幻と言葉の火矢(1)
毎日、平和だった。
初夏の日差しは心地よく、礼拝堂の窓から降り注ぐ。小鳥のさえずりも響く。猫の毛玉は角に寝っ転がり、自由気ままだ。何も事件が起きない日常。
「唯子ちゃん、ちょっと肩を揉んでおくれよ。もう肩が凝って仕方ない」
「わかりました!」
唯子はこのおばあちゃんの肩を揉む。名前は飯島ヤヨイという。羽生教会の近所に住むご老人だった。
こうして教会に来ているが別にクリスチャンではない。仏教徒だったが、猫が大好き。猫の毛玉目当てで教会に通うようようになり、唯子とも親しくなり、今みたいに肩を揉んでいたりもする。
ヤヨイは旦那さんが亡くなって十年以上たつらしい。息子も独立し、暇を持て余しているらしかった。気さくに唯子に話しかけるヤヨイだったが、身なりがいい。髪もきちんとセットされ、背筋もまっすぐ。年齢は八十五と言っていたが、もっと若く見える。いわゆる金持ちのご婦人なのかもしれない。
「ヤヨイおばあちゃん、けっこう凝ってますね」
「そう? もう最近も歳でねぇ。って、唯子ちゃんは最近どうなの? あの変なオカルト牧師さんともよくやっていけるわね」
「え、ええ。まぁ」
唯子は苦笑いする他ない。ご近所にまで尋人の噂がひろがっているとは顔も赤くなってくる。
尋人は相変わらずだ。オカルト牧師と自任し、最近は宮乃と一緒に都市伝説の配信をしているぐらいだ。暇なのだ。良く言えば平和なのだが、霊的問題を相談されない。当然、エクソシストをする機会もない。
美海の一件以来、こうして教会にやってくるのはヤヨイだけだった。唯子も単発バイトを多く入れつつ、カウンセラーの通信教育などの勉強を受けてはいたが、本当にこれで良いのかと思っていたところ。
その時、ヤヨイの携帯電話が鳴った。
「まあ、誰?」
「知ってる人?」
「さぁ? とりあえず出てみましょう」
最初は普通に通話しているヤヨイだったが、だんだんと顔色が変わってきた。猫の毛玉も何かに勘付き、耳をピンとあげていた。もちろん唯子も嫌な予感がし、電話を切ったヤヨイにすぐに声をかけた。
「ヤヨイおばあちゃん、どうしたの?」
「いえ、なんか息子の会社の上司って人から電話がかかってきたのよ。息子が業務のミスをして、負債が出たから」
ヤヨイの声は震えていた。
「指定の口座にお金を支払えって言われて……。唯子ちゃん、今すぐ銀行へ……」
「ちょ、ちょっと待って!」
唯子は必死に止めた。これはどう考えても詐欺だ。そんな会社の上司なんて怪しすぎる。もしそんなことがあっても社員一人が責任をとるケースなんて無いはずだ。
「そうだ! ヤヨイおばあちゃん、お金を支払うな!」
なぜか尋人も登場し、二人がかりで詐欺である可能性を説明した。いや、説得するといった方がいいかもしれない。
「これはおそらく平成時代によく行われたオレオレ詐欺ってやつさ。悪霊がやっていることとも同様だ。本当は聖書でいう悪霊が、死んだ家族や先祖のフリをして、信仰心を奪い取り、被害者を依存させて縛るのだ。霊的なオレオレ詐欺と現実のそれは実によく似ているものだ」
ちゃっかり霊的な見解も忘れない尋人だったが、あまりにも斜め上だったのだろう。ヤヨイも言葉を失っていた。
その間に唯子は警察に連絡をし、取り調べに来た警察官に事情を話し、被害は最低限に済んだ。警察の調査も迅速で、詐欺グループたちが一斉に捕まったらしい。中には闇バイトの応募した若者もいたそうだが、被害は拡大せずに済んだと警察に説明された。
平和な日常にポツっと落ちたシミのような事件だったが、あれ以来ヤヨイは毎日のように羽生教会に通うようになった。ヤヨイいわく「神様はいる。悪いことはできないねぇ」とのことだったが。
「やっぱり唯子ちゃんたちはすごいわ。クリスチャンって立派なのね」
そんな風に褒められる瞬間もあり、恥ずかしくて仕方ない。
「い、いえ。当たり前の事をしただけです。そもそもうちの尋人さんは自称オカルト牧師ですよ? 全然立派じゃないじゃないですか」
「いいえ、そんなことはないわ。マザーテレサや戦孤児院を設立した牧師さんの手記も読んだんだから。本当に立派じゃないの」
どう反応していいかわからない。同じクリスチャンというだけで、全く違う存在だ。そもそも唯子自身、クリスチャンとか信仰心とか言われてもピンとこないところもあるし、普通の人間だ。心の奥には醜い部分もあるし、そんな聖人君主じゃない。
「敵を愛せよとか、敵を許せとか聖書のことばも素晴らしいわ。きっと唯子ちゃんも立派なのよ」
「い、いえ。そんなことはないですよ」
いくら否定してもヤヨイおばあちゃんは理解してくれない。尋人のような変人も目の前にいるはずなのだが、どうもヤヨイおばあちゃんには「詐欺から助けてくれた人」というバイアスがかかっているようだった。
「ヤヨイおばあちゃん、本当にわたしは立派な存在でもなんでもないですよ……」
いくら否定してもわかってもらえないその日の夜。
案の定、よく寝れなかった。確かに聖書には敵を許せとか、自分を愛するように隣人を愛せよという教えもある。
「それに比べてわたし、別にそんな全然できていないよな……」
眠れないから聖書をパラパラめくってはみたが、完全に逆効果だ。さらに目が冴えてしまう。聖書には神様が人を愛している言葉がたくさんあるはずなのに。
窓の外からは満月が見え、夜なのに少し明るい雰囲気だった。余計に眠れないと思った時だった。
急に目の前が真っ白になったと思ったら、幻を見た。夢なのかよくわからなかったが、現実ではない。
目の前に自分とそっくりの女がいたから。
「え、あなたは誰? わたし?」
見覚えのある顔を見ながら、違和感しかない。これはいわゆるドッペルゲンガーというやつか。その割には死なないし、一体これは何?
ドッペルゲンガーを見たら死ぬんじゃないのか。これはどういうことかと疑問が止まらない。
一方、唯子とそっくりな存在は一言だけ吐き捨てた。
「あなただけは許さない!」
その瞬間、霧のように幻は消えてしまった。頬をつねる。痛い。今は夢の中では無さそうだったが、これは一体なにか。まさか霊的現象だろうか。その割には霊的現象特有の気持ち悪さはない。腐っても自分と同じ姿だから?
「な、何これ……?」
わからない。いくら考えてもわからず、結局答えは一つも出なかった。




