10 ここは何処じゃ?妾は誰じゃ?②
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「姫様?」
呼ばれても、帰蝶は動けなかった。
目の前にいる女がこちらを見ている。だが、どうにも妙だった。帰蝶が少し身を寄せると、その女も同じように近づいてくる。顔を傾ければ向こうも傾け、目を細めれば、女の目も同じように細くなった。
何じゃ、この女は。看護師がすぐそばにいることも忘れ、帰蝶はその顔から目を離せなかった。誰かがそこに立っているのなら、なぜ自分と同じ動きをするのか。こちらの真似をしているのかと思っても、そんなことをする理由が分からない。
頬に触れてみると、女も同じところに手をやった。目元に指を移せば、向こうの指も目元へ動く。何度確かめても同じだった。
その時、記憶の底に沈んでいたものが、ふいに浮かんできた。姿を映すものがあったはずだ。そう考えた瞬間、目の前の女の正体が分かった。
「……これは鏡?」
口にした言葉が、目の前の女の正体を教えてくれた。ここにいるのは知らない女ではない。この女は、妾の姿を映している。
そう分かったはずなのに、帰蝶は目の前の顔を己のものだとは思えなかった。
頬に触れ、目元をなぞると、そこには小さな黒子があった。自分と同じ場所にある。けれど、それだけでは、この顔が自分の顔だと納得するには足りなかった。
妾の髪は腰より下まで伸びた漆黒の髪じゃ。けれど、鏡の中の髪は肩にも届かぬほど短く、色も違う。顔立ちも、記憶にある自分とはどこか違うておる。
これが妾なのかと思ってみても、目の前の姿と、帰蝶の記憶の中にある己がどうしても重ならない。
周りの者たちは、自分を玲奈と呼んでいる。
【いちのせれな】
何度か聞かされたその名は、言葉としての意味なら分かる。だが、その名を持つ娘について考えようとしても、何一つ思い浮かばない。恐ろしさに、全身に鳥肌がたった。
帰蝶という名なら分かる。それが己の名だからだ。では、れなという娘は誰なのじゃ。
帰蝶が鏡を見つめたまま動かずにいると、看護師がそっと声をかけた。
「姫様、さっき水がかかっちゃいましたから、顔と手を洗いましょうね」
そう言われて初めて、顔や手が濡れていることに気づいた。先ほど用を足したとき、突然水が出てきて顔にまでかかったのだ。あれはいったい何だったのか。今考えても、さっぱり分からない。
看護師に連れられて洗面台の前まで行くと、手を取られ、蛇口に手を伸ばした。すると、触れてもいないのに水が流れ出した。
「水が……!」
帰蝶は手を止めた。何もしていないのに水が出る。ならばこれは、どういうからくりなのか。少し手を離してみると、水が止まった。もう一度近づければ、また流れ出す。
「なんじゃ、これは」
看護師が何か説明しているが、帰蝶の耳には入っていなかった。ここでは、水を出すために、いちいち誰かを呼ばなくても良いらしい。
言われるままに顔と手を洗うと、濡れた頬を手のひらで確かめた。水そのものは知っているものと変わらない。それなのに、水を出す方法ひとつで、こんなにも分からないことが増える。
食事が運ばれてくると、帰蝶はこの場所で楽しみにできるものを見つけた。
見慣れないものばかりだったが、口にしてみれば、どれもかなりの美味じゃった。
「これは……なんとうまし!」
姫にはあるまじき速さで、食べ終わってしまった。そして膳に乗る、蓋のついた透明なものが気になった。
「これは何じゃ?」
「ゼリーですよ」
「ぜりい……」
聞き慣れぬ名を口の中で呟いてから、一口食べる。ぷるりとした不思議な食べ物だが、嫌いではない。むしろ、もっと食べたい。
「もう一つ、持て」
「おかわりですか?」
「そうじゃ。これをもう一つ所望する!」
「昼食のデザートは、1人1個ですよ」
帰蝶は空になった器を見た。
「もうないのか?妾が持てと言っておるのじゃ!ぜりいとやらを、持ってまいれ!」……と、騒いだとておかわりは出なかった。だがここは、飯だけは良いところじゃな。
そう思えるものが一つあるだけで、知らない場所でも少しばかり気が楽になった。
