第二章 隊商の出発
峠道
道は、冬と春のあいだにあるようだった。
登るほど、冷えていく。
霜は溶けきらず、陽は照っても、風に匂いが残っている。ぬかるみと冷気が、交互に足を鈍らせた。
ユナは背負い袋の重さを肩に感じながら、静かに歩を進めていた。
その底には、包み直した鞘と、砕けた木箱と、黒ずんだ布切れが潜んでいる。
峠の中腹で片側が開けた、と、後ろからの急な風にあおられ、ユナはふらついた。日は翳り、暗い谷を覗きこんで、ひやり、とした。遠くで、鳥が叫んだようなひと声をあげた。
ユナは左手の薬指の先に、親指の爪を食い込ませていた。
小さい頃から、恐怖を感じるたびに、そうする癖があった。
痛みが残る前に指を離し、風に歯向かうように身を屈めて、前を目指した。
* * *
昼を過ぎた頃、小さな沢を渡った先に、岩に腰を据えられる場所を見つけた。
背負い袋から干肉を取り出すと、片手で印を結んでから、裂いて口に放り込んだ。
一人での食事の際には、印を結んでから、というのが、ナユロ村の習いだった。
硬いし味は薄かったが、それでも食べた。
指は、道に飛び出して生えている葉で拭う。
干し肉の残りは、また背負い袋に戻した。
沢まで戻ると、水で手を洗い、汲んで飲んだ。
外が寒いせいか、水をぬくい、と感じた。
夕刻になって、冷え込めば、また霧が出るだろう。
一人での山道で、気を張っていたせいか、疲れを感じるのが早い。
右手で首の裏をさすった。
だが、急がねば。霧で迷うわけにはいかない。再び歩き出した。
* * *
斜面の陰に、崩れた動物の巣を見つけた。
掘り返された土。干からびた草。
その隅に、白く光る小さな骨――仔狐の頭蓋――があった。
風が一本、草を撫でていった。
狐は、ティルマ国では、二種が知られていた。
貴族が飼い慣らし、信仰の対象である紺毛狐と、それ以外の野狐である。
ユナは、野狐しか見たことがないし、これは、きっとその子供だろうと思った。
可哀想に......と目をやると、巣の周囲には、別の足跡もあった。
小さな獣ではない――もっと重く、大きい、何か。
例えば、人間とか。
そう、ユナは考えて、目を逸らした。
そして、歩みを進めた。
* * *
峠下の風避け小屋に着いた頃には、あたりは暗くなっていた。
小屋は木と石で組まれ、草の屋根と壁が、風を遮ってくれていた。
中には、古い焚き火の跡。
炭や薪は残されており、簡単に火を起こせそうだ。
ユナはほっとして、包みの奥から火打石を取り出した。
布を裂き、種火をつける。
炎が大きくなって、人心地がついた。
干し肉の残りを炙り、食べた。
腹がくちくなると、道中で手折った甘酸樹の枝を、短刀で細く削ると、口に咥え、歯を擦った。
口の中にほんの少しの甘さが広がり、その後でじんわりと心地よく痺れるのを感じると、ユナはぽい、と枝を火の中へ放った。
枝が燃え切ると、あとは熾火が仄かに瞬くだけだった。
風の音も止み、鳥の声もなくなった。
静かだった。
草の壁に、ユナの影が揺れた。
膝を抱え、丸くなっていても、薄く伸びる自分の影は、まるで別人のように思えた。
明日は、早く発とう。
熾火に灰を被せ、うずくまったまま、ユナは目を閉じた。
* * *
ひとつの影が、風除け小屋の裏に、沈んでいた。
衣の色は、完全に闇に溶けている。目元は細く、闇の中で、その端だけが、かすかに動いている。
小屋の中で、火の気配が、消えた。
影は、音もなく、小屋へ向かった。
影から、うねった細い何かが、飛び出した。
その時だった。
――ざっ、ざっ、ざっ、と、遠くから急ぐ足音がふたつ。
真っ直ぐに、こちらへ向かってくる。
影は、小さく呻くと、去った。
「ああ、着いた着いた。」
足音の大きい方が、朗らかに言った。
「はぁ、はぁ......とうちゃん、遠いって」
不機嫌そうな声が、続いた。
聴き覚えのある声に、ユナは目を開けた。
