94. 鈴麗の事情
鈴麗が駆け落ちを決意したのは、皇帝への輿入れが決まった翌日のことだった。
皇帝について様々な噂を聞いていた鈴麗は、きっといけ好かないおじさんに違いない、皇帝に対してそんな印象を抱いていた。
(私が結婚するのは、お兄さんよ)
鈴麗がお兄さんと呼び、慕ってきたのは、鈴麗が長らく自身と相思相愛なのだと信じて疑っていない、近所に住む3つ年上の青年だった。
幼い頃から、見目麗しく、また同世代の中では突出して頭脳明晰であると、鈴麗の住む地域では有名な男の子だった。
多くの少女が色めきたったが、彼は男の子とはよく遊び笑いあっても、女の子に対しては冷たい視線を向けるだけだった。
そんな彼が、いつだって、鈴麗だけには優しい笑みを向けてくれていた。
両親や使用人に、常にちやほやされ、自分は特別な存在なのだと信じて育ってきた鈴麗は、彼が自身に惹かれているのだということを疑うことさえなかった。
「お兄さん、助けてっ!私、皇帝と結婚させられちゃうのよっ!」
鈴麗がそう言って青年の元を訪ねると、青年は驚愕の表情を浮かべた。
きっと愛する自分が、他の男のものとなってしまうことに、衝撃を受けたに違いない。
青年の表情を見た鈴麗は、瞬時にそう思った。
「私が結婚したいのは、お兄さんだけなのよ」
「えっ?」
「だからお願い、私が皇帝に輿入れさせられる前に、私を連れて逃げてっ!」
そう言った鈴麗を、青年は拒絶することはなかった。
やっぱり青年は鈴麗のことが好きなのだ、鈴麗はあらためてそう思った。
鈴麗は決して、無計画にそのまま青年と何も持たず飛び出す、といったことはしなかった。
まずは家へと戻り、父の金庫からたくさんのお金をくすねた。
お気に入りの高価な着物や装飾品等も、持てるだけ荷物に詰め込んだ。
そうして、万全の準備をして、もう一度青年の元を訪れた。
青年は想像以上の金額の金に驚愕しながらも、自分も身支度を行い、翌日には鈴麗とともに逃げてくれた。
これで、きっと自身は皇帝へ輿入れしなくて済む。
そして、いつしか、これほど情熱的に愛し合う二人の結婚を、自身を愛してやまない父なら認めてくれる。
(私は、お兄さんと、幸せになるの)
この時の鈴麗は、そう信じて疑うことはなかった。
最初のうちはよかった。
鈴麗が持ち出した多額のお金があるおかげで、どこへ行こうと生活にさして困るようなことはなかった。
二人はすぐに落ち着ける小さな家を借りることができたし、食べることに困ることもなかった。
だが、青年はまだ若く、頭は良くとも働いた経験などあまりなかった。
そんな人間が見知らぬ土地でいきなり良い仕事に就くことができるはずもなく、稼ぎは期待できなかった。
さらには、一ヶ所にずっと留まっていると父に見つかってしまう、と鈴麗が騒ぐため、何度か移動も行った。
何よりも青年を悩ませたのは、わがまま放題に育った鈴麗が、節約しながら生活することができないことだった。
自身が多額のお金を調達してきたのだがらと、鈴麗は後先考えず高価な買い物を行ったりもした。
そうこうしているうちに、夏を過ぎる頃には持ち出したお金も残りわずかとなってしまった。
その頃になって、ようやく鈴麗も少しだが節約することを覚えてくれたが、それはあまりにも遅すぎた。
残っているお金だけでは生活ができず、青年ができる仕事を行ったところで、お金はやはり減る一方だった。
そこで、鈴麗が持ってきた高価な着物や装飾品を売って、凌いだりもした。
しかし、それでも、寒い冬を乗り越えるには、少々心もとない金額しか、二人の手元にはなかった。
小さな家で、震えながら過ごす冬は、いつも豪華な家で暖かな冬を過ごしてきた鈴麗には、到底耐えられるものではなかった。
「もっと、仕事をして、お金を稼いできてよっ!こんなに寒いの、耐えられないわっ!」
不満から、鈴麗は青年に当たり散らすようになった。
しかし、それは鈴麗だけではなかった。
「ふざけんな、誰のせいで、こんな思いをしなければいけなくなったと思ってるんだっ」
