウは、少し間を置いてから答えた。


「当たった。肩口だ。深くはないが、あの暗闘の中で、走っている人間の肩に当てたのは、大したものだ」


ユナは、自分の右手を見た。まだ微かに、弦を弾いた感触が、指先に残っていた。

人に向けて、矢を放った。


初めてのことだった。

怖かったはずだが、今は、不思議と、後悔はなかった。あのまま見過ごしていたら――その方が、ずっと恐ろしかった。


ユナは、少年の寝顔を見つめた。

白い部屋、鉄の匂い。兄も、この子も、あの星市の男も。


同じ場所に、囚われていた。

夜空には、雲ひとつなかった。ワダンの灯りが北に遠く、淡く、揺れていた。


「夜が明けたら、ケルゲンを目指そう」


セイリョウが、星を見上げながら言った。

ユナは頷き、弓を膝に抱えたまま、目を閉じた。


指先に残る弦の感触が、いつまでも消えなかった。



* * *

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