戸を開けて、ナユロ村のイソクと、息子のサネが入ってきた。
イソクは、手探りで空いていることを確かめると、ずしり、と音をさせながら、荷を置いた。
「ユナです。その、つぶさないで」
と、ユナは声をかけた。
「おお、おお。そうかそうか」
イソクは慎重に、体を小屋の奥に、押し込めると、息子に、寝る場所を指示した。
小屋は、三人でいっぱいだった。
「サネをな、街で学ばせるつもりでな。何日か後で良かったんだが、おまえさんのことで、触れも出たしな、どうせな、街まで行くのだから、じいさん探しもついでだ、と思い立ってな」
イソクは、小さい声で話しているつもりだろうが、小屋が揺れるほどの大きさだ。声は、話すほどに、ますます大きくなった。
「だいたいサネは、畑も弓も向いとらん。街でな、商いでもやれば、陰気も治るわい」
イソクがそう言うと、サネは小さく舌打ちをして、もう寝る、と横になった。
「おじさん、ありがとう。明日は、早く発ちたいから、わたしも寝ます」
ユナはイソクの返事を待たずに、また目を閉じた。
* * *
翌朝、体が疲れていたのだろう、結局日が昇ってから、ユナは目覚めた。
イソクは筒から水を飲み、サネが小さくあくびをしている。
「うなされとったな、ワシのイビキで寝れんかったか」
イソクが、ユナに明るく声をかけた。
そんなことはない、とユナは首を振りながら、荷を確かめてから、立ち上がった。
先に行きます、と声をかけ、ユナは小屋を出た。
幸い霧は浅い。後は下るだけだ。
ユナはしっかりと、一歩を踏み出した。
* * *
鍛冶屋の夫婦
昼過ぎ、ユナが、街の入り口に立つと、簡素な椅子に座り、日を浴びていた老人に、見咎められた。
じっと老人は疑わしげな視線をユナに送ったが、じきにふいっと目を逸らした。
別の道から、がやがやと、人が来る方に、気を取られたらしい。
ユナは居心地悪く、早足で鍛冶屋を目指した。
街に来たのは、祖父に連れられた一度だけだったが、鍛冶屋は初めに寄ったので、入り口からの道は、よく覚えていた。
石畳の隙間には草が生え、路地を行く荷車の車輪が鈍く軋む。
遅い昼食だろうか、数軒の家からは、煙が立ちのぼっていた。
大通りを曲がった路地の、ひとつの軒先、煤けた鉄環がぶら下がる、店の前に立った。
「ごめんください」
ユナは戸を押し開け、店に入った。
中には、斧や鉈、蝶番など道具類が並び、女が二人いた。奥からは、鉄を打つ音が聞こえる。
帳台に立つ女ーー鍛冶屋の女房が、ユナに気づいて、おしゃべりをやめ、
「はい、いらっしゃい」
と声をかけた。
背を向けていた手前の女も、振り返ってユナを見たが、すぐ向き直ると、世間話を続けた。
「だいたい、ウチの人は、いつもほうぼうをほっつき歩いて......、きちんと仕事もしやしない」
鍛冶屋の女房は、また始まったという顔で、
「まぁまぁ......。最近はちゃんとしたって、言ってたじゃないか。羽振りも良いって聞いたよ」
と相槌を打った。
「この前は、珍しく娘にお土産なんて買って来たから......。でも、またさぁ......」
「あの」
終わりそうにない会話に、ユナが、割って入った。
鍛冶屋の女房が、手前の女に、ごめんよ、と手を振ると、ユナの方を向いた。
手前の女は、まだ話し足りない様子を見せながら、店を出ていった。
ユナは帳台の前まで行くと、話を始めた。
「ナユロ村のユナです。以前、祖父と伺ったことがあります。その時は、鉈や鉄材を買いました」
鍛冶屋の女房は、心底すまなそうな顔で
「それは、ありがとうね。だけどね、うーん......悪いんだけど、あんたの顔は、覚えてないね」
「それで、その......一昨日の夜から、祖父が家に戻らなくて。その前日には、兄も」
ユナは、淡々と話したつもりだが、低い声の調子は、悲しさを際立たせた。
「それは......災難だねぇ。でも、ここには来ていないと思うけど」