鈴麗にいつも優しい笑みを向けるだけだったはずの青年もまた、鈴麗に怒号を浴びせるようになったのである。
「なんで!?どうして、私にそんな酷いことが言えるの!?」
丞相の娘として愛されて育った鈴麗は、どれほど周囲に酷い言葉を投げつけようとも、投げつけられる側になることなどなかった。
信じられない、と驚愕の表情で鈴麗は青年を見つめた。
だが、信じられないことは、それだけではなかった。
「私のこと、愛してるんでしょ!?」
「愛!?そんなわけないだろ!お前に気に入られれば、丞相の家に婿入りできるかと思っていただけだっ!」
そう、青年はただの一瞬たりとも、鈴麗と相思相愛だった瞬間などなかった。
丞相には、息子がいない。
だから、頭脳明晰だと評判になり、鈴麗にも気に入られることで、丞相の跡継ぎの座を狙っていただけにすぎなかったのだ。
そのためだけに、わかりやすく鈴麗だけに優しくし、その他の女性にはまるで関心を示さないという態度を貫いてきたのだった。
「すぐに丞相に見つかって、婿に迎えてもらえるかと思ったのに、大誤算だよっ!」
鈴麗が持ち出したお金は、数ヶ月であれば悠々自適に暮らせるだろうくらいたくさんあった。
だから、青年の計画ではとりあえず数ヶ月ほど鈴麗とどこかで生活し、お金が無くなる前には丞相に見つかる予定だったのだ。
数ヶ月も経てば皇帝への輿入れの話も、上手くいかなくなっているだろうし、娘に甘いと言われている丞相が、駆け落ちまでしたのならと自身との婚姻を許可してくれることを期待して。
だが、青年の予想に反し、鈴麗があちこち移動したがったために、青年の計画はすっかり狂ってしまった。
「嘘よ、お兄さんは、私のことが好きなはずよ」
鈴麗がいくらそう言ったところで、青年は最後までその言葉を肯定してはくれなかった。
結局、鈴麗は寒い冬に耐えきれなくなり、丞相が見つける前に自身の足で家へと戻ったのだった。
鈴麗が家に戻り、最初に聞いたのは重華が鈴麗の代わりに皇帝の元へ輿入れしたことだった。
それだけではない、いずれ鈴麗と入れ替えるためのただの身代わりでしかなかったはずが、今やすっかり皇帝の寵愛を一身に受ける立場なのだという。
丞相である父でさえ、簡単には手出しができないのだと聞き、鈴麗は怒りに震えた
(私は大変な思いをしていたというのに、身代わりの分際で皇帝に寵愛されてるなんて……っ)
そもそもの発端は、鈴麗が皇帝への輿入れを嫌がり、逃げて駆け落ちしたことなのだが。
そんなことはすっかり棚に上げ、鈴麗はただただこの場にいない重華へとその怒りをぶつけていた。
重華は常に鈴麗よりも不幸であるべきだ、鈴麗はいつもそう思ってきた。
本来ならば、重華は今もここで虐げられる日々を送るべきなのだ。
それが、きっと手に入らないものなんて何もないだろう、この国の最高権力者に寵愛されている、その事実は鈴麗にとってあまりにも受け入れがたいものだった。
「お父様、重華は私の代わりだったのでしょう?私が予定通り輿入れします。だから、重華を戻してください」
鈴麗は、丞相にそう願った。
鈴麗の想像の中の皇帝は、自身より年上な嫌なおじさんだった。
とても好ましいとは思っていなかったが、慕っていた『お兄さん』の本性がわかった今、皇帝に寵愛され贅沢をする方がずっといいと思ったのだ。
しかし、丞相は、それは無理なのだと首を振るだけだった。
晧月が決して重華を手放そうとしないことだけは、明らかだったから。
「重華を戻すのは不可能だ。だが、おまえも新たに輿入れすることなら、できるかもしれん」
丞相としても、重華が皇帝の寵妃となったところで何の恩恵もなかった。
重華は自身の言うことを聞かないだろうどころか、重華と接触することさえ許されていないのだから。
それならば、改めて自身の思い通りになる娘を、輿入れさせたいと丞相はずっと考えていたのだ。
「私、皇帝に輿入れするわっ!!」
鈴麗は、瞳を輝かせた。
(そうよ、重華を戻せないなら、私が行けばいいんだわ)
