9 ここは何処じゃ?妾は誰じゃ?①
玲奈と中身が入れ替わってしまった『帰蝶』
玲奈にはタイムリープ、異世界転生、はたまた歴史を知っているなどのアドバンテージがあります。
帰蝶には何もない。「知らない天井」どころの話ではないのですね。
この先、『帰蝶』が玲奈としてどう生きていくのか…
合間に入れてまいりますね。
楽しんでいただけると嬉しいです。
玲奈が街中で倒れたあと、時を越えた帰蝶が次に目を覚ましたのは、見知らぬ白い部屋であった。
ひどく眩しい光の中で、帰蝶はゆっくりと目を開いた。
「良かった!目が覚めて。分かりますか?ここがどこか分かりますか?」
白い衣を着た女が、顔を覗き込んでいる。
「……ここは、何処じゃ?」
「病院です。もう大丈夫ですよ」
「びょう……いん?」
聞き慣れぬ言葉であった。
帰蝶はゆっくりと身を起こそうとした。そこで初めて、自分が見知らぬ寝台の上にいることに気づく。
壁も天井も寝台も、何もかもが異様なほど白い。しかも、寝台の脇には見たこともない道具がいくつも並び、小さな画面が光を放ちながら、見慣れぬ記号を映している。
(ここは……何処なのじゃ)
身体が強張った。
その時、廊下から突然、甲高い音が鳴り響いた。
「……っ!」
帰蝶はビクッと肩を跳ねさせた。
「な、何じゃ!」
「大丈夫、大丈夫ですよ。落ち着いてください」
「何の音じゃ! 何者か来たのか!」
「ナースコールですよ」
「なあす……?」
(知らぬ。何一つ、分からぬ)
帰蝶は息を乱しながら、周囲を見回した。
(斎藤家の屋敷ではない。稲葉山城でもない)
見たことのない衣をまとった者ばかりである。男も女も、帰蝶の知る世にはない形の衣を着ている。女たちは髪を自由に垂らしている者もいれば、肩より短く切っている者までいた。
(なんと、女が……髪を切っておる? あり得ぬ)
少なくとも、帰蝶が生きてきた世では、一度も見たことのない姿であった。
「……ここは、まことに何処なのじゃ」と、帰蝶は震える声で呟いた。
やがて、医師がやって来た。
「お名前は分かりますか?」
「……」
「あなたのお名前です」
帰蝶は迷ったが、自分が自分の名を答えることに、何のためらいがあろう。
「妾は……帰蝶じゃ」
「キチョウさん?」
「そうじゃ」
「名字は?」
「名字?」
「はい。名字です」
帰蝶は眉を寄せた。
「斎藤家の……」
そこまで口にして、帰蝶は言葉を止めた。
「斎藤家を存じておるか?」
医師と看護師が顔を見合わせる。
「どちらの斎藤さんでしょう?」
帰蝶の胸がざわついた。
(斎藤家を知らぬ……? この者たちは、本当に何も知らぬのか)
ここで「帰蝶」と言い続けても、おそらく何も始まらぬ。
むしろ、自分が何者なのか知られてしまえば、何をされるか分からない。敵陣かもしれぬ。
「……分からぬ」
「分からない?」
「何も……覚えておらぬ」
帰蝶は目を伏せた。
「名前も、家も……何も」
(これでよい。何も知らぬ者として振る舞えばよい)
そう決めた。
「そう…ですか。では、持ち物からご家族に連絡しましたので、明日には来られるはずですよ。岐阜から都内までは少し遠いですからね。時間も時間でしたし」
「……家族とな?」
帰蝶は顔を上げた。
「誰のじゃ」
(ここに妾の家族など、おるはずもない)
医師は少し困ったように笑った。
「あなたのご家族ですよ。あなたの名前は一ノ瀬玲奈さんです」
「……」
(いちのせれな……とな……誰じゃ、それは)
(この身体は妾ではないのか?)
その時は、それ以上を尋ねることができなかった。
その日から、帰蝶は「記憶を失った少女」になった。
けれど、その演技には一つ、大きな問題があった。
「では、こちらに横になってください」
「いやじゃ」
「え?」
「何をするのじゃ」
「CTを撮ります」
「しー……なんと?」
「身体の中を調べる検査です」
「身体の中を……?」
(身体の中を調べるじゃと?)
帰蝶は撮影台から逃げようとした。
「待って、危ないですよ!」
「嫌じゃ!」
何をされるのか分からない。白い衣の者たちは、身体の中を見るなど恐ろしいことを平然と言う。
抵抗虚しく何人もの者に囲まれ、撮影台へ戻されてしまう。
「少し身体を固定しますね」
「固定?」
次の瞬間、腕や身体を動かさぬよう、拘束ベルトを掛けられた。
「何をする!」
「動くと危ないんです」
「放せ!」
帰蝶は必死に身を捩った。
(何故、妾を縛る! ここはどこなのじゃ!)