「いえ、こちらに伺ったのは、見て欲しいものがあって」
言いながら、ユナは背負い袋の奥から、布の包みを取り出した。布をほどき、黒漆の鞘が露になる。それを、帳台の上に置いた。
「これを……兄が、置いて出て行きました。何か、手がかりかと」
ユナは続けて言った。
「あと、中を確かめたくて。刃が、抜けないんです」
女房は、鞘を見ると、怪訝そうに、鐺を触ってから、眉根を寄せた。
そして何も言わずに、奥へ入ると、すぐに戻った。
「あたしじゃ、わからないからさ。うちの人に、話してくれる」
女房が、そう言い終わった時、奥から、髭面の男......鍛冶屋が出てきた。
ユナは鍛冶屋に、もう一度話を繰り返した。
鍛冶屋は、祖父のことを、覚えていたようだ。
「そういえば、女の子を連れていたかな。まぁ、災難だなぁ、身内が消えるなんて......。以前はたまに聞いたが、最近は平和そのものだ。うちでも武具は売れやしねぇ。鍋を直しても儲からん」
「この鞘から、何かわかりませんか」
ユナは、真っ直ぐに鍛冶屋を見ながら、言った。
鍛冶屋は、鞘を持って、ひっくり返したり、重さを確かめるように上下させながら、ぶつぶつと呟いた。
「細いな。それに短い。む......重い。材はわからんが、黒漆を重ねとる。水には強くなるが、手間がかかる。銀細工は浮き彫りで、これは姫五葉の草を模しているな。子孫繁栄とかの意味がある。一般的な模様だが、浮き彫りは腕が必要だし、これは仕事が丁寧だ。鐺の紋は......これも良い仕事だが、何の紋かは、わからん」
「刃が、抜けないんです。どうにか出来ませんか」
と、ユナが言うと、
「こんな折れ方は、普通ないが......よっぽど強い力で、柄から捻り折られたか。刃を取り出すんなら、鞘の口金を熱して戻し、刃の歪みを無理矢理直せば、あるいは。な」
鍛冶屋は、ちょっと待ってろ、と言い、奥へ入っていった。
ごぉっ、という炎をあおる音が、しばらく続いた。
女房が、ユナに、思い出せなかったことを、改めて詫びていると、鉄を叩く大きな音で、遮られた。
何度も何度も、鉄を叩く音がして、やがて止んだ。
鍛冶屋が、奥から出てきた。
火挟の先に、抜き取った刃を持っている。
「まだ熱いぞ」
と言いながら、刃を帳台の上に置いた。
「銘も無いし、研がれてもいない。ただの鉄だ」
鍛冶屋は、火挟で、刃ーーいや、鉄片の先を、とん、と叩いて言った。
「鞘は、良い作りだがなぁ」
鍛冶屋が、惜しそうにしている。
「そんなこと、あるんですか」
ユナが聞くと、鍛冶屋は
「いや、ねぇな」
と返した。
「ちょっとあんた」
鍛冶屋の女房が、夫を小突いた。
鍛冶屋は、妻の目で察して、奥に入ると、鞘を持って戻り、それも帳台の上に並べた。
女房は、わからないけどさ、と前置きしながら、言った。
「これなんだけど、あたし、見たことあるかもしれない」
そう言いながら、鐺の紋を指差した。
「店を構えてすぐの頃だから、もうずいぶん前になるけど......店に来たばあさんが、こんな模様の襟留めをしてた。偉そうに指図するし、嫌な感じでさ。お着きの若い女がいて、それも同じ襟留めをしてた。ヒイノ国から来たって。で、今すぐ馬車を直せ、夜市に間に合わない、馬車は街の入り口だ、とか言うもんだから、怒って追い返したんだ」
「その頃、お前、ずいぶんこの話をしてたな、そういえば」
と鍛冶屋が呆れた顔をした。
「だって、あんまり態度が悪いもんだから」
と女房は、また怒りを思い出したように、答えた。
「ヒイノ国...。そこに行くには、どうすれば良いでしょうか」
ユナは、たった一筋の手がかり、と言わんばかりに、身を乗り出した。
鍛冶屋の夫婦は顔を見合わせると、女房が
「ずいぶん遠いさ、女一人で行こうなんて気を起こすんじゃ無いよ」
と、嗜めるように言った。
「こんな細い話を頼りにされたら、こちらも困る」
