7 本の中の人
お読みいただき、かたじけのうございます…
各務野は、玲奈を鏡台の前に座らせ、長い髪を丁寧に梳いていった。櫛を通すたび、長い髪がさらりと肩を流れていく。
いつもならここで髪油を少量なじませ、後ろ髪を元結で結ぶ。それが、帰蝶のいつもの身支度だった。
――けれど今、各務野は髪油に手を伸ばさなかった。
そのまま櫛を置き、顔周りに垂れた短い髪だけを、赤い花の飾り紐で軽く留めた。
それは、帰蝶がまだ幼かった頃にしていた髪型だった。
「……姫様。お支度、整いましてございます」
玲奈は、目の前のおそらく鏡であろうものへ、視線を向けた。
「……え?」
思わず声が漏れる。そこには、ぼんやりとした人影が浮かんでいた。顔の輪郭は分かる。けれど、目や鼻までははっきりしない。
玲奈は少し身を乗り出した。
「……これ、鏡?…でございますか?」
限界まで近づいてみても、映る顔はぼんやりとしたままだった。現代の鏡とは、あまりにも違う。
(何も見えない……これ水鏡の方が映るんじゃない?)
「鏡でございますが……何か?」
「あっいえ…鏡があるなんてすごいなと思うて?」
「……左様でございますか」
各務野は、それ以上は問わなかった。玲奈はもう一度鏡を見る。
顔は分からない。けれど、左右で揺れる赤い飾り紐だけは、かすかに映っていた。玲奈は、それを見てふっと笑う。
「ありがとう、各務野。いつも綺麗にしてくれて」
その言葉に、各務野の目が鋭く細められた。
「……いつも?」
玲奈は自分の顔を見ようと鏡に夢中で、各務野の言葉を聞き逃していた。
玲奈の横顔を見つめる各務野の顔に、もはや微笑はなかった。
髪油をつけていない。後ろで元結も結んでいない。それどころか、幼い頃の髪型にしてみたというのに――。髪飾りもまたしかり。
帰蝶ならば、気づかぬはずがない。
「姫様」
「なんでござりますか?」
「……この結び方を、ご覧になって何か思われませぬか?」
玲奈は赤い飾り紐を指先でつまんだ。
「え? ううん。とても可愛いと思いまする」
その答えに、各務野は小さく息を呑んだ。
可愛い――。帰蝶ならば、この結び方を知らぬはずがない。幼い頃、自分がしていたものなのだから。
各務野は静かに目を伏せた。
――やはり。
胸に抱いていた違和感は、もう気のせいとは思えなかった。
この方は……何かがおかしい。もしや姫様ではないのではないか。
そんな突拍子もない疑念が、各務野の中で確かな形を持った。
玲奈は、ぼんやりとした鏡の中の顔を、もう一度覗き込んだ。
やはり、顔立ちはよく分からない。
けれど――。
「……あれ?」
目元に、ほんの小さな黒い点が見えた。玲奈は思わず、自分の右目の下へ指を伸ばす。
「……泣きぼくろ?」
指先が、確かにそこへ触れた。玲奈自身にも、全く同じ場所に小さな泣きぼくろがあった。子どもの頃からずっとある、自分の目印のようなもの。
「……私と同じ?」
鏡の中の表情は見えない。それなのに、その小さな一点だけは妙に鮮明だった。ただの偶然なのに、胸の奥が、ほんの少しだけざわついた。
「姫様?」
各務野の声に、玲奈は我に返る。
「あ……どうということもない」
玲奈が鏡から離れると、各務野は何も言わず、その様子をじっと見つめていた。
そこへ福が小さな器を手にして近づいてくる。
「姫様、こちらを」
「これは?」
「紅にございます」
「紅……」
玲奈は器の中を覗き込む。
ほんの少し赤みを帯びた紅が、器の中にのっている。
「これを……?」
「はい。ほんの少しだけ」
福は紅を筆に取り、玲奈の唇へそっとのせた。
ひやりとした感触に、玲奈は少しだけ肩をすくめる。
「冷たい」
「すぐ慣れまする」
「そう?」
福は笑いながら、慎重に紅をのせていく。
