第十章 帰還
戦いの後
音が、止んでいた。
角笛も、馬蹄も、人の叫びも。遠くで誰かが名を呼ぶ声が、かすかに聞こえたが、それも木々に吸い込まれていった。
ユナは、地面に手をついたまま、動けずにいた。
膝の下の土が、冷たい。朝露なのか、別の何かなのか、わからなかった。
目の前に、キランがいた。
手を地につけた姿のまま、僧衣の背に、朝の鈍い光が差している。祈りの紐が、手首から地面に垂れて、土に触れていた。
ユナは、その紐を見つめていた。
ずっと見ていた。
どれほどそうしていたのか、わからなかった。
* * *
足音が近づいてきたのは、日がもう少し昇った頃だった。
タクトが、私兵を連れて森の中を捜索していた。
「ユナ」
タクトの声は、低く、平らだった。
ユナは、顔を上げた。タクトの目が、キランを見て、止まった。
顎を引いた。それだけだった。
タクトが、私兵に指示を出した。短い言葉で、感情を交えずに。だが、その目の底に、何かが揺れていたことを、ユナは見た。
* * *
セイリョウが来たのは、それからすぐだった。
ユナの前に立ち、キランを見下ろした。顔から表情が消えていた。
しばらく、何も言わなかった。
やがて、低い声で、
「ここに、葬ろう」
木漏れ日の差す場所だった。木々の間から、鈍色の空が細く見えている。
キランを、土に埋めた。私兵が穴を掘り、ユナが祈りの紐を手首から外した。紐は、キランの胸の上に置いた。
ユナの指が、紐に触れた時、震えた。それが、この戦いの中で初めての震えだった。
そして、割れてしまった護符を、ともに置いた。
土をかけた。セイリョウが、最後のひと掬いを手で載せた。
誰も、祈りの言葉を知らなかった。
ユナは、キランの言葉を思い出した。
歩くことが、祈りだ。
声には、出さなかった。ただ、口の中で、唇だけが動いた。
* * *
カルラが合流したのは、昼前だった。
王の軍を率いて到着し、ガイ・トウジン勢の残党を掃討している最中に、キランの死を聞いた。
カルラは、キランの墓の前に立った。
目を伏せた。長く、長く。
それから、顔を上げて、ユナを見た。
「よく、戦った」
短かった。それ以上は、言わなかった。
ユナは、頷いた。声が出なかった。
* * *
昼を過ぎた頃、王の軍の文官が、ユナのもとに来た。
「ユナ殿。王より、お伝えしたいことがあると」
文官は、巻紙を広げた。
「セイリョウ殿より、ユナ殿の出身地であるナユロ村のことを伺いました。印を結ぶ風習、弓の遠当てで決着をつける習い。王は、古い記録を確かめました」
ユナは、黙って聞いた。
「遠い昔、ティルマ国に仕えた戦士の一族がありました。弓に優れ、独特の印を結ぶ風習を持つ一族です。ある時、当時の王と折り合いが悪くなり、国を追われたと記録にあります。その後の消息は途絶えていますが」
文官は、巻紙から顔を上げた。
「王は、ナユロ村の風習が、その一族の名残ではないか、と。もうティルマ国との間に遺恨はなく、いつ都に来てもらってもよい、歓迎する、とのことです」
ユナは、しばらく黙っていた。
祖父が、多くを語らなかった理由。あの石橋の向こうの村が、山あいの辺境に隠れるように存在していた理由。
そうかもしれない、と思った。
驚きはなかった。ただ、胸の奥で、何かが静かに収まるような感覚があった。
「ありがとうございます。王に、感謝をお伝えください」
文官が去った後、ユナはしばらく立っていた。
セイリョウが、王に伝えたのだ。茶店で聞いた村の話を。ユナのことを。
それは、信頼の形だ、と思った。
* * *
セイリョウが、ユナの隣に立った。
「村へ戻るのか」
ユナは、セイリョウを見た。
灰色の外套は泥に汚れ、腰の長剣の柄にも血が残っていた。だが、立ち方は変わらない。涼しげで、こともなげで、最初に飯屋で声をかけてきた時と同じだった。
「セイリョウは」
「残る。カルラと後のことを片づける。彼女のそばにいて、助けたい」
「そう......王に、村のことを伝えてくれたのね」
セイリョウは、僅かに目を伏せた。
「手がかりになると思った。それだけだ」
それだけではないことを、ユナは知っていた。
「また会えるか」
「会える。道が続いている限り、会える」