鍛冶屋も続けた。
「そうですか......」
ユナは肩を落とした。が、目には、ぐっ、と力が入ったままだ。
「まぁ、代金はいらないからな。じいさんと兄さんのこと、災難だったな」
と鍛冶屋は、奥へ入ろうとした。
お代は払わせてください、とユナは、いくばくかの銭を女房に押し付けると、鞘と鉄片をしまい、礼を述べて、店を出た。
* * *
街の空は、すでに傾いた日差しに、濁り始めていた。
ユナは、宿を探し、二度、三度と路地を間違えた末、ようやく、一軒の古い宿に入った。
寝床があり、鍵がついている――それだけで十分だった。
小さな部屋に通され、荷を下ろした瞬間、背中が重く沈んだ。
ぎぃ、と軋む木製の寝床の上に転がり、天井の梁を見つめた。
明日からは、祖父と兄を探しながら、ヒイノ国を目指そうか......。
路銀が尽きたら、どうしようか......。
ユナは、ひとしきり煩悶したが、いつしか眠りについていた。
* * *
隊商の広場
朝の街は、まだ眠っていた。
商いの店先には、簾が半分しか上がっておらず、路地には人影もない。
石畳に残る夜の湿気が、革靴の底に冷たく吸い付いてくる。
短弓と矢筒に、目立たぬよう布をかけて縛った。
宿を発つ時、女将から、物騒だ、と顰めっ面で言われたのだ。
人探しなら衛兵の詰め場だろう、と当たりをつけ、宿で聞いた場所を目指した。
* * *
街は、もうすっかり目を覚ました。
朝の炊事の煙や湯気が、あちらこちらから、立ち上っている。
ユナは憤然とした様子で、坂を下りていた。
衛兵達は、酒を呑んでおり、祖父やナギの話を聞くどころか、若い女が来たぞ、と歓声をあげた。
ユナをからかい、酌をしろと引き寄せ、胸を撫でまわす者までいたのだ。
ユナは必死でそれを振り払い、隊商が集まる広場だけをなんとか聞き出し、囃し立てる声を背中に受けながら急いでその場を去った。
弓と矢に、布なんか、被せなければ良かった、と悔やんだ。
歩きながら、怒りが徐々に収まってくると、周りの景色が、見えてきた。
広場は、坂の下にあり、隊商の馬や荷車、どのような一団がいるのか、ユナの位置からは、よく見渡せる。
どうやら、この広場は、街を訪れる隊商や旅人を、一手に引き受けているようだ。近づくにつれ、喧騒と、埃っぽい、乾いた匂いとともに、美味しそうな香りも漂ってきた。飯場も、それなりにあるらしい。
ユナは飯場の近くで荷を縛っている、旅装束の女に声をかけた。
自分より少し年上だろうか、若く、鋭い目をしている。
「何?」
「あの、ヒイノ国に向かう隊商を探しています」
女は、顎で、奥を指した。
「ここはみんなキナ国行きだ。今、ここからヒイノ国に行くなんて、そんな奴はいない」
「それは......なぜでしょう」
ユナが聞くと、女は荷を縛り終え、ため息をついた。
「国境の警備が厳しいって、そう聞くんだ。厳しいのは、こっちのティルマ国側らしいけど、よくわかんない。ま、あっちは商いも少ないから、いいんだけど」
「もう少し話を聞きたいんですが、実は、まだ朝を食べてなくて。隣で一緒にどうですか?」
と、ユナが飯場を指した。
女は、顔を明るくした。
「あたしもこれからだ。でもここは」
と、首を振り、
「だめだよ。向こうへ行こう」
と、広場の隅を見た。
だめだ、と言われた飯場の店主が目を剥くのを、知らぬ顔で、女は、広場の隅へ、ユナを促した。
* * *
「待たせたね、はい、これ」
旅装束の女ーーギサは、粗末な机の上に、とん、と盆を置いた。
盆には、西餡が四つ載っていた。
「これ、好きなんです」
思わず、ユナが弾んだ声を出した。
「そうかい、あたしもだよ」
と、ギサは笑った。
広場の隅に来るまで、簡単な自己紹介は済ませていた。
ギサは、叔父について、旅商いをしているそうだ。
「叔父さんは、決めている商いがあってさ、大店にも常客がいるし、その順序で、売ったり、買ったりしていれば、危ない商売じゃないんだ」
