93. 交
「陛下、怒って、ますか……?」
しばし、無言が続いたことで、重華は少し不安になった。
きっと晧月だって、他の人たちと同様に、いずれ重華ではなく鈴麗選んでしまう。
安易にそう考え、勝手に不安になり、その上過呼吸まで起こして迷惑をかけてしまったことで、晧月の気分を害してしまったのではないかと。
「いや、むしろ気分がいい」
「え?」
重華は晧月の気分が良くなるような、楽しい話をしたつもりはない。
けれど、晧月の表情を見ると、確かに機嫌がよさそうで、重華はそれが不思議でならなかった。
「それだけ、おまえも俺の事を好いている、ということだろう?」
「えっ!?」
「なんだ、違うのか?」
晧月は重華から、顔を背けてしまった。
表情は見えないけれど、響いた声は、先ほどとは一転し、どことなく落ち込んでいるような気がして、重華は慌てて晧月の着物を掴んだ。
実は、晧月が顔を背けた理由はどうしても顔が緩み、口角が上がってしまうのを止められないため、表情を隠し声色だけで気落ちしたかのように振る舞っているだけなのだが、残念ならが重華がそれに気づくことはない。
「ち、ちがっ、ちが……っ」
必死に言葉を言おうとするが、あと一歩勇気が出なくて上手くいかなかった。
勢いがあったのは、着物を掴んだ時までで、徐々に勢いをなくし、どんどん声も小さくなっていく。
「ちがわ、ない、です……」
ようやく言えた一言は、本当に本当に小さくて、重華自身でさえなんとか聞き取れるほどだった。
それでも、晧月の耳にも、しっかりと届いたようで、嬉しそうに笑う晧月としっかりと目があった。
「へ、へい……っ」
呼びかけようとした重華の声は、不自然に途切れた。
なぜなら、気づけば晧月の顔が驚くほど重華の近くにあったから。
(い、今……っ)
自身に起きたことが、あまりにも信じられなくて、重華はしばし固まったままだった。
そんな重華をおもしろそうにしばし眺めていた晧月は、満足したのかゆっくりと立ち上がる。
「そろそろ政務に戻る。おまえは、ゆっくり休め」
それだけ言うと、晧月の足音はどんどんと重華から離れていく。
(く、口づけ、された……っ!?)
重華がようやく我に返り、がばりと起き上がった時には、もう晧月の姿はなかった。
(これはこれで、しばらく飽きないかもしれんな……)
翌日重華の元を訪れた晧月は、前日同様にやはり気分がよかった。
重華は先ほどから、晧月と目があうたび顔を赤くしては視線を逸らし、自身を落ち着けようと深呼吸をしている。
その仕草がなんだかとてもかわいらしくて、晧月はつい、何度も目をあわせようとしてしまうのを止められなかった。
そうして、何度も目があっては重華が目を逸らす、というだけの行為が続いている。
(息が、できなくなりそう)
過呼吸のような苦しさはないものの、重華はそう思わずにはいられなかった。
晧月と目があうたび、重華は前日の出来事を思い出し、顔が熱くなり、心臓がばくばくと煩く音をたてた。
息が止まってしまいそうな気がして、慌てて目を逸らし、呼吸を落ち着けようとした。
それなのに、落ち着かないうちにまた目があってしまい、状況は悪化するばかりである。
「ご、ごめんなさい、私……っ」
重華はそれ以上その場にいられなくて、それだけ言うと自室へ駆け込んだ。
すぐに晧月は部屋まで追いかけてくるかもしれない。
そうなれば、晧月を拒む手段など重華にはないだろう。
それでも、少しでも晧月と距離を取って、一旦落ち着きたかったのだ。
「本当に、飽きないな」
走り去る重華の後ろ姿を、晧月が楽しそうに笑いながら見ていることを、重華はもちろん知らない。
晧月は、すぐには重華を追いかけたりはしなかった。
おそらくそろそろ落ち着いただろう、そんな頃合いを見計らって重華の自室を訪問した。
少し時間を置いたのがよかったのかもしれない。
重華は晧月の姿を見ると頬を赤らめ目を伏せたものの、先ほどよりは晧月が近くに居ても平気になったようだった。
「おまえに、一つ約束をしよう」
重華の反応を楽しんでばかりだった晧月は、ようやく、今日訪れた一番の目的を口にした。
「この先、何が起ころうとも、蔡 鈴麗だけは俺の元に輿入れすることはない」
「え?でも、父は、きっと……」
「大丈夫だ。この件に関しては、おそらく皇太后陛下も、反対されるはずだからな」
どうして、反対されるのか、重華にはわからなかった。
丞相と皇太后は味方同士、そう教えてもらっている。