時を計るという便利なからくりも、最初は何を示しているのか分からなかった。文字らしきものが並んでいることは分かっても、それが何を意味するのかまでは分からない。
けれど、朝餉が7時、昼餉が12時、夕餉が6時だと教えられれば、覚えるのはそう難しくなかった。動く棒の位置で、時を覚えれば良いようだ。
分からないものばかりでも、食事の時だけは分かる。帰蝶にとっては、それだけでも十分ありがたかった。
昼餉を終えしばらくすると、慌ただしく病室の扉が開き、焦った顔をした男女が入ってきた。
「「玲奈!」」
2人とも、帰蝶の顔を見るなり駆け寄ってくる。
何事かと思って身を固くしたが、男はすぐに足を止め、帰蝶の顔を覗き込んだ。
「玲奈、分かるかい? お父さんだよ」
「お母さんよ」
その言葉を聞いた瞬間、帰蝶の中に知っている顔が浮かんだ。帰蝶の父は斎藤道三、母は小見の方であり、目の前にいる2人は、その記憶にある父母とはもちろん違っている。
けれど、この2人が、れなという娘の父と母なのだということは分かった。そうでなければ、なぜ2人とも、これほど必死な顔で、涙を潤ませながら自分を見ているのか。
「玲奈、ずっと1人で心細かっただろ? 遅くなって悪かったな。もう大丈夫だよ。お父さん、ここにいるからな。」
男の声は震えていた。帰蝶は返事をしようとして、言葉を止めた。
父ではないと思ったのに、目の前の男がこんなにも心配そうに自分を見ている姿に、なぜか胸が苦しくなった。
女も何度も帰蝶の顔に触れ、無事を確かめている。
「怖かったでしょう。ごめんね。お母さん達がもっと早く来られたらよかったんだけど」
女の温かな手が、帰蝶の手に触れた。
この女は母ではないのだから、知らぬ者の手なら離してしまえばよい。そう思うのに、帰蝶はその手を振りほどかなかった。
母上の手ならもっと細く、もっと馴染んだ感触を知っているはずなのに、今触れているこの手を離したくないとも思ってしまう自分がおる。
女は何も言わず、ただ帰蝶の手を包んでいる。ぽとりとあたたかいものが、その手の上に落ちてきた。
「……母、上」
思わず口からこぼれた言葉に、帰蝶自身が戸惑った。
この者が母上ではないことは分かっている。母上は小見の方じゃ。それなのに、帰蝶の手は動かなかった。
隣では男が、ほっとした様子で帰蝶を見つめている。この2人にとって、目の前にいるのは帰蝶ではなく、れななのだ。
当然じゃ。この2人は妾を知らぬ。帰蝶という名を呼ぶ者は、もうここにはおらぬのだろう。
帰蝶は女の手の中にある自分の手を見た。れなとして見られているが妾は帰蝶だ。その2つが、まだどうしても一つにならなかった。
「まだ先生と詳しい事はお話ししてないのだけど……途中の列車であなたの記憶がないようだと電話があって……本当なの? 玲奈?」
母と名乗った女の目からは、ずっと涙がこぼれ落ちている。
なぜ、そこまで泣くのだろう。帰蝶には、この女のことが分からない。なのに目の前の女は、まるで大切なものを失いかけているような顔をしていた。
「……すまぬ、何ひとつ覚えておらんのじゃ。ここは何処で、妾は誰なのじゃ……?」
女は唇を噛んで涙を拭った。それから、帰蝶を安心させるように微笑んだ。
「大丈夫よ。しばらく大学は休学させてもらって、岐阜に帰りましょう……地元に戻ったら、何か思い出すかもしれないし」
「……あぁ、そうだな。それがいい」
父と名乗った男も、震える声でそう言った。
「岐阜に帰る」という言葉を聞いても、帰蝶には何のことか分からなかった。帰ると言うなら、妾が帰るべき場所はどこなのじゃと思ったが、答えは出てこなかった。
けれど、分からぬことを恐れてばかりいるわけにもいかぬ。知らぬ場所へ行くのなら、まずは人を見よ。人が何をしているのかを見れば、おのずと分かることもある。
幼い頃、父上にそう教えられたことを、帰蝶は思い出した。
「知らぬことを知らぬと言うのはよい。だが、知らぬまま人に己を晒すな。」
その教えだけは、今もはっきりと覚えている。
入れ替わって現代へきた帰蝶。やはりかなりカルチャーショックのようです。もし自分なら…耐えられるかわからないですね。