「わたしは、畑と狩りだけで......。ナユロという村で育ちました」
「で、ユナは家族を探してる、と。穏やかじゃないね、神隠しなんて」
言い終えると、ギサは、西餡を二ついっぺんにほうばった。
「兄は、ヒイノ国に行ったのかもしれない。もしかしたら、祖父も。でも、どうすれば良いのか」
ユナは、西餡をちぎりながら言った。
「叔父さんは、キナ国の都まで行って、ヒイノ国の端に寄ってから、またキナ国経由で、こっちに戻るんだ。だから、遠回りで、それにヒイノ国の端で良ければ、うちに来れば良い。くっつくだけなら、叔父さんも、そんなに払えなんて言わないと思うよ」
「ありがとう。もう少し、ヒイノ国に行く人を探してみて、その後で決めて良いですか。夕方までに、決めます」
ああ、いいよーーと、ギサが言った時、
「おまちどう」
と、蓋のついた汁椀が二つ、運ばれてきた。
「これはさ、風大麦の粥でさ、西餡の後に食べると、美味しいんだ」
ギサは、早速蓋を二つとも取ってしまうと、木匙を放り込み、自分の分を食べ始めた。
ユナも匙に粥を掬うと、鼻に近づけた。
ふっ、と爽やかで甘いにおいが、湯気から立ち上る。
口に入れると、とろり、と舌の上を柔らかな麦粒が転がり、みずみずしい香りが、鼻に抜けてくる。
「美味しい......」
「な、こっちに来て良かったろ」
ギサは、当然、という顔で言った。
ユナは、頷きながら、粥と餡を交互に食べた。
重なり方が異なると、より複雑な味わいとなる。
餡の酸っぱさと苦さが、粥で舌全体に広がり、その後で鮮烈な甘さと、爽やかな花の香りが、口の中を満たした。
「西餡が苦いから、粥がもっと甘い」
ギサは、さっさと食べ終えて、満足そうに言った。
ユナの粥は、まだ半分残っている。
「一緒に食べても、美味しいです」
ユナはそう微笑み、粥の残りを平らげた。
「じゃあさ、夕方には、この広場に居るから。声かけてよね。何人か道連れもいるから、気兼ねはしないよ」
ギサとユナは、それぞれ自分の分を支払い、別れた。
* * *
縄が、高い音で鳴った。
坂の上、広場を見渡せる宿の窓から、浅紫の服と白い布ーーユナが動き回っているのを、見下ろしている男がいた。
目は細く、長身。手で縄を弄んでいるが、まるでそれは生き物のように、うねうねと形を変えていく。
やがて、日の落ちる頃、男の姿は、もう窓辺にはなかった。
* * *
ユナは、結局、ギサの隊商についていくことに決めた。
一日中、祖父や兄の行方と、ヒイノ国への行き方を尋ねて回ったが、成果はなかった。ヒイノ国への単独行も考えたが、聞いて回るうちに、地図や案内人なしでは無謀だと悟った。
夕刻、広場でギサはすぐに見つかった。
初めに会った場所で、待っていてくれたのだ。
「叔父さんには、言ってあるんだけど、自分で話してくれる」
と、ギサが、奥からこちらを気にしたそぶりの、優しい顔立ちの中年男を、指差した。
「叔父さんは、ジュウビって名前」
ユナは、服の埃を払い、髪を手櫛で後ろにかくと、男に近づき、声をかけた。
「ジュウビさん、初めまして。ナユロ村のユナです。今朝、ギサさんにお会いした者です。ヒイノ国に行きたいのですが、キナ国から入る予定があると伺いました。そこまでご一緒させてくださいませんか」
「おお、おお。ギサから聞いとるよ。可哀想になぁ。家族がいなくなったとか」
ジュウビは、顔に充分な同情の色を見せながら、言った。
「それでな......ユナさんを連れに加えるかは、事情を聞いてからで良いかね」
「はい、もちろん」
ユナは、これまで自分に起きた話をした。
父母はもう世を去っていること、一昨年、兄がいなくなり、先日突然戻ってすぐに消えたこと。続いて祖父が消え、もしかしたら、連れ去られたかもしれないこと。今は、自分が兄と祖父を探している......