セイリョウは、ユナの目を見た。旅の始まりにはなかった、柔らかさが、ほんの僅かに、目の奥にあった。
ユナは、手を差し出した。セイリョウは一瞬驚いたように見えたが、すぐにその手を取った。硬い掌だった。剣を握り、閃光弾を投げ、ユナを庇い続けた手だった。
「ありがとう。本当に」
ユナが言うと、セイリョウは首を振った。
「それは、こちらの台詞だ」
* * *
タクトが、ユナの前に来た。
「いい弓の腕だ。度胸も」
タクトが言った。声は、いつもの通り、平らだった。だが、襟の上で、古い傷跡が、朝の光に僅かに白く見えていた。
ユナは、頷いた。
タクトは、顎を引いた。それだけだった。
だが、ユナは見た。タクトの目に、何かが灯っていたのを。あの施設から自力で這い出た男の目に、光が戻っているのを、確かに見た。
ユナは、弓と矢筒を背に結んだ。
袋を背負い、キランの墓を、一度だけ振り返った。
木漏れ日が、土の上に落ちていた。
ユナは、歩き出した。
* * *
帰路
道は、来た時と逆に流れた。
都サトの壁を遠くに眺め、丘陵を越え、街道を辿る。来た時は三人だった道を、一人で歩いた。
季節が変わっていた。
春に村を出た。旅の間に、夏は終わりかけていた。草の丈が伸び、風が温かく、虫の声が道の端に満ちている。
足は、止まらなかった。
キランの言葉が、歩くたびに蘇った。わかろうとしなくていい。歩くことが、祈りだ。
ユナは、歩いた。
峠を越え、谷を下り、山間の道を北へ進んだ。宿を借り、野営をし、水を汲み、干し肉を齧った。
一人だった。
だが、旅の始まりの一人とは、違っていた。
セイリョウの姿が、キランの目が、カルラの指が、タクトの顎の引き方が。ギサの手を振る姿が、浮かんでくる。
そして、皆の声が、いつだってよみがえって聞こえてくる。
* * *
石橋
ナユロの村は、山間の段丘に張りつくようにしてある。谷の対岸に渡るには、一本の古い石橋を越えねばならない。
ユナは、峠道を下りながら、その石橋を見た。
霧はなかった。空は鈍色に曇っていたが、暗くはない。
石橋の手前に、人影があった。
低い土手のあたりに、しゃがんでいる。日焼けした顔。褐色の前掛けに、籠。
タエだった。
ユナは、足を止めた。
タエが、顔を上げた。
目が合った。
タエの目が、ふっ、と緩んだ。立ち上がろうとして、よろめいた。きまり悪そうにしながらも、そのまま立ち上がり、籠の縁を掴んで、こちらを見ていた。
「……帰ってきたのかい」
ユナは、頷いた。
声が、出なかった。胸の奥が、詰まっていた。
タエは、籠から西餡を二つ取り出し、平たい石の上に置いた。
あの日と、同じだった。
ユナは、石の上に腰を下ろし、西餡をひとつ手に取った。
口に入れた。
酸っぱくて、甘くて、ちょっと苦い。
目の奥が、熱くなった。
もうひとつを、立て続けに頬張った。顎を動かしながら、視界が、滲んだ。
ユナは、一度だけ、強く瞬きをした。
タエは、何も言わなかった。ただ、隣に腰を下ろしていた。風が通り抜け、笹の葉がさらさらと鳴った。
しばらく、二人はそうしていた。
「タエさん」
「うん」
「帰ってきた」
タエは、笑った。目尻に皺が寄り、唇が震えた。
「おかえり」
タエは、籠の底から、布に包まれたものを取り出した。
「預かっていたものだよ」
布を開いた。
深い紅色の絹。白い花が、裾に散っている。畳み皺がついているが、絹の艶は失われていなかった。
母の、晴れ着だった。
嫁入りの時に着た着物だと、幼い頃に聞いたことがある。母の声で。その声が、もう、思い出せなくなっていた。
タエは、それ以上、何も言わなかった。布に包み直して、ユナの膝の上に置いた。
ユナは、両手でそれを受け取った。絹の重みが、掌に伝わった。
背負い袋に、そっとしまった。
ユナは、立ち上がった。
袋を背負い直し、石橋に足をかけた。
石の感触が、足裏に伝わった。冷たく、硬く、確かだった。
橋を渡った。
振り返らなかった。
* * *
兄との再会
家は、そこにあった。
板壁。草の屋根。薪割りの場所。井戸。
何も変わっていないように見えた。
ユナは、戸口に立った。
低く湿った靴音が、板の間を踏みしめる。
あの日、この場所に立ったのは、兄だった。
今は、ユナが立っている。
