ヘデラでの一幕
「ウルガルトが死んだ!」
建物に響き渡る悲鳴に浮かんだ感想は、精霊に対して「死」という表現は間違っている、だった。
同類が消滅したという一報を耳にしても、ヒパンレスは横たえた体を動かすことも、閉じた瞼を持ち上げることも、感傷にふけることもなかった。ただ、重く扱いづらい、まるで重石のような仮の肉体に辟易としていた。
ウルガルトの消失に慌てふためく組織の人間の気配を遮断し、ヒパンレスの周囲を漂う水の精霊にだけ意識を集中させれば、より多くの情報が集まってくる。
ウルガルト。肉体を得た水の精霊王。
精霊王の器候補として組織が捕えていた繋ぎ人の一人、メチコ・ブーチェに受肉した彼女は、組織から逃げ出した繋ぎ人、九七号――アレックス・ヒラリー――の追跡を任されていた。
組織にいる精霊王の中でも精霊の痕跡を見つけることに長け、大抵の精霊王ならば歯牙にもかけないどころか認知すら難しい、風前の灯火のような精霊の存在や痕跡にも気づくことができる唯一の存在だった。
九七号は精霊の力を巧みに操る繋ぎ人で、己の痕跡を消すことも朝飯前だっただろう。そんな手腕を持つ繋ぎ人が広大な砂漠へ逃げ込んでしまった以上、情報なしに彼を見つけることはほとんど不可能だ。
故に、微細な気配も探知できたウルガルトの消滅は大きな痛手だ。
彼女がどのように消えたのかは定かでないが、度々組織の邪魔をしてくる精霊王が関わっているのだろうと、ヒパンレスをはじめとした組織に属する精霊王たちは確信していた。
しかし、その姿はおろか名前も、いつから存在していてどれほどの力を持っているのかも、なにもわかっていないのが現状だった。
ただ、九七号の逃走も、ウルガルトの消滅も、そして大陸を襲う砂漠化の原因の一つである水源の枯渇も、すべてその精霊王によって引き起こされた。それが組織全体の共通認識だった。
ヘデラが水の精霊王を積極的に呼び寄せ、器を与えているのも、最終的にはその精霊王に対抗するためだ。
「はぁ。やっかいなことだ」
ウルガルトは若いながらも強力な精霊王で、器の順番待ちをしている他の精霊王を抑えて受肉の権利を得た。
純粋な力では多くの精霊王に及ばないとはいえ、その繊細な感覚は貴重だった。
本来、彼女には各地で身を潜める繋ぎ人を見つけ連れてくる任が与えられるはずだった。しかし本格的に外界へ旅立つ前に、九七号による逃走が起きてしまった。
組織の内情を知り、繋ぎ人として、器として優秀な九七号を野放しにはできない。たとえ、その逃走劇にかの謎めいた精霊王が関わっているとしても、だ。
その結果、ウルガルトを失った。
ウルガルトの付き人として同行した繋ぎ人、ウイ・リビングストンも、ウルガルトが受肉した器も行方不明だと囁く精霊の言葉に、ビノークリは深く嘆息し、当然だろうと呻いた。
今回失ったものは、あまりにも大きい。
そもそも、一人の逃走者のために躍起になりすぎたのだ。
ヒパンレスは重たい体を起こし、ゆっくりと歩き出した。
彼がいた部屋は、発生してからすでに長い年月が経過し、仮の肉体に受肉することで消滅へのカウントダウンを少しでも遅くしようと抗う精霊王が療養する場所だ。
かくいうヒパンレスも、組織に属する精霊王の中ではかなりの年長者だ。繋ぎ人でもなんでもない、しかし精霊を信仰し清い身を持つ砂の民の肉体を乗り換えることで永らえているが、肉体を失えばあっという間に消滅してしまう。
今の体もそろそろ限界だな、と脳裏に新しい体の調達スケジュールを浮かべながら、ヒパンレスは地下へと続く階段をゆっくりと下っていった。
そして地下に到着すると、すり鉢状に広がる巨大な部屋へ入る。
ヒバンレスが立つのはすり鉢の底にあたる舞台のような空間で、舞台から伸び上がる四つの階段の間には、岩を削り出した座席がずらりと並べられている。
「ヒパンレス、無理して動くと消えるぞ」
視線をあげると、座席の一つに腰かけた人影がヒバンレスを見下ろしていた。
大きなローブに包まれたその姿は、一見人のようにも見えるが、その中身には血肉の欠片も存在しない。
「ウルガルトが消えたそうじゃないか」
別の座席から、愉快そうな声が響く。
そちらへ視線だけ向ければ、同じようにローブで全身を隠す人影が見える。
「あの個体はなかなか、自信過剰なところがあったからな。予想はしていたよ」
ローブの人影は肩をすくめる。
「あれのことはどうでもいい。目下の課題は、逃走した器が二体になったことだろう」
「わたし、九十八号のからだ、狙ってた」