ジュウビの同情の色が、より濃くなってゆく。
ユナは、話しながら、自分はなんて不幸なんだ、と感じた。
こんなに家族がいなくなるなんて、尋常ではない。
だが、ユナは、ジュウビの体が、強張っていることに気づいた。
疫病神を連れてはいけない、というジュウビの心の声が、聞こえた気がした。
「一緒に行こうよ」
ギサが、突然、割って入った。
「叔父さん、ねぇいいでしょう。人助けってだけじゃない、歳の近い人がいなくってさ。あたしも道中楽しくなりそう」
「いや......うん、まぁ、それはそうだろうが」
と、ジュウビは、なお逡巡している。
ユナはまっすぐにジュウビの目を見て、言った。
「弓を使えます。隊の助けになれればと思いますが......少なくとも、自分の身は守れます。何か粗相があれば、いつでも置いていって構いません。お願いします。同行させてください」
ジュウビは、少し間を置いてから、ふっ、と、体の力を抜いて、柔和な表情をつくった。
「わかった。着いてきなさい。道連れには、道を知っているかに関わらず、案内料をもらっている。それと、護衛士に払う報酬は、分担してもらっている。水と食べるものは自分で用意してもらうが、多少は荷に余裕を持たせているから、そこから買ってもらってもいい。それなりの値をつけさせてもらっているが、そこはわかっておくれ。自分の商売で荷を乗せたいなら、さらにお代をもらってるが、それはないね?」
「はい」
「あとは、馬車や積荷が泥に入ったり、動かなくなった時に手伝うこと。隊全体のために、何かあれば働くこと、だ」
「わかりました。お約束します」
と、ユナは答えた。
「払いは先で、ギサにしておくれ。うちの金庫番だからな。出発は明日朝だ。うちの連中と、他の道連れには、その時に紹介しよう。日の出には、ここにいておくれ」
「わかったよ、叔父さん」
ユナが答えるより早く、ギサが明るい声で答えた。
「さ、今日はあたしと一緒にいよう!美味しい店が、坂の上にあるんだってさ」
と、ギサは、ユナを引っ張った。
ユナは、ジュウビに礼を言い、ギサに腕を取られながらも、兄と祖父の失踪に、自分も何か関わりがあるのかという、これまで思ってもみなかった不安に、襲われていた。
* * *
ギサとユナ
ギサが案内したのは、坂の上にある、煤けているが大きな飯屋だった。
戸を開けると、すでに満席に近い。炭の匂いに満ちた空気が、肌を包む。注文や話し声、食器の音などが一体となって、わーん、と鳴っている。
「入れて良かったよ。並ぶの嫌いでさ」
ギサが、周囲に負けないように大声を出すと、奥の、わずかに空いた席に着いた。
ギサも初めて来たようで、あたりを興味深そうに眺めたあと、注文は一番人気を聞き、それに決めていた。
間もなく運ばれてきたのは、串が打たれた肉だった。うっすらと焦げ目がつき、塩が光っている。添えられた青菜は、何かに漬けたものらしい。
ユナは串を持ち上げ、ひと口齧った。
塩がちりりと舌に響いた後、焼けた皮の香ばしさが広がり、肉は、ほどけるように柔らかかった。
「これは、いいね」
ギサは喜色を露にして、踊り出すかと思うほどだった。
ユナは、食べながら、じわりと腹が温まり、一日の疲れが抜けていくのを感じていた。
だが、それと同時に、どこか深いところが冷たいままだった。
もしかしたら、自分の周りに不幸が起きるのか、自分も消えてしまうのか......。
考えるのをやめるように、肉をもうひと串、頬張った。
* * *
日はすっかり落ちていた。
腹一杯に食べ終えた二人は、所々の家から漏れる光を頼りに、路地裏を戻り、坂を下った。
広場の一角には、隊商の荷馬車がすでに停められていた。荷の横に、布を張っただけの寝床が並び、焚き火の灯りが、小さく揺れていた。