戸を開けた。
囲炉裏に、小さな火が入っていた。
鉄鍋が、静かに湯気を立てている。
その奥、柱に背を預けるようにして、ナギが座っていた。
ユナは、息を止めた。
兄は、顔を上げた。
目が合った。
あの日は、兄は目だけをユナに向け、言葉もなく、頷きもせず、ただ見ただけだった。その目の奥には、ユナの知る何者もいなかった。
今は、違った。
ナギの目が、ユナを見ていた。焦点が合っている。ユナを、見ていた。
その目の奥に、何かが、ほんの僅かに、灯っていた。
光と呼ぶには弱い。だが、闇ではなかった。
ユナの知る兄では、まだない。糸繰り人形のような硬さが残り、頬はこけたまま、唇は固く結ばれたまま。
だが、目が、違う。
ナギの唇が、微かに動いた。
声にはならなかった。
けれど、ユナには、わかった。
兄は、自分の足で、ここに帰った。
まだ何かが残っている。消えていない。
カルラの言葉が、耳によみがえる。
ユナは、背負い袋を下ろした。弓と矢筒を壁に立てかけた。
棚の手前から碗を一つ、奥からもう一つ碗を出した。
鉄鍋から汁を掬い、碗に注いだ。
ひとつを、兄の前に置いた。
ナギは、碗を見つめていた。長い間、見つめていた。
やがて、ゆっくりと、手を伸ばした。碗を持ち上げ、汁を口に運んだ。
ユナは、自分の碗を手に取り、静かに、飲んだ。
囲炉裏の火が、ぱちり、と音を立てた。
* * *
井戸と祠
結局、祖父は戻らなかった。
ガイ・トウジンの拠点から解放された人々の中にも、祖父はいなかった。近隣の村にも、街にも、消息はなかった。
ユナは、薪割りの場所に立った。
鉈が、置いてある。
祖父が使っていた、あの鉈。刃は錆びかけていたが、柄の握りの部分だけが、磨り減って滑らかだった。何年も、何十年も、祖父の手が握り続けた跡だった。
* * *
その後、兄の世話をしながら冬を過ごした。
兄は徐々に目に光を取り戻し、ぽつぽつと声を出すようになった。
自分の身の回りのことは、不自由なくできるようになり、ユナは一人で畑や山へ行くことが増えた。
一度だけティルマ国の王宮から文官と武官がやってきた。
王の感状と少しばかりの金子、華やかな布が贈られた。
ガイ・トウジンは捕らえられ、今は独房で処刑を待っているとのことだったが、ユナにはもう怒りが湧いてこなかった。
ただ、キランのことを無念だと感じるばかりだった。
* * *
春の訪れを待つ頃、ユナは山裾の祠を訪ねた。
供物の台は倒れたまま。苔が石段を覆い、蔓草が柱に絡んでいる。荒れた姿は変わっていなかった。
戦士の村を示すようなものは何もなかったが、祠の前の土に、足跡があった。
小さな、獣の足跡。四つの爪痕が、土に浅く刻まれている。
狐一匹分。
ユナは、足跡をしゃがんで見た。
新しい。昨夜か、今朝か。
それだけだった。
祠は荒れたまま。供物もない。
ただ、足跡が、ひとつ、あった。
* * *
結び
夕刻。
ユナは、家の前に立って春を感じていた。
空を見上げた。
鈍色の空。
晴れてはいない。雲は低く、山の稜線を覆い、夕日の色も滲まない。
この村の空は、いつもこうだった。霧が出なくとも、鈍い灰色が、山の上に横たわっている。
だが、暗くはなかった。
その空の下、山裾の草が揺れた。
影が、動いた。
一匹の狐だった。
茶色い毛の中に、僅かに紺の筋が混じっている。痩せてはいたが、足取りは軽かった。
狐は、草の上を走った。暴れるのではなく、跳ねるのでもなく、ただ、軽やかに。体を捻り、尾を翻し、草の間を縫うように。
舞うように。
ユナは、その姿を見ていた。
狐は、山裾の草を一巡りすると、ふっ、と身を翻して、山の中へ消えた。
風が、残った。
草が、余韻のように揺れていた。
足元で、鳥が鳴いた。短く、上がり調子の声。
集まれ。
ユナには、その声がわかった。
遠くで、もう一羽が応えた。同じ声。同じ調子。「集まれ」「集まれ」
鈍色の空は、晴れない。祖父は戻らない。兄は生活には困らなくなったが、目にはまだ影が残る。全てが元に戻ったわけではない。
だが......
ユナは、目を前に据えた。
鈍色の空の下、風が吹いていた。
ユナは、己の中から動かされるように、しっかりと、歩き出した。
* * *