きっと敵対勢力の誰かが輿入れするよりも、鈴麗は歓迎されるのではないか、そう思っていた。
「もし蔡 鈴麗を輿入れさせれば、おそらく、俺の後宮で妃位の高いもの二人が、どちらも丞相の娘になってしまうだろう」
そもそも最初に鈴麗の輿入れの話があった時、丞相は嬪という破格の階級での輿入れを要求していた。
結果的に、嬪として輿入れしたのは重華になったけれど、おそらく次も同等かそれ以上でなければ納得しないはずである。
現在、晧月の後宮は重華以外は婕妤以下のものしかいないのだ。
どうあっても、後宮の中で一番高位な者と二番目、どちらがどちらになるかまではわからないが、重華と鈴麗の二人となることだけは間違いないはずである。
「そうなれば、後宮は丞相に牛耳られたも同然だ。皇太后陛下は、そんな状況を良しとするような方ではない」
たとえ、丞相にとっての娘が鈴麗一人だったとしても、周囲は決してそうは見ない。
事実がそうでなくとも、後宮が丞相に牛耳られた、そう見られる状況となることを皇太后は決して歓迎しないはずだと晧月は思っている。
「それに、きっと、今回は舜永も味方につけられるはずだ」
二人はすっかり仲良くなったようだ、そう思うだけで重華の顔は自然と綻んだ。
だが、そんな重華の表情を見た晧月の顔に浮かぶのは、苦笑だった。
重華が思うほど、まだ二人は仲の良い兄弟とは言えないだろうから。
「おまえに関わることなら、あいつは喜んで力を貸してくれるだろう」
重華は首を傾げている。
なぜなら、舜永が晧月に協力するのは、二人の関係が改善し仲良くなったからこそだと信じて疑っていないから。
自身が舜永に気に入られているなどとは、重華は夢にも思っていない。
晧月はそんな重華の考えが手に取るようにわかったけれど、あえて舜永の思いを伝えるようなことはもちろんしない。
気づいていないなら、むしろその方がいいと思っている。
「それでも、もし、お父様が諦めなかったら……」
「近いうちに、おそらく、自ら撤回することになるはずだ」
重華は父が簡単に諦めるような気はしなかったが、晧月は妙に自信満々だった。
(皇太后陛下に、舜永様まで味方なら、お父様にはどうすることもできないってことなのかな……)
まだ少し疑問は残ったけれど、重華はそうして自分を納得させた。
「本当は、この先、誰も輿入れさせない、と言えたらいいんだがな……」
晧月が皇帝である以上、それは無理だろうと晧月も思っている。
政治的なことで、どうしても受け入れざるを得ない瞬間が、あるかもしれないから。
国のことを考えるなら、全てを個人的感情だけでは断ることができないのが、皇帝である。
それでも、鈴麗の輿入れだけは、重華のためにも、何が何でも受け入れないつもりだ。
「覚えていてほしい。俺はいつでも、俺の後宮にはおまえだけが居ればいいと思っている」
手を握られ、真っ直ぐに視線を向けられ、重華はまたしても視線を逸らしてしまった。
どきどきして、鼓動が速くなって、また息ができなくなりそうな感覚を覚える。
それでも、重華は晧月の言葉を嬉しいと感じていた。
「だから、あらためて考えてみてくれないか。皇后になることを」
「えっ?」
「もちろん、急かすつもりもないし、無理強いするつもりもない。だが、確約が欲しい。おまえがきちんと考えた上で、答えを出してくれるという」
すがるような視線を向けられ、重華はようやく晧月としっかり目をあわせた。
(そっか、あの時、結局、私の答えは有耶無耶になったままだったから……)
晧月の告白に戸惑うだけだった重華に、晧月は何も強要しなかったし、何かを求めることもなかった。
ただ、真っ直ぐに晧月の思いや考えを告げただけだった。
(皇后になれって、言われているわけじゃない。ただ、考えて欲しいって言われてるだけ。それくらいなら……)
あれ以来、考えてみることすら、重華はできていなかった。
自身に言われたことなのだと、未だに信じられない思いもあって、現実逃避してしまっていたのかもしれない。
「考えます。しっかり考えて、答えを出します」
「ありがとう。待っているから、答えが出たら教えてくれ」
「はい、必ず」
時間は少し、かかってしまうかもしれない。
重華は皇后になるということがどういうことか、まだ理解できていないことばかりだから。
それでも、きちんといろんなことを知って、その上で自分自身の答えを見つけたいと、重華はそう思った。