「さっきは店がうるさくて、あんまり話せなかったしさ、ここで一緒に寝よう」
ギサの寝床は、布地が厚く二重になっており、地面から少し離れている。荷袋を枕代わりにして、もう一つの布で身体を包めば、夜の寒さはしのげそうだった。
「ほら、こっち」
ギサが身をずらすと、ユナもそこに腰を下ろした。
空には、暗い雲がわずかに流れていた。
風は止んでおり、遠いはずの小さな焚き火の熱が、じんわりと背に伝わってくる。
ユナが、短弓と矢筒を置く場所に困っていると、
「弓、使えるなんて、すごいよね」
と、ギサが言った。
ユナは、結局それらを地面に直に置いて、わずかに首を振った。
「山育ちで......狩りもあるし、遠当てが多かったから」
「遠当て?」
「言い争いや揉め事の決着をつけるのに、弓で的を撃つの。どちらが正しいかって。だから、子どもの遊びも、喧嘩の仲裁も、遠当て。祭りの時も競い合いをする」
「はー、面白いね。それって上手い人が正しい、ってことになるけど、それでいいのかな」
ギサは、枕がわりの荷袋の、形を整えながら言った。
「それは、実際に、そんな争いはなくて......。だから、不公平だ、みたいなことは起きない」
ユナは、答えながら、本当にそうだろうか、と考えてから、遠い記憶を呼び覚ました。
「でも、昔、祖父が村長に遠当てで勝ったことがあるのを、憶えてる。何の争いだったんだろう......」
「え、まさか、恨んだ村長にさらわれた?それなら、村に戻る?」
ギサは、寝床で伸びをしてから、そう言った。
「それは違う気がする......。村に隠れるところなんてないし、村長に会った時、祖父や私を心配してたと思う」
「そう......。明日から、道すがら探せば、何かわかるかも」
「うん、ギサ、ありがとう」
ユナは、焚き火と、ギサの温かさを感じながら、目を閉じた。
やがて、ふたりの寝息が、焚き火の音に混じり合った。
* * *
広場の輪
翌朝。
空には薄明かりが、差しはじめていた。
ギサが先に目を覚まし、寝返りを打った拍子に、ユナも瞼を開けた。
周囲では、既にいくつかの人影が動いていた。荷の確認をする男、馬の口元を撫でる男......。
ユナは、ギサに旅の費用を支払い、受け取り状を背負い袋の中に入れ、他の荷も確認してから口を締め直し、短弓と矢筒を合わせて背負った。
布に包んだ鞘と鉄片、そして木箱が、静かに重みを伝えてくる。
それを感じながら、ユナは輪になり始めた隊商の人々に加わった。
まだ朝の霧が、薄く残る広場。
輪から一歩中に進み出て、ジュウビが声を発した。
「ジュウビだ。みな、おはよう。我々はここから交易都市ワダンを経由して、都ケルゲンを目指す。順調に進めば、ワダンでは、夜の星市での取引が出来るだろう。荷は多いが、みなの力で、遅れないように協力しあおう。そこまでの顔ぶれは、これで全員だ。一人ずつ、名乗ってくれ。みな、名前と顔を一致させておけ。旅の仲間だ。助け合おう」
おう、と、男たちが、低い声で応じ、順に名乗った。
ジュウビの手の者が、ジュウビとギサを入れて十人、幅の広い大きな剣を背負った護衛士が一人、道連れがユナを含めて四人。女は、ギサとユナだけだった。
馬は小ぶりで足の太い、赤角馬が五頭で、それぞれ荷車を引いている。ジュウビの手の者が、手際よく列を整えた。
隊商の先頭に立ったジュウビが、短く声を発した。
「行くぞ」
馬の嘶き、車輪の軋み、靴の音。
それらが、街の石畳を鳴らしながら、ゆっくりと進み出した。
ユナは最後尾で歩き出した。
ほんの数日前まで、ナユロ村で暮らしていた、あの日々が、まるでこの霧のように薄れていく。
ぼんやりとした霧の向こうは、鈍色の空で、晴れ間は見えなかった。
* * *




