第一章 兄の帰還
霧の朝
春というには肌寒い、霧の深い朝だった。
ときおり山を下ってくる風が這うように冷たく吹くが、谷から立ち上る霧は深さを増すばかりだった。
ナユロの村は、山間の段丘に張りつくようにしてある。谷の対岸に渡るには、一本の古い石橋を越えねばならない。その橋の向こう、峠道の始まりに、旅装の影がひとつ、立っていた。
「誰だ……?」
薪割りをしていた村人が、腰を伸ばして声をかけた。
返事はない。が、ゆらりと影はこちらに近づいた。
畑の女が手を止めて訝しげに目を細め、通りの子どもたちは声を潜めた。
旅人は腰に袋をだらりと下げ、両腕もまた同じように垂れている。
風にあおられた裾は泥に汚れ、肩には乾ききらぬ土埃が張りついている。
だが、顔――その顔を、誰かが認めた。
「……ナギじゃないか?」
小さな声だったが、それが広がるのに時間はかからなかった。
ナギ。
あのナギが、帰ってきたのだと。
一年以上前のことだった。
狩りに行くと言って姿を消した青年。
滑落か、獣か、それとも……
もう戻らぬ者と村中が諦めていた。
そのナギが、そこに立っていた。
頬はこけ、生気を無くした目は暗く沈み、周囲を映さない。
唇は固く結ばれ、肌の下に張りつめたような静けさを纏っていた。
彼の姿が村に近づくにつれ、誰もが道を譲った。声はかけられなかった。
まったくの別人になり果ててしまったのだと、一目でそう思わせるだけの様相が、そこにあったのだ。
ユナは囲炉裏端で薪の整理をしていた。
ふとした気配に顔を上げると、戸口に影が差した。
低く湿った靴音が、板の間をゆっくりと踏みしめてくる。
見上げたその先に、兄の姿があった。
「……兄さん?」
声は自然に出た。
だが、その一言のあと、空気が凍ったように感じた。
兄は目だけをユナに向けた。
言葉もなく、頷きもせず、ただ見ただけだった。
その目の奥には、ユナの知る何者もいなかった。
次の瞬間には、彼は通り過ぎていた。
無言のまま、家の奥へ。
その背を追うことも、もう一度声をかけることも、ユナにはできなかった。
家の中に兄が戻った。だが、気配すらしない。
外では、まだ霧が晴れていなかった。
* * *
声なき応え
ユナは囲炉裏に湯をかけていた。
湯気の立つ鉄鍋の奥、柱に背を預けるようにしてナギが座っていた。
灯りはまだ灯されておらず、外の霧が戸の向こうに青白く差していた。
兄は一言も発さなかった。
旅装を脱ごうともせず、足もとに荷を置いたまま、ただ、そこにいた。
「……おなか、すいてる?」
問いかけた。
が、返事はなかった。
ときおりゆっくりと顔を上げるナギの目は、やはりどこか焦点が合っていない。
戸が開いた。
「おう、ユナ、焚き付けは、な……」
祖父だった。
霧に濡れた手で、戸を閉めた祖父は、ユナの視線の先に、身じろぎ一つせぬ、もう一人の姿を見つけた。
驚きの言葉を飲み込み、ゆっくりと口を開いた。
「戻ったのか……。いや、よく、戻った……」
祖父はそれ以上、何も言わなかった。
黙って、囲炉裏の端に腰を下ろし、取ってきた山菜を、鉄鍋に入れ始めた。
ユナは棚の手前から碗を二つ、奥からもう一つ碗を出した。また、塩とリルと呼ばれる乾いた実をとり、鍋に入れた。
誰も、言葉を発さなかった。
兄は、汁をゆっくりと口に運んだ。
手は震えず、目も逸らさなかったが、いつか祭りで見た、”糸繰り人形”のようだった。
祖父は、ただ黙々と食べた。
ユナだけが、食べるふりをしていた。
兄の姿を、じっと見た。
その首筋に、細かな瘢痕が見えた。
旅の傷か、噛まれた跡か、それとも――
さらに気にかかったのは、手の甲にあったはずのホクロが、見えなかった。
顔は確かに兄だが、それ以外に、兄らしさはどこにも、感じられなかった。
今は兄の横にある、荷袋も気にかかった。
ユナは、鉄鍋から上がる湯気の向こう、兄の眼を見た。
その目の奥に、何があるのかを――探るように。
囲炉裏の火が、ぱちり、ぱちり、と音を立てた。
