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半月の帰蝶〜歴史の先にあなたがいる〜  作者: 日向 葵衣


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2 半月の夜

よろしくお願いいたします。

 十九歳になった秋。


 玲奈は、大学で日本史を専攻する二年生だった。


 その日の帰り道、駅前のコンビニで買ったアイスを片手に、スマートフォンの予定表を眺めていた。


 夕方の街には、仕事帰りの人々が行き交っている。


 信号が変わるたびに人の流れが動き、車のライトがアスファルトを白く照らした。


 少し冷たくなった風が、玲奈の頬を撫でていく。


 画面には、始めたばかりのヨガの予定が残っていた。


 三回。


 たった三回通っただけで、もう行かなくなっている。


「……またやっちゃった。思ってたのとちょっと違ったんだよな」

 

 玲奈は苦笑いした。奮発してヨガウェアまで買ったのに…


 「英会話と料理教室は楽しくて、けっこう長く続いねたんだよね…先生めっちゃかっこ良かったし。でも結局大学入ったらスケジュール合わなくて、辞めちゃったんだよね」


 何度繰り返しても、懲りない。興味を持つと、すぐに始めて夢中になる。


 ある程度できるようになると、また別のことが気になってしまう。いわゆる、器用貧乏タイプだと自分では思っている。


「私、ほんと何やっても続かないなぁ」


 そう呟き、玲奈はスマートフォンを鞄にしまった。


 それでも、歴史だけは違った。教室に通う必要もない。誰かに褒めてもらう必要もない。ただ、知りたかった。


 信長は、本当に恐ろしいだけの男だったのか。帰蝶は、どんな気持ちでその隣にいたのか。


 あの時代を生きた人々は、何を考え、何を信じ、何を守ろうとしていたのか。


 答えをひとつ見つけると、次の疑問が生まれた。


 気がつけば玲奈は、何年も同じ時代を追いかけていた…


「あなたってほんと信オタね!」と、友達の美咲がいつも呆れながら笑っている。自分でも、オタクと言うよりストーカーが正しいかな?と苦笑いをしてしまった。


「ふふっ」


 そのときだった。


 ふと、空が気になって顔を上げると薄い雲の向こうに、月が浮かんでいた。満月には少し足りないけれど、欠けた月には妙な美しさがあった。


「……半月かぁ、見事に半分ね」


 玲奈は足を止めた。なぜだろう。ただの見慣れたはずの月なのに、目が離せなかった。


 胸の奥が、かすかにざわつく。今夜の月は、まるで自分に何かを問いかけているようだった。


 玲奈は、しばらくその場に立ち尽くしていた。


 秋の夜らしい少し冷たい空気を感じていると、街の明かりが滲み、遠くの車の音がふいに遠ざかっていく。


 玲奈は眉をひそめた。


「……え?」


 風が止まり人の声が消えた。車の音も、信号機の音も、すべてが一瞬で途切れた。


 まるで世界そのものが、息を止めたかのようだった。


「ちょっと……何、これ……?」


 足元が、ふっと浮いたように感じたが、実際は身体の方が落ちていた。あったはずのアスファルトがない。


 玲奈は反射的に手を伸ばしたが、つかむものは何もなかった。


 目の前に残っていたのは、ただひとつの半月だった。


 さっきまで空に浮かんでいたはずの月が、あり得ないほど近くに見える。


 その光が、玲奈の視界を満たしていく。その時、頭の中に聞いたことのない声が響いた。


 かすれていて遠い、それなのになぜか胸が痛くなる声だった。


 ――帰りたい。


「……誰?」


 玲奈は声を上げた。


「誰なの……?」


 返事はなかった。ただ、半月の光だけが、静かに広がっていく。


 玲奈は最後に、何かを思い出しかけた。


 雨の匂い。


 濡れた石。


 そして、引かれる大きな誰かの手の温もり。けれど、それが誰の記憶なのか、わからなかった。


 次の瞬間、玲奈の意識は深い闇の中へ落ちていった。


     *


 同じ頃。


 遠い時代のある城の一室を、秋の夜風が障子をかすかに揺らしていた。


 灯明の火が小さく瞬き、部屋の隅に置かれた香炉から、白檀の甘い香りが静かに立ち上っている。


 文机の上には、書きかけの和歌が置かれていた。そのそばには筆と硯。琴には布が掛けられ、扇は几帳の脇に丁寧に置かれている。


 部屋の主は、幼い頃からさまざまな教養を身につけてきた。筆を持ち、和歌を学び、琴の音を覚え、舞の所作を身につける。


 客人の前での振る舞いも、衣の選び方も、香の扱い方も…。武家の姫として求められることを、ひとつずつ教えられてきた。


 けれど、それらは自分の好きなことを自由に選んだ結果ではなかった。


 いつか嫁ぐ日のために、家と家を結ぶ役目を果たすために。


 そして、どのような場所に置かれても、恥じぬ姫であるために。


 教養を身につけるほど不自由になり、身につけたものが増えるほど、自分に課せられる役目も増えていく。


 部屋の主が窓の外を見上げると、雲の間に半月が浮かんでいた。その月を見つめる瞳には、まだ幼さが残っていた。


 けれど、その奥には、誰にも見せていない寂しさがあった。


 彼女の名は、帰蝶。


 美濃の斎藤道三の娘。そして、いずれ織田信長の妻となる女性。


 帰蝶は、半月を見上げたまま、胸の奥に湧いた不思議な感覚を押さえられずにいた。


 遠く離れた場所から、誰かが自分を呼んでいる。そんな気がした。


「……誰なの?」


 帰蝶が小さく呟いた瞬間、半月の光が揺らいだ。


 同じ時刻、現代の玲奈の前でも、半月が強く輝いていた。二つの時代に浮かんでいた半月が、まるで互いを探すように、空の彼方から引き寄せられていく。


 現代の夜空にあった半月と、過去の城を照らしていた半月。本来なら交わるはずのない二つの月が、時の隔たりを越えて重なった。


 欠けていた光と欠けていた光がひとつになり、夜空を満たすほどの満月へと変わっていく。その光は、月明かりとは思えないほど強かった。


 街の建物も、城の屋根も、雲も、木々も、すべてが白銀の光に包まれる。


 玲奈は、目の前で膨れ上がる光に手をかざした。


「まぶしい……!」


 帰蝶もまた、袖で顔を覆った。


「これは……なんぞや……?」


 二つの半月が完全に重なった瞬間、満月の光が一気に弾けた。


 時代を隔てていた闇が裂け、現代と過去の境目が消える。


 玲奈の意識と帰蝶の意識が、強い光の中で引き寄せられていく。


 最後に聞こえたのは――


 ――帰りたい。


 満月の光が、二人の姿を包み込む。


 次の瞬間、玲奈の意識は深い闇の中へ落ちていった。


 そして帰蝶の意識もまた、時の彼方へと引き込まれていった。


     *


 この夜。


 現代を生きる少女と、遠い時代を生きる少女の運命が、静かに交わった。


 そして二つの半月がひとつの満月になった瞬間――


 二人の人生は、大きく動き始めた。

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