鈴麗にとって、重華は自身の引き立て役でもあった。
というのも、丞相は鈴麗にとって、必ずしも優しいだけの父親ではなかった。
皇帝への輿入れだって嫌だと喚いても聞いてくれなかったし、難しい勉強だってやりたくないと騒いでもやらなければ怒られた。
そんな父が最も鈴麗に優しくなる瞬間が、重華の前だった。
重華本人はきっと、その場にいることに気づかれているとは思っていなかっただろう。
だが、物陰に隠れ、いつも羨ましそうに重華が様子を窺うのを、丞相も鈴麗も気づいていた。
そして、そんな時の丞相はとても優しい笑みを浮かべ、鈴麗のわがままもたくさん聞いてくれた。
「ねぇ、お父様、重華より私の方がかわいいですか?」
「もちろんだ。おまえだけが、儂の娘なのだから」
そう言って、丞相は自身と同じ鈴麗の黒髪を撫でる。
そんなやり取りが行われるのも、重華の前であればこそ、であった。
このやり取りの後、重華は必ず青ざめた表情でその場を走り去る。
鈴麗はそれを眺める時の、優越感が好きだった。
「ねぇ、重華より私の方が好き?」
やがてそんな質問を、鈴麗は使用人たちにも投げかけるようになった。
もちろん、重華が物陰から様子を窺っている時を見計らって。
「はい、もちろんです」
「鈴麗お嬢様の方が、愛らしいですよ」
皆がそうしていつも重華より鈴麗を選ぶのが、気分がよくて仕方がなかった。
重華が居なくなり、自身だけが家に残るとなると、そんな優越感も得られなくなってしまう。
そんなことはあってはならない、鈴麗はそう思ったのだ。
その日の翌日、鈴麗は丞相にも内緒で後宮に忍び込んだ。
もう、駆け落ちした時のような思いはしたくない、居心地が悪ければやはり輿入れなどしたくない。
そんな思いから、皇帝に輿入れする前に、やはりどんな場所か見ておかなければならないと思ったから。
だが、鈴麗はそこで重華を見つけて驚愕した。
鈴麗よりもずっと上等な着物と装飾品を身に纏い、いつもみすぼらしい姿だったのが嘘のように肌艶が良く美しかったのだ。
それこそ、鈴麗が生まれてはじめて、自身よりも美しいと思わずそう思ってしまうほどに。
鈴麗を驚かせたのは、それだけではなかった。
皇帝である晧月の容姿も、鈴麗が想像もできなかったほど美麗だったのだ。
(皇帝って、こんなに若くて格好いい人だったの!?)
自身よりも7つも年上だと聞いて、勝手におじさんだと決めつけたことを鈴麗は心底後悔した。
憧れだった『お兄さん』よりも、ずっと素敵だと思ったから。
容姿端麗であるだけでなく、皇帝らしい威厳のある立ち振る舞いもまた鈴麗の目を惹いた。
(こんなことなら、最初から私が輿入れすればよかった)
見目麗しい皇帝が、美しく着飾った重華へと寄り添うのを見て、鈴麗はそう思わずにはいられなかった。
(でも、これも、今だけよ)
きっと、父は鈴麗を皇帝の元へと輿入れさせてくれる。
そうすれば、皇帝だって重華よりも鈴麗を選ぶに違いないのだ。
重華は丞相の娘ということもあって、少しばかりいい思いをさせてもらっているだけに違いない。
鈴麗が輿入れさえすれば、皇帝の寵愛は鈴麗へと移り、重華は寵愛を失って、またみすぼらしい姿に戻るはず。
鈴麗は、そう信じて疑わなかった。
「お父様、早く皇帝との縁談を進めてください」
皇帝はもう、鈴麗の姿を認識した。
となれば、決して断られることはないはずだ、鈴麗はそう信じて父にそう告げた。
それから、数日後のことだった。
皇帝である晧月から、皇宮へと呼び出しがあったのは。
「わ、わたくしまで、行くのですか?」
そこには、戸惑ったような鈴麗の母の姿があった。
晧月が呼び出したのは、鈴麗だけではなかったのだ。
丞相と、鈴麗の母、そして鈴麗、必ず三人で来るようにとの通達だった。
(余程私が気に入ったから、家族にも会いたいのね)
家族まで呼び出すなんて、きっと破格の待遇で入宮できるに違いない。
鈴麗は、その隣で明らかな不審感を抱く丞相には気づくことはなく、ただ胸を踊らせていた。