ナギは、わずかに、まぶたを動かした。が、それだけだった。
囲炉裏の火は、祖父によって早々に消された。
その夜、家の中には、言葉も灯りも、なかった。
* * *
二つの異物
夜が、深まっていた。
囲炉裏の余熱もとうに消え、板の間の冷たさが身体に染み入る。
ユナは寝床で目を開けていた。
家の奥――兄が寝ている場所から、物音はまったくしなかった。
寝ているのか、起きているのかさえ分からない。
目を閉じても、落ち着けなかった。
兄の姿は、尋常ではない。それにあの荷袋――
何かがある。
音を立てぬよう、寝床を抜け出した。
屈んで、兄の方を見た。
闇に溶けた影は、動かない。寝息もない。
ほんのわずかな月明かりが、戸の隙間から漏れ入っているだけだ。
ユナは足音を紙のように薄くしながら、荷袋へと近づいた。
縛りは、固い。
兄からは、いまだ寝息すら聞こえない。
だが、動かぬことを確かめつつ、丹念にゆっくりと時間をかけて、音を立てずに縛りを解いた。
布の口を開いた、その瞬間、獣のような臭いが鼻をついた。
どきり、と心の臓が鳴った。
ユナはこの臭いを嗅がれるより、体の中の音が兄に聞こえてしまうのでは、と思うほどだった。
身動きせず、懸命に自分を鎮めながら、袋の中を指先だけで、そろそろと探った。
まず触れたのは、硬くて細い包みだった。
そっと抜き取ると、脇に手挟んだ。
兄を見る。動きはないように見える。
次に、もうひとつ。
重さのある、掌ほどの木箱。
留め金には細工があるようで、ざらりとして、ふっと、金属の冷たさが、伝わってくる。
迷いなく、それも袋から出すと膝に置いた。
音を立てぬよう、ゆっくりと息を吐くと、再度兄を見た。
今度は、寝息が聞こえてきた。
二つの品を抱え、ゆっくりと自分の寝床へ戻り、それらを置いた。
さらに、普段使っている鉄櫛と、囲炉裏の火打石を持って荷袋へ戻ると、そっと中へ入れた。
苦労して袋を結び、元あったように戻した。ようやく獣の臭いは薄らいだ。
兄が、影の中で、微動だにしないのを見届けてから、ユナはそっと自分の寝床へ戻った。
全てをやり終えて、心臓は早鐘のように打ち、汗は噴き出してきて止まらなかった。
袋の中にあったものに、今は床の中で触れながら、なぜこんなことをしたのか、ユナは、自分でもわからないままだった。
そのまま夜が過ぎた。
兄は、朝にはいなかった。
荷袋も、影も、すべてなくなっていた。
懐に重みを抱え、ぼんやりと天井を眺めた。
* * *
濁る村
兄が寝ていたはずの板の間は、冷えきっていた。
ただ、床板の上に、ひとすじの泥の跡が薄く残っている。
外からは、薪を割る音が聞こえていた。
戸を開けると、祖父が立っていた。
手には小さな鉈、足元にはすでに割られた薪が整然と並んでいる。
ユナが戸口に立ったまま見ていると、祖父は、
最後の薪を割り終え、顔を上げた。
「……いなく、なった」
ユナは頷いた。
祖父はそれきり、何も言わなかった。
鉈を置き、割った薪を束ねながら、いつも通りの動作で朝の支度に戻った。
ユナもまた、何も聞き返さなかった。
ただ懐をぎゅっと握った。
囲炉裏に火を入れると、祖父が水を汲んで戻ってきた。
「よう寝たか?」
「うん」
「あれは、ナギとは思えんかった」
祖父が、吐き出すように言った。
「……わからない」
答えながら、本当にわからないと思った。
祖父は、碗を横に置いたまま、灰をいじり始めた。
「一年戻らず、死んだものとしておったが......あれは、まるで木偶だ」
「そんな」
「だが」
祖父はそこまで言いかけて、碗の中の湯をひと口すすった。
「戻って、また出て行ったということは……何かを済ませたか、あるいは、済ませきれなかったか」
祖父は考え考え、言葉を紡いだ。
何も答えなかった。
答えるものが、なかった。
同時に、祖父の口調から、祖父はナギをとうに諦めていたのだ、と気づいた。
懐の品について、祖父に伝えるのはやめた。
祖父は碗を置き、火に炭を足した。
