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入院中でも油断はできない

渇探流は入院した。

内臓がズタズタで、ウィルフレッドの治癒の呪文がなかったら即死だったという話を医者から聞いた。

そこで、渇探流は都内の総合病院———ではなく、いつか見た、ウィルフレッドが入院していた檻のような病室で、本を読んでいた。

隣にはウィルフレッド。黄船はあくまで渇探流個人が契約している護衛なので、この基地までは入ってこれない。

ウィルフレッドは甲斐甲斐しくリンゴを剥いて、コトリとテーブルに置いてくる。


「ありがとう」

「いえ……」


ウィルフレッド自身は、自分で治癒の呪文をかけて、全快していた。黄船はそこまで重症ではなく、普通の通院で済んでいるらしい。

渇探流は剥いてもらったリンゴをしゃくりと食べて、書物に目を落とした。

久しぶりの、ゆったりとした時間だ。ここは安全地帯だし、渇探流はウィルフレッドの治癒の呪文を拒否して、ゆっくりと療養することにしたのだ。

———彼は、少し疲れていた。

あまりにも連続しての神話事象ラッシュに、疲れていた。

少しだけ、現実逃避をしていたい。

更にひとつ、違和感が残る出来事があった。渇探流はあれだけウィルフレッドに忌避感を抱いていたというのに———ワンダーランドから帰って来たあと、その忌避感が、綺麗さっぱりと、消えていたのだ。

渇探流は、ページをめくる手を止めた。

———おかしい。

本の内容が頭に入ってこない、のではない。

ウィルフレッドが隣にいることに、何も思わないことが、おかしい。

本来なら、もっと苛立っているはずだった。

距離が近いと、鬱陶しいと感じるはずだった。

あの男の呼吸音一つで、神経が逆撫でされるはずだった。

なのに———


「……」


何も、ない。

静かすぎる。

渇探流は、リンゴをもう一口かじった。

シャク、と、小さな音が病室に響く。


「……渇探流君?」


ウィルフレッドが、こちらを覗き込んでくる。


その距離。

その視線。

———近い。

近い、はずなのに。


「どうかしましたか」

「……いや」


渇探流は、ほんの一瞬だけ、言葉を探した。

探して、やめた。


「別に」


違和感を、言語化するのをやめた。

———いや、違う。

言語化『したくなかった』。


「そうですか」


ウィルフレッドは、安心したように微笑んだ。

その表情を見ても、やはり、何も思わない。

———本当に?


「……」


渇探流は、視線を落とした。

本の文字が、妙に歪んで見えた。


「りんご、美味しいですか?」

「……ああ、うまい」

「それはよかった」


ウィルフレッドは、ハンカチを取り出すと、渇探流の口を拭いた。

以前の渇探流ならばその手を叩いて拒否していただろうに、今はされるがままだ。

最後のリンゴのカケラを、口に放り込む。少し濡れたその手も、ウィルフレッドによって拭かれた。

———しかし、それでもやはり、忌避感は湧いてこなかった。

おかしい。

おかしいとは思うのだが、自分でもどうしたらいいのか、わからない。


『———愛してるからだろう?』


「……はっ?」

「渇探流君?」

「いや……なんでも、ない……」


脳裏によぎった考えに対して、渇探流は首を振った。

この男を愛しているなど。天地がひっくり返っても———


「……本当に、なんでもありませんか?」

「…………っ、」


スッ、と、頬に手を滑らされて、渇探流は息を呑んだ。

勝手にバクバクと心臓が動き出し、意思に反して、顔に熱が集まってくる。

———これは、なんだ。

いや、おかしいだろ。


「渇探流君?熱でもあるんですか?」

「……熱は……ない……はず、だ」

「……顔が、赤いですよ」

「……大丈夫……だ」


ウィルフレッドの目が、細まった。

まるで———獲物を狙う、鷹の目だ。


『———医里渇探流は、士道ウィルフレッドを愛している』


ワンダーランドで聞いた言葉、あの言葉は、黄船によって相殺されたはずだ。

……だよな?

じゃあ、なんで俺は、頬に添えられたこの手を、叩き落とさないんだ?

なんで俺は、だんだんと顔が近づいてくるウィルフレッドを、突き飛ばさないんだ?

なんで———


「んっ」


唇が、重なる。

———柔らかい。

そんな感想が、真っ先に浮かんだ。


「……っ、」


遅れて、渇探流の眉が寄る。

おかしい。

俺は何を考えているんだ?

そんなことを感じている場合じゃないだろう。

離せ。

叩き落とせ。

拒否しろ。

そう、命じているのに———


「……」


身体が、動かない。

むしろ、ほんのわずかに、力が抜けた。

———まるで、受け入れるかのように。


「……ふ」


ウィルフレッドの吐息が、近くで揺れる。

その距離。

その温度。

———近い。

近すぎる。

なのに。

嫌悪感が、湧いてこない。


「……っ、やめろ」


声は出た———だが、その声は。

あまりにも、弱かった。


「……渇探流君」


唇をくっ付けたまま、名前を呼ばれる。

それだけで、胸がざわつく。

違う。

こんなはずじゃない。


「……離れろ」


もう一度、言う。

今度こそ、力を込めて。

込めた、はずなのに。

ウィルフレッドは、ゆっくりと唇を離した。

その目が、真っ直ぐにこちらを見つめてくる。


「……嫌、でしたか?」

「………………」


答えが、出ない。

嫌だ。

嫌なはずだ。当たり前だろう。

なのに。


「……わからない」


その言葉が、口から落ちた。

自分で言っておきながら、その意味が理解できない。

わからない、とは何だ??

嫌かどうかも、俺は今、判断ができないのか?


「……」


ウィルフレッドは、ほんのわずかに目を細めた。

観察するように。

確かめるように。


「……渇探流君」


静かな声。

逃げ場のない距離。


「もう一度、いいですか?」

「———っ、!!」


その言葉に、渇探流の思考が、一瞬だけ止まった。


止まって、そして———

否定よりも先に、肯定が浮かぶ。


『———いいに決まってるだろう』


「……は?」


今のは、自分じゃない。

自分の思考じゃない。

なのに。

あまりにも自然に、そこにあった。

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