現代に自分で化粧をするときとは、あまりにも違う。
口紅ひとつ塗るだけでも、誰かの手を借りなければならない。
玲奈はそんなことを考えながら、されるがままになっていた。
「……これでよろしゅうございます」
福が一歩下がる。
「どう?」
「ようお似合いでございます」
「ありがとう」
玲奈は嬉しそうに笑った。
その笑顔を見ても、各務野の表情は晴れなかった。
「では、参りましょう」
その言葉に、玲奈は立ち上がった。
――その瞬間だった。
「わっ……!」
思っていたよりも着物の裾が長く、足がもつれてしまった。しかも、身体を包む衣の重さにも、まだ慣れていない。前へ倒れそうになった玲奈の手を、各務野が咄嗟につかんだ。
「姫様!」
「……あ、危なぁセーフ!」
玲奈は胸を押さえた。
「せーふ…?とは?」首を傾げた各務野の眉根が寄る。
「あ、違いまする!その、あやうく転ぶところでございました」
「お怪我はございませぬか?」
「うん。大丈夫です」
玲奈は今一度、足元を確認した。一歩、一歩、裾を踏まないように、ゆっくりと歩く。
それを見た各務野が玲奈の手を取った。
「こちらへ」
「ありがとう」と、玲奈は素直にその手を預けた。
廊下へ出ると、左右見渡して驚いた。思っていた以上に長い廊下だった。
(掃除がマジで大変そう…)
足の裏に伝わる板の感触、衣擦れの音、どこからともなく漂ってくる香の匂い。玲奈は歩きながら、本当に知らない場所を歩いているという実感を強くしていった。
そして、その先にいる人物のことを思う。
――斎藤道三。帰蝶の父。玲奈は知らず知らずのうちに、握られた各務野の手に力を込めた。
「姫様?」
「……ううん。だ、大事ございませぬ」
そう答えたものの、胸の鼓動は少しずつ速くなっていく。やがて、前方に人の気配がした。
各務野は一つの部屋の前で足を止め、その場に膝をつくと襖に手をかけた。
襖の向こうには、すでに人が集まっているらしい。
「ここから先は、くれぐれもお気をつけくださいませ」
「……はい」
何に気をつければいいのか、玲奈には分からない。
ただ、ここから先にいるのは、自分が本の中でしか知らなかった人物なのだろう。
「お館様、各務野にございます。姫様をお連れいたしました」
「入れ」低音で落ち着いたよく通る声を合図に、襖が静かに開かれた。
その先には、左右に二人ずつの男性が控えている。
そして、そのさらに奥――。
上座に、一人の男が座していた。
玲奈は思わず息を呑んだ。視線が男の頭へと吸い寄せられる。1本も髪の生えていない頭が、いやに目についた。
「……」
(えーーーーー。)
玲奈の頭の中に、思わず現代の言葉が浮かぶ。
(……本当に、ハゲてる。ハゲ散らかしてるじゃん!)
しかも、ツルツル――。
玲奈はあんぐりと開けた口を慌てて閉じた。声を出さなかった私を誰か褒めてほしい。
「お、お呼びと伺い、参りました」と、入り口で両手をつき頭を下げた。
「ふむ、顔をあげよ、帰蝶」
玲奈は一瞬、自分のことだと思わず、顔をあげるのが遅れてしまった。各務野に小声で促され、慌てて体を起こす。
「は、はい父上」
怖いもの見たさで、どうしても視線が頭へ向いてしまう。
これが。
これが、あの――。
**美濃の蝮、斎藤道三。**
まさかのイラスト通りの人だった!
とりあえず帰蝶のパパに会いました!
いろんなサイト見ても本で調べても、斎藤道三は、ツルツルでした( ´∀` )
ここはちゃんと、再現されてるのかなとそれに乗っかりました。
昔の人はなぜ頭頂部を剃るのかと思えば、兜をかぶるときに蒸れるからだそうな…
中国の辮髪とはまた意味が違うらしいですね。キョンシー思い出します( *´艸`)
でも蒸れるからってあそこだけ剃らなくたってと思うのは、私だけでしょうか?