「それがなんであれ......あれは自分で去った。おまえは、おまえのことをせえ」
ユナは頷いた。
だが、胸の中では、何かがざわめいていた。
兄が戻ってきたことも、出て行ったことも。
すべてが、自分とは無関係のようでいて、だが、そんなはずはない、とも思っていた。
* * *
午後遅く、狩りに出ていた若者たちが、村の辻で声を潜めていた。
「……祠、荒れてたんだってよ」
「供物、全部なくなってたってさ。台ごと倒れてたって」
「狐の足跡だけが、土に……すげぇ数だったって」
その話は、あっという間に村の年寄りたちの耳に入り、そして、何事もなかったかのように沈んだ。
* * *
夕方、祖父が井戸端で眉をひそめた。
「水が……濁っとるな」
柄杓の中には、かすかに白く濁った水が揺れていた。
掌にすくって嗅いでも、臭いはしない。
けれど、口に含んだときの違和感――ぬるりとした感触が、のどを這う。
ユナは井戸の縁から水を見下ろした。
底の石が、いつもよりぼやけて見える。
「……なんで?」
誰に向けたわけでもないその言葉に、祖父はただ薪を束ねる音を立てていた。
村では、ささやきが、広がりはじめた。
「井戸が変だ」「狐を見なくなった」「子どもが夜泣きするようになった」
だが、誰もそれを“ナギの帰還”とは結びつけない。
まるで、ナギが帰ってきたことなど、無かったかのように。
だが、村長は違ったらしい。夜、使いが祖父を呼びにきた。
ナギのことか、と呟くと、祖父は腰を上げ、出て行った。
* * *
囲炉裏のそばで、布に包まれたものと木箱を、目の前に置いていた。
まだ開けてはいない。
それでも、それがただの何かではないと分かる。
短く、細い。だが、密度のある重さ。
木箱も、合わせ目が見えないほどに、精巧な代物だ。
開けるべきだ、とわかっていた。
だが、体が動かなかった。
この暮らしが終わる。それを、感じていた。
霧がまた、立ち込めてきた。
* * *
衝動
囲炉裏の火はすでに消え、家の中は冷えきっていた。
祖父はまだ、戻っていない。
夜の空気は、ぴたりと家の中に貼りついている。
ユナは、目の前の布の包みに、すっと、手を伸ばして触れた。
指先に力を入れて、包みの端をそっとほどいてゆく。
ごわついた布をめくると、現れたのは、黒漆の光沢をもつ鞘だった。
短く細いが、ずしりと重い。
刃は中に収まったまま、柄のあったであろう場所と、鞘の口は、ともにひしゃげていた。
無理に折られている、と感じられた。
刃は中で膠着しているのか、取り出せない。
鞘の外側は、銀細工で、細かな草の模様が刻まれている。先端の鐺には、どこの氏族のものともつかない紋様が、丁寧に打たれていた。
装飾があまりに立派で、実用品とは思えなかった。
村でも、行商人の品にも、これほどのものは見たことはなかった。
ユナは鞘をそっと布で包み直し、そこに置いた。
手元に残ったもうひとつ――木箱を、見つめる。
留め金には、鍵が通されていない。鍵穴らしきものも見当たらない。
ユナは小刀を持ってきて、箱の合わせ目に入れようとしたが、ぴたり、と合わさっていて隙間に刺せない。
箱を下に置き、小刀を上から合わせ目に沿わせ、ユナは体を小刀に預けるようにした。
さらに、ぐっ……と押しつけると、わずかに隙間が生まれた。
その刹那――
鼻を突くような金属臭と、腐った土のような臭いが、ふっと広がった。
ユナは反射的に顔を背けた。
目が潤み、まなじりが上がる。吐き気はないが、喉の奥に、何か重いものが押し込まれたような感覚。
途端に衝動に駆られたユナは、小刀を離すと、木箱を持って、戸を開け、外に出た。
そして、薪割り場に木箱を置くと、鉈を振るった。
音とともに鉈は弾かれたが、ユナは意に介さないように、今度は斧を構えると、ふっ、と低い声を出して、乱暴に木箱に振り下ろした。
木箱は割れ、中が露になった。
ユナは無造作に箱を手に取り中を覗く。
中は――空だった。