「器となる繋ぎ人のストックがゼロになるのは、ゆゆしき事態だぞ」
散らばって座っていた人影から次々と声が上がり、わんわんと部屋に反響する。ヒバンレスは色の悪い顔を歪め、耳鳴りを起こす右耳を手で押さえた。
「少し静かにしてくれ。肉が崩れる」
もともと悪かった顔色が土気色になり、誰が見ても具合が悪そうなヒパンレスの呻きで、室内は静寂を取り戻す。
「無理をするなよヒパンレス。新しい肉体はまだなのか?」
どこかから労わるような声がかけられ、ヒパンレスは頭を振る。
「件のことで組織の連中は手一杯らしくてな」
「おお、つまりお前もついに、潮時というやつだな」
どこか楽しそうな声がどこからか投げられるが、ヒパンレスは無視する。
この部屋――通称、舞台――に集まる人影は、すべて組織に属する精霊王だ。組織と契約し、あるいは組織の意向に賛同し集まった面々で、肉体に無理やり受肉せずとも仮の形を己の力で作り出す程度の力をもっていた。
ローブを羽織っているのは、その方が威厳があるように見えると、今はもういない精霊王が始めたことが根付いているからだ。
ヒパンレスもかつては、簡易ながらも自分の姿を自らの力で作り上げることができた。しかしに長く存在した精霊は、たとえ精霊王だったとしても衰弱することを止められない。
今となっては周囲を漂う精霊すら自在に操ることはできない。
「私がここに来たのは、この騒動を収束させるには、その原因を作った王に責任を取ってもらう必要があると思ったからだ」
ヒパンレスの言葉に、部屋には沈黙が下りる。埃が着地する音すら聞こえそうな、耳鳴りすらする沈黙の中、一つの人影がゆらりと立ち上がった。
「つまり、俺に器どもを回収にいけと?」
獣の唸り声のような、地を這うような低い声がヒパンレスを試すように響く。
数いる精霊王の中でも次に器を得るはずだった実力者、ビノークリだ。
ビノークリは新参者といっても過言ではない、ここ十年の間に発生し瞬く間に精霊王へと成長した水の精霊だ。水や水を含んだ砂やで姿を形作るのが精いっぱいの精霊王が大多数の中、唯一ローブの下に人と同じ姿が納まっている。ローブを脱いで街へ繰り出しても、だれもビノークリが人間ではないと気づけないだろう。
ビノークリは深々と被っていたフードを外し、爛々と光る青い眼でヒパンレスを睨み下ろした。
「この俺がなぜ、人間どもの世話を焼かなければならない」
儀式を失敗させ、みすみす繋ぎ人を逃したのは組織の人間たちだ。
そう主張するビノークリに、ヒパンレスは嘆息する。
「いいや。お前が九七号に気圧されたのが原因だ」
受肉寸前。いや、ほとんど受肉したというのに、ビノークリは九十七号の肉体から弾き出された。
今までにない事態に組織の人間が慌てふためき、九十七号を逃がしてしまったのは事実だが、そもそも繋ぎ人の一人を抑え込むこともできなかったビノークリにも非はあるのだ。
「ウルガルトも、ボニトリーも、グラタも、どの精霊王も繋ぎ人による抵抗を受けたが受肉に失敗していない」
グルグルと不機嫌な唸り声が地響きのように足元を揺らすが、ヒパンレスは気にせず続ける。
「繋ぎ人は精霊と人間の間に立つだけで、精霊を超える存在ではない。むしろ、精霊による干渉を防ぐことができない。それなのに、お前は手も足も出ず、逃がした。お前はあの若造に負けたんだ」
たとえ逃走劇の背後にかの名も知られぬ精霊王が関わっているとして、直接的に受肉の儀式を妨害したり繋ぎ人の拉致を阻止してきたことはない。つまり、単体では組織には敵わないと理解しているのだ。それはつまり、九七号が逃げおおせたのは、人間たちの不手際はもちろん、圧倒的強者であり場の支配者であったビノークリの失態のためだった。
空気を揺らす唸り声が途切れ、静寂が訪れる。
「これ以上同胞が消えるようなことも、新しく手に入れる器を逃がすようなことも許されない」
いま、この場にいる精霊王の中で繋ぎ人を守護するように立ちまわる名もなき精霊王を相手にできるのはビノークリくらいしかいない。他の精霊王や人間が出向いたところで、ウルガルトの二の前になることは火を見るより明らかだ。
「器が欲しいなら、自分で行動するんだ」
でなければ、次の受肉候補として推薦しない。ヒパンレスは淡々と告げ、周囲の人影たちに手を振り踵を返した。
一口解説:舞台
ヘデラの施設の地下にある大部屋。
普段は精霊王たちが集まる部屋として使われるが、受肉の儀式もここで行われる。