見知らぬ場所で、見知らぬ者たちに身体を押さえつけられる。
恐ろしくて仕方がなかった。
「大丈夫ですから!」
「それは、妾が決めることじゃ! 大丈夫ではない!」
帰蝶の声が響き渡った。看護師は困ったように眉を下げている。
その後も、恐ろしいことは次々と起きた。
「少し採血しますね」
「さいけつ?」
細い針を見た瞬間、帰蝶の顔から血の気が引いた。
「それは何じゃ!」
「血液を少し取ります」
「血を取るじゃと!?」
「ほんの少しですから」
「嫌じゃ!」
帰蝶は本気で逃げた。
「動かないでくださいね」
「嫌じゃと言うておる!」
それでもまた数人に押さえつけられ、針は腕に刺さった。
「っ……!」
涙が浮かぶ。
「痛い……!」
「大丈夫ですよ」
「何が大丈夫じゃ!」
(血を抜くなどと、何という恐ろしいことをするのじゃ……)
検査を終え、帰蝶は病室へ戻された。
病室には寝台の脇に小さな部屋が続いており、見たことのない椅子のようなものが置かれていた。
「ここは何じゃ?」
「お手洗いですよ。病室の中にあるので、いつでも使ってくださいね」
「おてあらい……?」
(何をするものなのじゃ……)
しばらくそれを見つめたあと、帰蝶は真顔で看護師に尋ねた。
「……これは、何をどうするものなのじゃ?」
看護師が絶句したが、帰蝶は大真面目であった。
「んー……ここまで記憶がなくなることってあるのかしら。言葉遣いは変だけど、喋れるのにね」
(この者は……妾を怪しんでおるのか?)
帰蝶は黙って看護師を見つめた。
しかし看護師は、それ以上追及することなく、丁寧に使い方を教えてくれた。その病室のトイレは自動開閉のものだったので、看護師が近づくとゆっくりと開いた。
「ふ、蓋が開いた!生きておるのではないか?」と、帰蝶は看護師の後ろに隠れた。
「大丈夫ですよ~センサーですからね。蓋が開いたらここに座って、用を足してください。終わったらトイレットペーパーで拭いてくださいね」
「ここに座って小水をするのか?」
「はい。終わったら、このボタンを押してください」
看護師が便器の脇にある小さな操作盤を指差した。
「この板を押せばよいのか?」
「そうです。こちらが流すボタンで、こちらがウォシュレットです」
「……うぉっしゅれ?」
「お尻を洗ってくれる機能です」
「し、尻を……洗うじゃと? これがかぇ?」
帰蝶は首を傾げた。
だが、看護師は呼ばれて部屋を出ていってしまった。
「分からぬ者を残していくでない……」
帰蝶は不安そうに操作盤を見つめた。
用を足したあと、帰蝶は看護師に言われた通り、いくつか並んだボタンの一つを押した。
次の瞬間。
「ひゃあああああっ!」
便器の中から、勢いよく水が噴き上がった。よりにもよって水流が『強』になっていたようだ。
「な、何じゃあああっ!」
反対向きに座ってしまっていたため、水は帰蝶の身体を直撃した。
衣も、足も、床も、壁も、あっという間に水浸しになる。
「止まれ! 止まらぬか!」
帰蝶は慌てて別のボタンを押した。
だが、それは水を止めるものではなかった。
今度は別の場所から水が噴き出し、帰蝶の頭から顔までずぶ濡れになった。
「ぶわっぷ!何故じゃ! 何故、止まらぬ!」
ようやく看護師が駆け込んできた。
「どうしたんですか!」
「これは何じゃ! 厠が暴れておる!」
「えっ……あっ、ウォシュレットを押しちゃったんですね!」
「うぉっしゅれなど知らぬ! 妾も厠も、びちゃびちゃではないか!」
帰蝶は髪から水を滴らせながら叫んだ。
看護師は驚いた顔をしたあと、とうとう吹き出してしまった。
「申し訳ありません……でも、座る向きが逆ですよ。こっちを向いて座るんです。それに、そこは水を止めるボタンじゃなくて……」
「ならば、最初からそう申せ!」
「すみません。まさか本当にトイレの使い方も覚えていないとは思わなくて」
看護師は笑いを堪えながら、ベッド周りのカーテンを引き、帰蝶の入院着を着替えさせた。トイレに入るだけで帰蝶はぐったりと、疲れ果ててしまった。
その後、帰蝶のウォシュレットシャワー騒動や妾言葉を聞いている看護師たちの間では、いつしか彼女を「姫様」と呼ぶ者が現れたという…
着替えを終え、看護師はトイレ横の洗面所へ帰蝶を連れていった。
「姫様、洗面所で顔を洗いましょう。ウォシュレットがかかっちゃったので」
「せんめん?」
先ほどは気づかなかったが、壁には大きな鏡が掛かっていて、鏡の下には白い水受けがあり、銀色の何かが取り付けられていた。
「これは……」
(なんじゃ? これが鏡と申すか。このように美しいものは初めて見た。それに、この顔は……)
なにやら色の薄い髪。長さも肩まで届かない。どうりで軽かったわけである。
白い肌。大きな瞳。濡れた髪が頬に張りつき、驚きに見開かれた目が、こちらを見返している。
「……お前は誰じゃ」
帰蝶は思わず一歩後ずさった。鏡の中の女も、同じように一歩下がる。
「な、何じゃ、この者は!であえ!」
だが、誰も駆けつけてくることはない。ここは稲葉山城ではないのだ。
(ここは何処なのじゃ)
いかがだったでしょうか。書いているうちに、「ん、あれもだな。これもだな」とお話がめっちゃ長くなってしまいまして(;^ω^)
続きます~