いや、黒ずんだ布の切れ端がひとつ。干からびたように、くしゃりと折れて、あるだけだった。
なんだ、と思った時、小雨が降る中にいたことに、ユナは気づいた。
慌てて、箱を手に、欠片を集め、家に入った。戸を後ろ手に閉め、ほっ、と息をついた。
片手に抱えた箱と欠片を、囲炉裏のそばにおきながら、自分の手が、わずかに震えているのをみた。
* * *
ナユロの村に、ようやく春らしい朝が来た。雨は止み、霧もない。
だが、ユナの家の囲炉裏は冷えたままだ。
祖父は戻らなかった。
朝一番に村長の家を訪ねたが、昨夜は使いを出していない、と言う。
ユナは、村長の目を、じぃっと見たが、嘘をついているとは思えなかった。
兄と祖父が消えた話をすると、村に触れを出し、近隣にも探させる、と約束してくれた。
だが、それで家族が戻るのか、あてはなかった。
兄の時も、同じだった。
ユナはすぐに家へとって返し、旅支度を整えた。
手持ちで最も丈夫で、着心地の良い紫麻で出来た上下に、柔らかい地羊の革をなめした袖なしの外套を羽織り、右肩の上で留めた。
背負い袋の底に鞘と小箱を置き、いくばくかの銭と粒脂金、亡くなった母から受け継いだ鏡、火打石と火縄を、替えの服でぐるりとまくと、その上に入れた。
短弓と矢筒を、背負い袋にくくりつけると、腰に短刀を差した。
外套と同じ、地羊の革で出来た短靴を履き、これらは兄のものだった、との思いがよぎる。兄は狩りが得意だった。弓の引き方も、矢の放ち方も、教えてくれたのは兄だった。
誰にも告げず、誰にも見送られず、家を出る。
幼い頃に父を亡くし、母もまた一昨年亡くなった。
その後すぐに兄は消え、戻ったと思ったらまた消えた。さらに祖父まで......
ユナは一度だけ、家を振り返った。
だが、まるで、他人の家のように感じられた。
また、前を向いた。
進むべきだ、と心が伝えていた。
まずは、山向こうの鍛冶屋を目指そう。
取り出せなかった刃に、何か手がかりがあるかもしれない。
* * *
石橋を渡った先、峠道の手前、道の端にある低い土手のあたりで、誰かがしゃがんでいた。
一歩踏み出したユナに、その影が顔を上げた。
日焼けした顔。褐色の前掛けに、籠。
タエだ。母の友人だった。
ユナは目礼して脇を通ろうとした。
「……村長から、触れが出てるよ」
ユナは立ち止まって、小さく頷いた。
「あんたがね、探しに行きそうな気がしたのさ」
タエは言いながら、籠から西餡を二つ取り出し、平たい石の上に置いた。
ユナの好きな菓子だ。
さらに、塩をまぶした干し肉を、取り出した。
「あわててたから、こんなものしかないけど」
ユナは礼を言って腰を下ろし、西餡を口にした。
酸っぱくて、甘くて、ちょっと苦い、なんでこんな妙な味が好きなんだと、自分でも思う。
立て続けに、二つとも平らげた。
タエはその間、何も言わずに腰を下ろしていた。
風が通り抜け、笹の葉がさらさらと鳴った。
西餡を食べ終え、干し肉をしまったユナに、タエは、さらに籠から包みを出した。
「薬草をね。少しだけど、家にあったものさ」
ユナも知っている、風邪薬だった。
「それからこれ。うちの人が狩りで使う、矢に塗る毒だよ。あんたはね、弱いんだ。若い、女なんだよ。それを帳消しにできるのは、こういうものなんだ」
そう言って差し出されたのは、緑の濃い葉に包まれた、黒い、軟膏のようなものだった。開くと、ほんのりと青臭く、錆びた金属のような匂いがした。
「……ありがとう」
ユナは心を込めて、再度礼を言った。
「もう行きます」
ユナは立ち上がった。
「いつでも、帰っておいで」
タエのその言葉は、心から出たもののはずなのに、ユナには、空虚に聞こえた。
ユナはうん、と軽く頷くと、ひと呼吸してから歩き出した。
振り返らずに、峠道を登った。
* * *
タエは、ユナを下から見守っていたが、しばらくして、石橋を渡って村へ戻った。
途中、タエは石橋で、針のように細い目をした、痩せた長身の男とすれ違った。
タエは、まるで気づかなかった。
* * *




